ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第147回

もし、あなたがいなければ。

ショーソンのポエムが好きだ、そう言うと、彼は、

「俺はショーソンとメンデルスゾーンは嫌いだ」と小さく言った。

そして、「シューマンもプーランクも嫌いだ」、と。

メンデルスゾーン? シューマン? プーランク?

彼らとショーソン、一体どういう関係があるというのだろう?

頭に浮かんだ疑問に答えるかのように、目を伏せた彼は呟く。

「金の苦労を知らない奴の音楽は嫌いなんだ」

 

同じ音大の仲間内にあって彼は、絵に描いたような苦学生だった。

学費は両親が借金をして払い、生活費は自分がバイトをして稼ぐ。

「あいつさぁ、今お金なくて、ご飯に塩かけて食ってるんだって」

実家から送られてくるコメが生命線、なんて話を、

自身の耳で聴くことがあるとは、ましてやそれが、

近しい間柄の人間の話であることが、一瞬信じられなかった。

 

「生活感がない」、そんな風に言う。

「生身の人間の匂いがしない」、そんな風にも言う。

「帰る場所のある奴の音楽だ」、そうも言う。

「そういう音楽を、どうにも身体が受け付けないんだ」

 

そうなのだろうか? 

彼らの音楽は、本当にそういう音楽だっただろうか?

そう感じたことも、そんな考え方をしたこともなかった自分には、

その意見に賛同することも、反論することもできなかった。

「でも、やっぱりショーソンのポエムは好き」とだけ、彼に告げた。

 

ヴィオラに魅せられて後、仕事はヴィオラ一本に絞ったが、

ヴァイオリンを捨てることができなかった。それは、

どうしても弾けるようになりたい、ヴァイオリン曲があったからだ。

バッハの無伴奏、シベリウスのヴァイオリン協奏曲、

ドビュッシー、ラヴェル、ブロッホ、ビーバー、イザイ、

それから…それから…。弾けるようになりたい曲、いっぱいあった。

 

そのリストのトップ5に入っていた、ショーソンのポエム。

 

 

確かに、ショーソンの生まれた家庭は裕福だった。

自身も上流階級の娘と結婚し、子供にも恵まれた。

豪奢な邸宅に住み、各地に別宅を持っていた。

素晴らしい数々の美術品を所有していた。

人が羨むような綺羅星の如き友人が多数いた。

そんな彼は、お金のために作曲する必要がなかった。

 

もちろん、人の幸せはそれだけでは量れない。

 

ショーソンの両親は、以前にエルネストと名付けた子供を一人失っていた。

それもあってか、虚弱だったショーソンには細心の注意が払われたという。

早々に私立の教育機関に預けられ、その後は一人の家庭教師の手に委ねられる。

その家庭教師を介して、ド・レイサック夫人のサロンに出入りすることになるが、

そこで出会ったのは、年嵩の文学や絵画、音楽など各界の著名人たちだった。

これは、ショーソン十代半ばの話である。

 

早熟だった彼は(そうならざるを得なかったのだろう)、

将来について悶々と悩んだ挙句、音楽家になりたいと父に告げる。

が、見事に反対され、両親の意に沿うべく法学の勉強を始める。

二十歳を超えたところで、無事、法学士の資格を得たショーソン。

満足した父は、突然、音楽の勉強を再開してもいいなどと言い出す。

困惑しつつも、ショーソン家のすぐ近くに住んでいた、

という事情もあって、若き成功者マスネに師事することと相成る。

 

パリ音楽院にも籍を置いた。尊敬するフランクにも学んだ。

当然の流れでローマ賞に挑戦するが、これに失敗。

また悩んだ挙句、26歳でパリ音楽院退学。28歳になった年、

またまた悩んだ挙句、ルノワールの計らいで知り合った女性、

ジャンヌ・エスキュディエと結婚。(なかなか素敵な女性だったらしい)

ペシミスティックで不安定だったショーソンの精神的均衡は、

この陽気で善良な、愛する妻によって保たれることとなる。

 

