今日のグルーヴ〈185〉

ヴァイオリニストで作曲家の玉木宏樹さんは、いつも何かに怒っていた。音楽界のことに関しても、世の中のことに関しても。ただ、考えてみればごくごく当然の当たり前の真理をいつも彼は言っていたのであるが、当然の当たり前のことが通用しないのが、世の常である。


そういう世の中やクラシック音楽界に嫌気が差したのであろう。若い頃、早々にクラシック界から彼はドロップアウトして、ポップスやジャズやロック他の世界で、彼は自らの世界を、言わば「玉木ワールド」を築いていくのである。


劇伴や、ドラマのテーマも何千曲と作曲されていった。「大江戸捜査網」のテーマ音楽も作曲された。大江戸捜査網は、よく観たものだが、あまりにも玉木先生のテーマの印象が強すぎて、中身はほとんど印象に残っていない。


才能、という言葉を使うならば、彼こそその言葉を使うにふさわしい音楽家であった。


ある日の午後、玉木先生の事務所で取材をしていたとき、その晩、玉木先生がコンサートの予定があることを知った。あまりにものんびりしているので、私は思わず「練習しなくていいんですか!?」と聞いてしまった。


この「練習」という言葉は適切ではなかった。私は、ゲネ・プロしなくていいんですか?という意味で言いたかったのだが、この練習という言葉が、玉木先生の癇に触ったらしい。


「練習!? なんで俺が練習しなきゃならないんだ!!」と怒られてしまった。彼は、件の革命的音階練習でささっと、ウオーミングアップすれば、すぐに本番を迎えることができる達人だったのである。ゲネ・プロも必要のない人だったのかもしれない。


時々、言葉を間違えて、私の意図が伝わらなくて、怒られることがあった。知らない者の強みというのか、稚拙な質問をして怒られることもあった。しかし自分の馬鹿さ加減を認めれば、人間あとはむしろ楽である。


楽になった私は、どんどん稚拙かもしれない音楽の基本的なことを質問していった。そして、時々怒られもしたが、玉木先生は、怒ることがレクレーションのようなところがあったから、けっこうお互いに楽しんでいた節もあった。


不用意に「先生のような方が何故クラシックの世界に残らなかったのですか?」と不躾な質問もうっかりしてしまったこともある。


烈火の如く怒られた。

「俺の世界を全否定するのか!?」

焦った私は、苦し紛れに「先生のような方がクラシックの世界にいなかったことが、クラシック界にとって大きな損失だと思ったんです」と言った。言いながら我ながら、上手いこと言ったと思った。苦し紛れに言ったことだが、事実だと思った。


先生の怒りは収まらなかったが、私の言ったことが多少自尊心をくすぐったのかもしれない。一晩中、その話で激論を交わすことになった。


彼のような才能に溢れた人ならば、むしろクラシックの世界だけでは収まりきらないのは、当然かもしれない。


しかし、本当はあらゆる才能に溢れた人こそ、クラシックの世界を守るべきであると私は思う。


クラシックというのは、現代音楽の歴史であるからだ。現代の音楽を演奏するにふさわしい人こそ、クラシックを演奏するにふさわしい人である。


誤解を恐れず言えば、クラシックの演奏を“仕事”にしてはならない。クラシック演奏は確かにその時代時代の現代音楽に違いないし、商業音楽であったかもしれない。


しかし、クラシックとして現代に生き残ったのであれば、クラシック演奏家は、クラシック演奏を辛気くさいものにしてはならいし、現代に蘇らせなければならい。そして願わくば芸術に昇華しなければならない。それがクラシック演奏家の矜恃というべきものであろう。


というわけで、私は玉木氏をクラシックの世界へ引き戻そうと思ったのであるがその前に彼は亡くなってしまったのである。


今日もグルーヴィーな一日を。

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