ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第149回
ギトリスになろう!
一からトースターを作った人がいるらしい。
いや、“ゼロ”からか。
『ゼロからトースターを作ってみた結果』 トーマス・トウェイツ著
プロフィールにはデザイナーさんだと書いてあるが、
件のトースターは、大学院の卒業制作として行なったもの。
このトースター・プロジェクトは各国メディアで話題となったし、
日本でも取り上げられたから、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。
「一からトースターを作る」と聞いたとき、
あなたは、どの程度の“一”を思い浮かべただろうか?
「プラモデル的な?」
「いやいや、それじゃあ『一から』とは言えないのでは?」
「きっと部品を探してくるところから始めるんだろう?」
「え~、部品を作るところからじゃない?」
本の表紙写真を見れば、
出来上がりのトースターの怪しい造形にまさかと思う。
が、その「まさか」だった。
彼の作ったルールはこうだ。
ルール1
作るトースターは店で売っているようなものでなければならない。
・プラグをコンセントに刺すタイプの電気トースター
・2枚のパンを両面同時にトースト
・一般的に「ポップアップ・トースター」と認識されているもの
・トーストする時間を調整できる
ルール2
部品はすべて一から作らなければならない。
ルール3
自分(一人)でできる範囲でトースターを作る。
・陸上を車で旅することは可。
(飛行機は不可=産業革命以前に同じ役割のものがないから)
・一般的な道具の使用は可。
(電気ドリルは可=本質的に手動ドリルと同じものだから)
創作期間9カ月、移動距離3060キロ。そう、彼は、
本当に“一から”トースターを作ろうと試みたのだ。
鉄を採掘して鋼鉄を作るところから…。
☆
作業は、既成のトースターを、
リバースエンジニアリング(分解)するところから始まる。
最終的に157のパーツ、404個の部品となるが、
バラになった部品を材料別に分けてみて、彼は呆然とする。
最低でも17種類の金属、18種類のプラスチック、2種類の鉱物、
1つの「なんか妙なもの」が目の前に並ぶ。
そこで彼は、材料は置き換えられるものは置き換えると決め、
そうして彼は、その材料を手に入れるために行動を開始する。
何だか、少し、我々がする作業に似ている気がする。
作業は、課題の楽曲の楽譜を、
アナライズ(分析)するところから始まる。
フレーズを切り出し、モチーフを拾い出す。
バラになったモチーフを同じパターンのものに分ける。
それを演奏するのに必要なテクニックをピックアップする。
あれ? どうしよう。 できない(不得意な)テクニックがある。
そこで「私」は、置き換えられるものは置き換えて誤魔化す(‼)と決め、
そうして「私」は、それぞれの奏法を徹底するべく練習を開始する。
彼はトースターを作ることができたのか?
「彼が望んだトースター」ということなら、多分「ノー」である。
ある一人の学生の、無謀な試みが失敗するまでの過程が描かれた本。
なのに、なぜ、こんなに面白いんだろう?
最後にある解説には、「世界の見え方を変えてしまう」なんて書いてある。
確かに、「私たち現代人は高度な科学に基づく工業文明の社会に生きているがゆえに、その成果が自己の実践的な能力だと錯覚しがちだ。だが、実際の個々人は何もできない。」
でも、そんな小難しいことは考えずに、
一緒にトースターを作る過程を楽しみたい。
だって、彼、楽しそうだもの。
うん。そういう意味では、
「世界の見え方を変えて」くれる本なのかもしれない。
楽譜への積極的なアプローチも、たまにはいいんじゃない?
その方法が間違っていたとしても、失敗したとしても。
だって、“創造”の一過程であるべき練習が、
ただの“鍛錬”のための練習になっちゃうのはつまらないもの。
さあ、言ってみよう!=「今日の私はギトリスよ!」(笑)
部分的成功はあったものの実質的には失敗、そのことを認めながら、
彼は、このプロジェクトを通じて多くのことを学ぶことができたと語る。
失敗から学ぶことは多い。
と、失敗続きの人生をポジティブに語ってみた。
☆
一から。
「何かを本当に最初からスタートさせる」こと。
「はじめから」「何もないところから」
「はじめ」って? 「何もない」って?