爆発的ヒットはないものの、それなりに認められていた彼だが、

自身の作曲活動に加え、音楽界での支援活動にも随分尽力していた。

そちらに忙しくて、作曲に時間を割けなかったのではと書かれる位に。

 

 

1861年に始まったフランス最古のコンサート・オーケストラ、

“コンセール・パドルー(コンセール・ポピュレール)”、

パドルーと、ラムルーやコロンヌらとの世代交代がきっかけで起きた、

このオーケストラの崩壊の危機を救ったのは、他でもない、

ショーソンの支援やダンディの積極的な演奏活動などだった。

 

また、師であるフランクが、音楽界において、

凡庸な地位に貶められていることに納得できなかった彼は、

各界有力者たちを招いて自宅でコンサートを開き、フランクの曲を紹介。

レジオン・ドヌール勲章を受章できるよう腐心した。その活動は、

すぐには実を結ばなかったが、2年後、フランクはそれを手にする。

 

31歳になったショーソンはあの〈国民音楽協会〉の書記を、

友人ダンディと共に務めることになる。実権を得たダンディは、

自国の楽曲だけでなく古典や他国作品も取り上げるべきと意見し可決、

ショーソンはそのコンサートの開催にも奔走した。

 

友人デュパルクの歌曲の出版も手伝おうとした。

(最終的に本人が作品の公表を拒んだため、実現しなかったが)

そして、何より語るべきは、ドビュッシーへの支援である。

資金援助、借金の肩代わり、有力者への紹介と様々な口添え、

高級なアパルトマンを用意してやったり、自邸を作曲場所に提供したり。

7歳年下の新進気鋭の作曲家の生活を、陰ながら支え続けた。

 

そんなショーソンに、ドビュッシーはとことん甘える。

「私は、すっきりとした生活を渇望しているのです! 

 ですから、さらに1500フランを貸して下さる必要があります!

 そのお金が必要だということを信じて頂きたいのです。

 もちろん、私たちの友情からこうした問題をできるだけ早く

 取り除きたいと切望していることに変わりありません!」

まぁったく、ドビュッシーったらっ!

 

お金だけでなく時間をも束縛しようとするドビュッシーの厚かましさ、

加えて、彼の奔放な女性関係に業を煮やしたショーソンは、

ドビュッシーとの縁を切る。とはいえ、その後のドビュ君を支援したのは、

それ以前にショーソンが紹介した人々であったりもしたのだ。

 

 

―《ピアノ、ヴァイオリンと弦楽四重奏のための協奏曲 作品21》

―《(オーケストラとヴァイオリンのための)詩曲(ポエム) 作品25》

イザイは、これらショーソンの曲に心酔し、幾度となく演奏、

そのコンサートは高く評価されたが、それは『楽曲』にではなく、

「イザイの演奏に対してのものだった」とも語られる。

 

それでも、40代に入り、ショーソンの創作意欲は高まっていた。

その矢先での、あの自転車事故である。享年44歳。

未完のまま残された《弦楽四重奏曲》は、遺族の願いにより、

「亡き友の意図であると思われたものにできるだけ忠実に」

長年の友人であったダンディが、書き上げた。

《弦楽四重奏曲》は彼の人生と同じように、3楽章で終わってしまう。

 

彼の周りには、あまりにも『理想』があり過ぎた。

邸を飾るコレクションは、コロー、ドラクロワ、シャヴァンヌ、ゴーギャン、マネ、モリゾ、ルノワール、ドガ、ルドン、北斎、歌麿、春信、広重…。

彼の許には、フランク、フォーレ、シャブリエ、デュパルク、ダンディ、サティ、ドビュッシー、アルベニス、イザイ、ティボー、コルトーらが集い、

彼と彼の姻族(ルロル、エスキュディエ、フォンテーヌ各家)のサロンには、

マラルメ、ヴァレリー、フランシス・ジャム、ピエール・ルイス、アンドレ・ジッド、ポール・クローデル、ファンタン=ラトゥール、シャヴァンヌ、マネ、モリゾ、ルノワール、ドガ、ルドン(なんなんだ!この顔ぶれは!)ら多くの芸術家達が出入りしていた。

