今日のグルーヴ〈176〉
楽器に興味を持ってみたものの、どの楽器も、形になるまではかなりの時間と労力を費やすことがほとんどである。
また、さほど楽器を操ることに悩むこと無く、すいすいと演奏できた幸運な人もいつかはスランプに陥る。
結局、楽器を操ることについて、皆が悩み、奏法というものに興味を持ちだす。その結果、いろいろな奏法というものが開発され、メソードが編み出され、たくさんのエチュードが作曲される。
あらゆる楽器に、山のようなメソードやエチュードがある。トランペットですらいろいろなメソードとエチュードがありまたいかに高い音を出すか等、音を出すこと自体に皆が悩み、そして、ああでもない、こうでもない、と試行錯誤を繰り返す。
これに費やすほど、人生は長くない。世の中には、一生かけてもやりきれないほど、楽曲がたくさんあるのだ。一生掛けて奏法に悩むのは時間の無駄である。妥協しながら演奏するのもフラストレーションである。
仮に一生をかけて画期的な奏法を習得したり、編み出したりしたとしても、その奏法を謳歌する時間が残っていないのである。悲劇だか喜劇だか分からない。
苦労に苦労を重ねて、楽器をある程度習得したとしても、すぐに限界が来るだろうし、下手をすると体を痛めかねない。
苦労に苦労を重ねたであろうことが想像されるような演奏に、聴衆は魅力を感じないだろう。聴いていて苦しくなるからである。
楽器は一生をかけて修行するものだと、人生観を開き直る方法もあるが、それは演奏者自身のナルシズムであってその人生観に聴衆が興味をもつとは限らない。
ゆえに演奏者は苦労をしないで、楽な奏法を身につけるべきなのである。音楽性というものは嫌でもついてくるものだ。
何を絵空事を、と言われそうであるが、少なくとも、管楽器では真理であると私は思う。
管楽器に限定して誤解を恐れず、あえて乱暴に言えば、奏法は一つだけである。
それは、いかに楽にいい音があらゆる音域で出すかに尽きる。その音が出れば、いくら演奏しても疲れない。あとは最小限のトレーニングで、たいていの楽曲は演奏できるはずである。
ではいかに楽にいい音を出すかである。これが一番重要なことである。
これは稿を改めたいが、一つ言えるのは楽に演奏するためには、文字通り、楽に演奏することである。楽に演奏するために苦労して演奏してはならない。
今日もグルーヴィーな一日を。