一からアップルパイを作ろうとしたら、まずは宇宙を創造しなくてはならない。
~カール・セーガン(天体物理学者、作家、SF作家)
“はじまり”について考える。
『数学する身体』(森田真生著)の「はじめに」の一文が好きだ。
そこには こう書かれている。
「人はみな、とうの昔に始まってしまった世界に、ある日突然生まれ落ちる。自分が果たして『はじまり』からどれほど離れた場所にいるのか、それを推し量ることすらできない。」
ヴァイオリンを「一から」学ぶ人がいる。
室内楽を「一から」学ぶ人がいる。
オーケストラを「一から」学ぶ人がいる。
いやいや、
新入生勧誘で騙されるようにしてオーケストラに引き摺りこまれ、
それまでまるで縁のなかったクラシック音楽を、
「一から」学ぶ(学ばされる?)人だっている。(笑)
彼らと自分とでは、『はじまり』までの距離が違う。
自分とて、「一から」勉強したはずなのだが、
それは遠の昔、まったく覚えていない。
どう学んだのか、どうしてできるようになったのか、
なかなか思い出せない。全く思い出せないこともある。
そんな自分の感覚で、つい、他人を測ろうとしてしまう。
他人ができないと、「どうして、できないの?」と苛立つこともある。
自分の“はじまり”を思い出せなくとも、その立場を、状況を理解し、
正しい所へ連れ行く努力をしなければならないというのに。
ときに、「一から」ではなく、
「ゼロから」に近い人もいて、絶句する。
でも、起点に立ったら、歩を進めるしかない。
がんばれ!と、心の中で必死に応援する。
☆
アマチュアの友人達とのアンサンブル勉強会、
年に二回ほど集まれる人が集まって、室内楽を勉強する。
メンバーそれぞれ、各オーケストラに所属し、
十年二十年と、その能力を高める努力をしてきた。が、
さらなる高みを目指すために、「アンサンブルとは何か」と問い、
自身の問題点の炙り出し、掘り下げ、技術の獲得を目指す。
本番はない。あくまでも、自身の向上が目標だ。
本番があると、曲の完成が優先される。本来、
その過程と結果は同じものであることが理想なのだろうが、
個人的な問題が噴出したりもして、なかなかそうもいかない。
個人でする、日常の練習を思い返せば、
本番のための練習と、自身の技術向上のための練習は、
たとえ、内容が同じであってもスタンスも意味も方法も違う。
それと同じなのだが、こと“アンサンブル能力”となると、
それを獲得するためには、誰かを巻き込まないとできない訳で、
迷惑を掛け合うことをよしとしてくれるメンバーが必要だ。
この試みが始まったとき、
オーケストラ歴は云十年でも、室内楽歴はゼロ年という人がいた。
経験はあっても、オーケストラ感覚の延長だったという人もいた。
みな、まさに「一から」である。
そういう彼らの成長過程を見ることができるのは有意義だ。
同じ世界に住む、ということ。
同じ時を刻む、ということ。
同じ言葉を使う、ということ。
そして…。
一から見直す。
意外に、そういうチャンスはない。
逃すな! 違うか。
作れ! か?
☆
なぜ、“トースター”だったのか。
「あると便利、でも、なくても平気、比較的安く手に入って、取り敢えず買っておくかという感じで、壊れたり古くなると捨てちゃうもの」のシンボルだから。
ちょっと、トースターが可哀想?
そして、
SF小説ダグラス・アダムスの『ほとんど無害』で、
技術的に未開の惑星で主人公が呟く言葉=「自分の力でトースターを作ることはできなかった。せいぜいサンドイッチぐらいしか彼には作ることができなかったのだ」
これが印象に残っていたから。
そう言えば、
なんとなく、執着を感じるものがある。
自分の場合は、目覚まし時計だ。
実は、小学生の頃、
自分用の目覚まし時計を分解して、組み立て直したことがある。
きっかけが、星新一の小説だったことは覚えているのだが、
どうしてそんなことをしようと思い立ったのかは、記憶にない。
もちろん、両親には内緒だ。
自分用とはいえ、買ってくれたのは両親だ。
でも、完璧に組み立て直せる自信があった。(なぜ?笑)
大好きだったねじ回しを片手にする解体作業の楽しさ。
それを逆工程で組み立てていくときのワクワク感。
そして。完成!
完璧だ。ちくたくと長針が秒を刻む。
目覚ましのベルも、今まで通りに鳴る。
やった!やったぞ!
心の奥底で勝利の雄叫びを上げたとき、気付いた。
小さなネジが一つ、足元に落ちている。…え?
どうしよう。直さなくちゃ。でも、時計は動いている。
一からやり直す元気もなかった。封印した。
毎夜、どうか壊れないでくれと祈りながら、
布団の枕元にそっと、その時計を置いた。
3ミリほどの小さなネジは、どうしても捨てることができず、
小さな紙袋に入れて、勉強机の片隅に隠しておいた。
いつの間にか、なくしてしまったけれど。
あのネジは、どこにいったんだろう?
☆
新たな気持ちで、ギトリスを聴いてみた。
楽器を出して、少しだけ、ギトリスへの道を歩いてみる。
う~ん。どうしよう。
ギトリスになるのは、今日だけにしておこうかなっ。
Ivry Gitlis - Kreisler
Schon Rosmarin
Liebesleid