ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第148回
やわらかな手首
行きつけの本屋さんの、科学書の棚の隅っこに、
同じ顔で静かに並ぶ、背表紙たちが目に留まった。
「岡潔」「野尻抱影」「寺田寅彦」「中谷宇吉郎」
つい数日前まで、そこにはなかった。見れば、
昨年12月から刊行され始めた新シリーズのようだ。
突然現われた彼らはみな、キラキラ輝いていた。
どうしよう、まとめて連れ帰りたい。
目次を見る。読んだものもある、持っているものもある。でも。
財布の中身を確かめ、えいやっと大人買いする。
寄り道を止め、ドキドキしながら、まっすぐ家に向かう。
まずは…。やっぱり、寺田寅彦だよね。
だって、『バイオリンを弾く物理学者』だもの。
あれだけある随筆の中から、何が選ばれているのだろう?
収録されているのは、たった14編。
あった! あった!—“「手首」の問題”
違う装丁の本で読むと、何度も読んだ文が、
まったく別もののような感じがするから不思議だ。
以前にも紹介したけれど、冒頭をもう一度。
「バイオリンやセロを弾いて好い音を出すのはなかなか六ケかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手と上手ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を絃に押し付けこすりつけてそうして強いていやな音を搾り出しているように見えるが、上手な玄人となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中から易々と美しい音の流れを抽き出しているかのように見える。これは吾々素人の眼には実際一種の魔術であるとしか思われない。」(~「『手首』の問題」)
タイトルを見ても分かるように、
“手首”というキーワードで、この話は展開していく。
そうして語られているのは、その「柔軟性」について。
☆
「普通の初等物理学教科書などには絃が独立した振動体であるようなことになっているが、あれも厳密に云えば絃も楽器全体も弓も演奏者の手もおよそ引くるめた一つの系統として考えるほうが本当だと自分には思われる。そうして音の振動数は主として絃で決定するが、音色を決定する因子中の最も主要なものが手首の運動を司るところの筋肉の微妙な調節にあるように思われるのである。
このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩した状態になっていて、しかも如何なる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。」(同上)
そう。手首は柔らかい方がいい。
スピッカートやヴィブラートを苦手とする人たちが、
その原因究明の過程で、「手首の硬さ」を指摘されることは少なくない。
左手。
運指速度が上がらない。弦の移行や重音時の指の動きが鈍い。
右手。
発音がコントロールできない。移弦や重音&アコード各音の音質が荒い。
こういった問題に関しても、その原因が、
まず誰しもが考える『指』ではなく、実は、
『手首(の硬さ)』にあった、などということもある。
硬い手首での演奏が腰痛や首の痛み、頭痛を引き起こすこともあって。
そもそも、指に関する諸問題(俊敏性、独立性、柔軟性等)は、
手首のそれと切り離して考えることはできないし、総じて、
身体全体の問題である。「なぁんだ、結局、また『脱力』?」
いやいや、“柔軟性”と“脱力”とでは、少し話が違う。
「どう抜くか」ではなく、「抜くためには」という話なのだ。
ちなみに、手首が固まってしまう理由の一つに、
親指の位置と向きがある。この影響はかなり大きい。
例えば。
左手の親指—スクロール側に開き過ぎても、内側に入り過ぎても、
手首の動きは制約される。手の構造上、そうなるのだから、
こればかりはどうにもならない。持ち方を検討し直すか、
それこそ、親指を柔軟に臨機応変に使いこなすしかない。
親指をネックから少し離し(浮かせ)て手首を振る、という
ヴィブラートの練習法を教わった人がいるかもしれない。これは、
親指を解放すると手首が楽になる、その感覚を覚えるためのもの。
親指を離すことで手に力が入ってしまったら、それは逆効果でしかない。
例えば。
右手の親指—フロッグのU字の部分に嵌めこむ、
或いは、スティックを下から支える感じで、
親指の腹を、完全に上に向けてしまうと、
これもまた、手首に力が入りやすい形となる。
指を楽にしたいのなら手首を、
手首を楽にしたいのなら親指をチェックしましょう!
といったところだろうか。
☆
さて、手首だが、
もちろん、グニャグニャ動けばよいというものでもない。
「手首を柔らかくして」「手首を使って」というと、
過剰に動かしてしまう人も多いが、これもまた違う。
“柔軟性”とはまさに、『(微細な)変化に対する(弾性的)反応』。
とはいえ、それが行なえる手首を作らなければならない。
可動域を広げ、いわゆる柔軟性を高める。
手首の硬い人だけでなく、冬場など身体が硬くなりやすい時期には、
手首のストレッチを導入するとよいかもしれない。
(お風呂の中で、ゆっくり動かすのがいいのだとか)
ただし、ストレッチもトレーニングも練習もし過ぎないように!
