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今日のグルーヴ〈220〉

ソフィスティケイト(洗練)の危険性

プロとアマとは何が違うのか。それは僅かにレベルの差と言われた方がいる。僅かなレベルの差、という表現は言い得て妙である。私は、ここに一つ付け加えたい。


ソフィスティケイト(洗練)の差である、と。

ただし洗練されていることが良いとは限らない。洗練された結果、つまらないものになってしまう可能性はある。その理由は後述する。


たいていというか、ほぼすべての作曲家、音楽家は、国民、民衆から題材やヒントを得ている。民謡、民族音楽、教会音楽、軍楽隊…等、それらをヒントにし、クリエイトし、ソフィスティケイトさせることが音楽家のテーマであるに違いない。


実験的にオリジナルの音楽を発明した人、オリジナルの音楽をクリエイトしたという人も、多かれ少なかれ、民衆の音楽から影響は受けているはずである。


明治時代、小説家らによって行なわれた言文一致運動も、実験と言えば実験でありソフィスティケイトである。


音楽も言語も民衆のものが題材になり、それが新しい音楽、言語へと展開させていく。これこそが、作曲家、音楽家、演奏家、小説家の仕事であるが、そこにソフィスティケイトがなければ意味がない。


なぜなら一般国民は特にソフィスティケイトをしようとは思わないし、その必要もない。しかしだからこそ、作曲家、音楽家、小説家がソフィスティケイトという行為を行なわなければその存在意義はない。


しかしながら、冒頭に書いたようにソフィスティケイトの結果、つまらないものになってしまう危険性もある。何故、そのようなことになるのか。それはつまり、ソフィスティケイトと画一化とを混同しているからなのではないか。


演歌歌手の歌は、誰が歌っても演歌の歌い方である。クラシックの演奏家の演奏は、誰が弾いてもクラシックである。


スタイル(様式)の美とソフィスティケイトの美とは異なるものである。

スタイル(様式)の追求が、ソフィスティケイトの美の追究とはならない。

スタイル(様式)というものはあってないようなもの、そこに思い至ったとき、正にそこにソフィスティケイトの兆しがあるように思える。


今日もグルーヴィーな一日を!


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