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今日のグルーヴ〈186〉

玉木宏樹先生にとって、純正律の啓蒙は玉木ワールドの一つであった。ところが革命的音階練習はピタゴラス音律で演奏しなければならない。当然と言えば、当然であるが、音楽は、そう簡単に話がすむ世界ではない。そこが、音楽の難しいところでもあり奥深いところでもあり、魅力でもある。


私の結論であるが、純正律にこだわってはいけない。ただし純正の和音は活用すべきものである。その純正の和音もここぞというときに取っておいた方が良い。


では普段はどうするのか。

その前に、そもそも純正の和音もピタゴラス音律もその他の音律も、完璧に演奏することなどできない。数字的に完璧にするのであれば機械に任せるしかない。


所詮、限りなく純正の和音に近づけていく、ピタゴラス音律に近づけていくことくらいしかできないはずである。数字的に完璧が良いかどうかという話もある。


音律に関しては、17~18世紀あたりでは様々なものがあった。当時の音楽家は様々な苦心をしていろいろ作り出した。しかし、結局は、ほとんどが残らなかった。かろうじて、純正律とピタゴラス音律がなんとなく残り、大半は平均律の世界である。


良い音程、悪い音程とは何かという話にも繋がるが、結局は、聴いていて不自然でなければ、あとは自由である、と私は言いたい。実際のところ、そうするしかないのではないか。


音程に気を遣ったり、確認したりして準備をし、そして本番の演奏するのは至極当然だが、だからといって、チューナーの針をぴったり合わすことが目的なわけではない。


それより、旋法(モード)やグルーヴを意識すべきなのではないだろうか。


ところで、歌、とくにオペラ歌手の音程だが、私は、多くのオペラ歌手の音程が分からない。


ヴィブラートのせいだと思うが、アリアのメロディは知っているがその音程に聞こえない。それでも聴けてしまうから不思議である。尤も、聴けない場合もあるが。


演歌歌手の音程も独特である。よくこぶしを効かす、というが、こぶしとは、装飾音であろう。


歌手によって、独自のこぶしがあり、それが魅力にもなり得るが、下手をすると何を歌っても、その歌手の強烈な自己主張にしか聞こえないことが往々にしてある。


また、こぶしが上手いとか、上手くないとか、よく言われるが、下手をすると、単なる音程のごまかしでしかない場合も多々あるような気がしてならない。


しかし、良い意味でも悪い意味でも歌手は、楽譜から解放されている。楽譜から解放されていない器楽奏者は、その点は見習うべきである。そして究極的には音律や音程からも解放されるべきである。


最後は、理屈抜きで、人々の琴線を振るわすような演奏をしなければ、演奏する意味が無い。


これまでの話を全否定するような結論であるが、しかし、そこまでの過程は必要である。


実際、玉木先生の演奏は、あれだけ様々な理論を構築してきたのにもかかわらずすべての理論から解放された人間味溢れる琴線を振るわす演奏であった。


今日もグルーヴィーな一日を。

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