今日のグルーヴ〈193〉
多くの演奏家は、アインザッツを完璧にしようとする。指揮の打点にぴったり合わせようとする。しかし、合わせようとして合うのと、結果的に合っている演奏とでは、似て非なるものがある。
特に管楽器奏者に、アインザッツの呪縛は、強迫観念のようにまとわりついている。私も当然のように思っていた。しかし、合わせようとしてはいけない。結果として合っている、という状態であるべきである。
何故なら、合わせようとする行為は不自然であるからだ。何も考えず必然として合っているべきである。
指揮があろうとなかろうと、それは同じであるはずだ。
もっと言えばアインザッツが完璧である必要があるのであろうか。完璧がベストならば、機械にやらせた方が良い。
すべての音楽が、アインザッツが完璧に揃っていなければいけない理由は無い。アインザッツがずれている方がいい場合もある。
いわゆるふつうのアンサンブルでは、息を合わせるために、文字通り息を吸って吐いてアインザッツを合わせるわけであるが、最初から息を吐き続けているだけのアンサンブルを観たことがある。
いったいどこでお互い音を出すのか、どうやって分かるのだろうかと不思議に思ったことがあるが、でも自然と出るのである。多少のずれは意図的で織り込み済みである。
チョン・ミョンフンがフィルハーモニア管弦楽団との共演で、「展覧会の絵」の冒頭のトランペット・ソロを振ったとき驚愕した。
普通は、合図のアウフタクトを振るのであるが、彼は、タクトを高く上げた所から、一定の速度で、下に降ろしただけなのである。
これを見てトランペット奏者はどうやって吹き始めるのか。私が吹くわけでもないのに焦った。しかし、ソリストはちゃんと出られたのである。
考えてみれば、いや考えるまでも無く、すべての音楽が、せーのー、どん、で始まるわけではない。
ぴったり合っているのがいい場合もあれば、ずれている方がいい場合もある。さらに言えば、そもそも合っているとかずれているという概念など意識の外、ということもある。
音楽は多種多様である。
グルーヴの概念、グルーヴを生み出すものには、ズレ、というものがあるのだから、アインザッツだけでなく、すべてにズレがなかったとしたら、それはテクノポップかもしれない。
今日もグルーヴィーな一日を。