細かく密な動作の反復や、長時間の酷使は手首を痛める可能性が。
手首の動きの可動域(角度)を参考までに。
屈曲(掌屈):まっすぐ立てた手を、手の平側に倒す。0°~90°
伸展(背屈):まっすぐ立てた手を、手の甲側に倒す。0°~70°
橈屈:まっすぐ立てた手を、親指側に傾ける。0°~25°
尺屈:まっすぐ立てた手を、小指側に傾ける。0°~55°
回内&回外:手首を左右に回転させるような動き。0°~90°
*厳密に言うと、回内&回外の動きは手首の関節ではなく、前腕の二本の骨(橈骨
と尺骨)で行なっている。
☆
仕事のことなど忘れて…と読み始めた本だが、
なぜか、どの本にも音楽の気配がする。
物理学者で、雪に魅せられた中谷宇吉郎。
大雪山の頂上近くに設営した雪の研究室の中で顕微鏡を覗く、
そんな彼を襲うのは『夜の沈黙』。
「えぞ松の梢を渡る風の音、入り口の幕のばたばたと鳴る音、それ等は静かさを破るものではなく、沈黙をひとしお強調するものである。
全然音のない世界には、静かさも、また無いのであろう。放送局の防音室の中にあるものは、静かさではなく、音の死骸なのである」
(~『大雪山の夜』)
英文学者で天文民俗学者、「星の文人」と呼ばれた野尻抱影。
ツィゴイネル・ワイゼンを聞きながら、東京大空襲で焼失した、
有楽町のプラネタリウムと、そこの解説者だった音楽院出身の亡き友人を想う。
その彼が、夜明けのシーンでよくこの曲をかけていたのだという。さらに。
「トロイメライなどの静かな音楽の間に、太陽がシルエットの陰に沈むと、しばらく西は『水いろの薄明』で、宵の明星が、時には水星も低くにじんでいるが、それも暮れて、ドームの天井はさんぜんたる星空となる。この瞬間はいつも声をあげたいほどの美しさだった」(~『プラネタリウム』)
数学者で、随筆家の岡潔。
『生命』という題で書かれたエッセイの一文。
「情緒(=音曲)」という言葉を中心に置き、
生命とは、生きるとは、文化とは、教育とは、と話が広がっていく。
「人の音曲の中心はその人固有のメロディーで、これを保護するためにまわりをハーモニーで包んでいると思われる。そんなデリケートなものなのだから、たえず不協和音を受け取っていると、固有のメロディーはこわされてしまう。そうすれば人の生きようという意欲はなくなってしまうのであろう」
それにしても、
同じようなものを聴き、同じように心を震わせているのに、
いざ、それについて語るときの視点は本当にそれぞれだ。
音楽へのアプローチの違い、そこにいつも感動する。
そんな風に音楽を聴くことができたら。
そんな風に演奏を見ることができたら。
そう思うこともある。
☆
「役所でも会社でも云わば一つのオーケストラのようなものであってみれば、そのメンバーが堅い手首で銘々勝手に激しい轢音を放散しては困るであろうと思われる。悪く云えば「要領よく誤魔化す」という甚だ不祥なことが、善く云えば一つの交響楽の演奏をするということにもなりうる。めいめいがソロをきかせるつもりでは成り立たないのである。」(~「『手首』の問題」)
若干、引っ掛かる物言いもあるが、
つまりは、そういうことなのだろう。
新明解国語辞典にはこう書いてある。
『手首』=「手と手のひらとをつないでいる屈曲自在の部分」
屈曲自在。いいなぁ、この言葉。
『手の五〇〇万年史』の著者フランク・ウィルソン、
彼が手の働きに注目することになったきっかけはピアノだった。
また、『手と脳』(久保田競)という本では、
本文1ページ目に「ピアニストの手は…」という一文が出てくる。
手について語ろうとすると、
『演奏家の手』は欠かせない、ということだろうか。
冬の名残のまだ去りやらぬ、冷え込みの厳しい日、
悲鳴を上げる手をさすりながら、祈る。
屈曲自在の手首になぁれ。
やわらかなやわらかな手首になぁれ。
演奏家の手になぁれ。
Alexander Markov:Paganini Caprice no.1