top of page

ニューアーク・ハイスクール・バンドとの邂逅

リチャード・パンチャス氏との奇妙な再会

青木日出男(Tp)

 

星条旗で大失敗

 

私が神奈川大学吹奏楽部に入部した一年生の時(1975年)に経験した卓越なるビッグ・バンド、「ニューヨークのニューアーク・ハイスクール・バンド」との出会いは、その後の私の仕事に、まさかというべきか、重要な伏線となっていました。尤もニューアーク・ハイスクール・バンドとの出会いは、私にとっては苦い思い出でした。

 

元々、私達一年生が入る前から、ニューアーク・ハイスクール・バンドとの交流は、行事の一つとして予定されていたのでしょう。当時の部長でいらした三年生の桑原先輩方がマネジメントされていました。

 

交流の一環として、日本語の堪能なバンドリーダーが神奈川大学吹奏楽部を指揮することになり、スーザの「星条旗を永遠なれ」を振られました。この曲には、トリオの部分だったか、トランペット・パートにシグナルのようなパートがあります。このフレーズは吹かれないことも多いですが(6/6のサマーコンサートでは、グロッケンシュピールがそのパートを演奏していました)、彼は、そのパートをきっちり要求されました。どういう経緯で廻り巡ってきたのか忘れましたが、私が吹くことになったのであります。

 

ところが、さらっていないうえに、気後れしたこともあって、まったく上手く吹けませんでした。できれば、ここはさっさと過ぎ去ってほしいと思いましたが、容赦なくきっちり、要求されました。

 

「トランペットのパートはどなたですか?」

 

私は、心臓が凍り付きそうになりました。逃げも隠れもできない状況、どうにもならない状況、弁慶の立ち往生とはこういうことなのか、と思ったほどでした。

 

(この事は、トラウマになっていて、今でも、一年に一回くらい夢を見ます。内容は、これから本番でソロを吹く、でも、さらったことがない、というものです。)

 

私は、素直に「吹けません」と言えばよかったものを、

 

「自信がありません」

 

などと、わけのわからない言い訳がましいことを言ってしまいました。

すると、

 

「何を言われるのですか。 日本はジシンのたくさんある国ではないですか」

 

私は、自分が上手く吹けないことの恥ずかしさと悔しさと、彼の洒落に頭の中が混乱し、屈辱的な状況の中で、きっと一刻も早く、無意識のうちに、この“事件”を記憶から抹殺しようとしていたのでしょう。ですから、彼の姿形、名前を本当に忘れていました。というか最初からまともに覚えていなかったと言う方が正確かもしれません。これは話を作ったわけでなく本当です。

 

 

アジア・ユース・オーケストラ(AYO)を

実現した人

 

卒業してから、十年後くらい(1988年?)に、あるアメリカ人が、私が当時仕事をしていた音楽雑誌での取材を希望されてきました。その方は、大きな夢を持っていました。

 

アジアの音楽学生や若者達によるオーケストラを作って、アジアを演奏旅行して廻る、というのです。もちろん、若者達にはお金がありませんから、移動費、宿泊代、食事代など、すべて主宰者、スポンサーがもつ、というのです。

 

そんな夢物語、半分冗談だろうと思っていました。しかし、その一、二年後だったと思いますが、彼は、本当にそのオーケストラ、すなわちアジア・ユース・オーケストラ(AYO)を作りました。

 

AYOの本部は香港にあります。毎年春先に、アジア各国でオーディションをして、約100名ほどの若者達を集め、7月半ばくらいから3週間くらいの合宿をし、合宿では、各パートは著名な演奏家からの講習を受けたり、リハーサルをしてオーケストラとしての実力をつけ、8月の4週間くらいで、演奏旅行をします。若者たちにとっては、この二ヶ月間には、様々なドラマがあり、挫折や成長があり、まさに青春そのものなわけです。

 

スポンサーは、アジア各国の企業です。このスポンサー探しに彼は並大抵でない努力をされたようです。AYOには、日本、韓国、台湾、中国、マレーシア、香港、シンガポール、タイ、ベトナム、インド…といった国の若者が参加しています。そして、すでに30年以上にわたって、この活動は継続されています。過去の団員からは、プロの演奏家になった人もたくさんいます。

 

私は、何度か、AYOを取材しました。合宿地の熊本へは一度、香港へも二度行きました。熊本では、当時、名誉音楽監督、指揮をされていたヴァイオリンの巨匠でもある故ユーディ・メニューインに話を伺ったこともあります。

 

香港での取材では、リハーサルの合間に、まずは日本人の学生さんを取材したいと思ったのですが、顔だけ見ても、意外と日本人なのか、他の国の方なのか、分かりません。おそるおそる「あのー、恐れ入りますが、日本の方ですか?」となどとおかしな聞き方をしたものです。そのうち、当時は、髪を染めている方が日本人である確率が高いことが分かりました。

 

そして壮大な夢を実現されたアメリカ人への取材も何度もしました。私は、なんとなくどこかでこの人を見たことがある、でも、思い出せない、とずっと思いつつ、その方を取材していました。彼は、AYOを作って、二十年間は、ずっとマネージメント、つまり裏方をやっていました。本当は指揮もしたかったはずです。

 

でも、彼は、『指揮をしたいがためにAYOを作ったんだ』と言われることを非常に嫌っていました。しかし「今や、そのような動機でオーケストラを作ったのだとは、もう決して誰も揶揄しないだろうし、そもそもそうだとしても、二十年もAYOを支え続けた努力に対して指揮という褒美が得られたとして、誰が文句を言うでしょうか」と、私の思いを言ったこともあります。

その方はリチャード・パンチャスという方でした。

 

 

パンチャスvsパンチャス

 

2010年の秋頃だったと思いますが、三十年以上ぶりに神奈川大学吹奏楽部のOB会に出たとき、二次会の中華料理店の美珍で、皆で昔話、思い出話をしているときに、別のテーブルにいた同期の浅井邦啓君の会話から、ニューアーク・ハイスクール・バンドとか、パンチャス、という名前が出ていたのを正に小耳に挟んだように聞こえてきました。

 

あれっ、パンチャスって、もしかしたら、AYOのパンチャスさんと関係あるのかな。だんだん、潜在意識から記憶が蘇るのを感じました。

 

そういえば、あのニューアーク・ハイスクール・バンドのリーダーはパンチャスさんのような顔をしていたような、あっ、まさか同一人物なのだろうか、などと思いつつ、後日、浅井君に電話して、フルネームを確認しました。すると、ニューアーク・ハイスクール・バンドのリーダーは、リチャード・パンチャスさんだよ、と言うではありませんか。

 

ニューアーク・ハイスクール・バンドのリーダーとAYOのパンチャスさんとは同一人物だったのか、やっぱりそうだったのか。間違いないと思いましたが、早くパンチャスさんに確認したいと思いました。

 

それにしても、私は神奈川大学吹奏楽部で、彼と出会っていたにもかかわらず、それに気がつかないで、ずっとお会いしていたのかと思うと、なんと切り出したらいいのか。しかしここはありのままを言うしかないと思いました。

 

 

お元気でしたか?

 

忘れもしない2011年3月10日、私は、パンチャスさんに取材する機会を得ました。そして、話を切り出しました。パンチャスさんは、昔からずっと日本語の堪能な方です。

 

私 「パンチャスさん、お久しぶりです。取材の前に、つかぬことをちょっとお聞きしたいのですが、パンチャスさんは、AYOのプロジェクトをなさる前に、もしかすると、昔、ニューアーク・ハイスクール・バンドのリーダーをなさっていませんでしたか?」

 

パンチャス 「ええ!していましたよ」

 

(やっぱりそうだったのか)

 

私 「バンドと一緒に日本に演奏旅行に来ましたよね」

 

パンチャス 「ええ。来ました。」

 

私 「その演奏旅行の中で、神奈川大学吹奏楽部と交流をもちましたよね?」

 

パンチャス 「ええ。神奈川大学吹奏楽部、よく覚えています。」

 

私 「その時、神奈川大学吹奏楽部をスーザの「星条旗を永遠なれ」で指揮されたことを覚えていますか?」

 

パンチャス 「はい、覚えています。」

パンチャスさんの顔が、だんだん怪訝な雰囲気になってきました。

 

私 「その時、トランペット・パートの部員が上手く吹けず、『ジシンがありません』と言っていたのを覚えていますか? そしてその人間にパンチャスさんは『なにを言われるのですか? 日本はジシンがたくさんある国じゃないですか』と言ったのを覚えていますか?」

 

パンチャス 「……ああ、そんなこともありましたね。」

 

でも、なんで? という顔をパンチャスさんはされていました。

 

私 「そのトランペットを吹いていたのは、私です」

 

パンチャス 「……???」

 

私 「パンチャスさんとは、AYOで初めてお会いしたと思っていましたが、もっとずっと前に、神奈川大学吹奏楽部で、すでにお会いしていたんです。私は、その時の失敗の恥ずかしさのあまり、ずっとその記憶を失っていたというか、抹殺していたのだと思います」

 

目をまん丸にして、パンチャスさんは絶句されていましたが、次の瞬間、

「オーマイガー! ファンタスティック! ファンタスティック!」

と絶叫されました。

 

パンチャス 「アッハッハッハ! そうでしたかぁ……。お久しぶりです。三十数年ぶりですね。お元気でしたか?(笑)」

 

この話は、さっそくOBの掲示板に書こうとしたのですが、まさにその日、あの東日本大震災が起きました。さすがにあのタイミングでこの話を書くことは憚られました。

 

◇ ◇ ◇

 

リチャード・パンチャスさんは、現在もアジア・ユース・オーケストラ(AYO)http://ayonihonjimukyoku.com/の音楽監督として活躍しています。指揮もなさっています。毎年八月の終わり頃、日本でコンサートをしていますので、もし、ご興味があったら是非聴いてください。パンチャスさんの情熱は燃え続けています。夢を実現させるその実行力、強い意志には、ただただ頭が下がる思いであります。

 

詳細は、まだ発表されていませんが、今年は、8月3日(金)から8月25日(土)までの間、 中国5都市、香港、台湾2都市、日本2都市にて公演を行う予定で、日本公演は、神奈川県綾瀬市で8月23日(木)、東京で8月24日(金)、25日(土)に開催予定です。演目は、ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー」、プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」などが予定されているそうです。

 

 

 

 

 

 

 

 

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page