 

ショーソン、21歳の手紙。

「母上、あなたは私が忌まわしいほどに怠惰であったことに気付いておられましたか。生まれながらの気質とは別に、いつも私より年長で、私より賢明な人達と過ごしてきたことが、多分私の中のこの欠陥を助長していたのです。知らず知らずに私は、そう言う人達の考えを採り入れるに任せてきました。私が、それらが間違いないと信ずるのは当然だったので、大抵の場合、自分自身で彼らの考えを考える労をとらなかったのです」

「現実のちょっとした苦しみに遇うと、すぐに現実を知らされました。私が大部分の人達より百倍も幸せなのだということが分からなかったほど私は盲目だったのでしょうか」

「二日前までは、私は望むということはなく成りゆきに、任せていました。今では望んでいます。おそらく、何度か気の挫けることもあるでしょう。しかしこのような良き友人達がいるので私は何も恐れません。…。生涯私を信じて下さい」

~パリ 1876年8月4日 

 

自身が選んだ、『作曲家』という道。

その道の前にも後ろにも居並ぶ、恐るべき“巨人”たち。

ショーソンの気持ちを想う。優れた審美眼を持ったが故の苦悩。

常に物足りなさを感じながらも、創作を続けずにはいられない自分。

 

彼の複雑な気持ちが、透けて見える書簡がある。

長きに渡って取り組んでいたオペラ《アルテュス王》を完成させんと、

作業をしていた1894年、まだ親交のあったドビュッシーが、

《ペレアスとメリザンド》について、ショーソンに意見を求めてくる。

が、彼は楽譜すら読まなかった。ドビュッシーは嘆いたという。

 

そのときのことを、ショーソンは義兄アンリ・ルロルにこう書いている。

「彼の音楽が、たまらなく私の気に入るだろう事は分かっていました。が、

 『アルテュス』を仕上げようというときに心を乱されるのは嫌だったのです」

 

その『アルテュス』も、結局『ペレアス』を越えることはできなかった。

 

 

裕福な家庭の次男として生まれた。

長男エルネストは、母のお気に入りだった。

早々に親の手を離れ、寄宿学校生となった。

幼い頃から、周囲には芸術的環境が整っていた。

十代半ばで、人生を決める出会いがあった。

父の望む道に進むべく勉強するが…。

 

それ、さっき聞いたよ? いやいや、

実はこれ、画家オディロン・ルドンの話である。

 

ちなみに、ルドンの兄エルネストは神童と呼ばれたピアニストだった。

弟ガストン(四男)も、アマチュアのフルート奏者だった。

(ガストンは建築家だったが、ドビュッシーと演奏したこともあるという。

 この二人、ローマ賞を獲得して得たイタリア留学の時代が重なっている。)

 

ルドンは音楽関係の知人も多かった。ショーソン、ドビュッシー、

ラヴェル、セヴラック、リョベート。ドビュッシーやラヴェルの

楽曲の初演者として有名なピアニストのリカルド・ヴィニエス。

 

ルドンはヴァイオリンを弾いた。ベートーヴェンのトリオを、

ショーソンとルドン、ルイ・ジャンモで演奏したこともあるという。

父が亡くなり、一家の財政状態が悪化したときには、なんとルドン、

ヴァイオリンの個人教師をして金を稼ごうかと考えたというから、

それ位の腕はあったということなのだろう。

 

ルドンとショーソン。

彼らは、かのド・レイサック夫人のサロンで知り合った。

ルドンは、ショーソンより15歳ほど年長だが、

二人の友人関係はショーソンが亡くなるまで続く。

年譜を見ると、二人は驚くほど似通った人生を送っている。

そのせいで共鳴し合ったのではないかと思う程に。

 

39歳で最初のリトグラフ集《夢の中で》を刊行するが、

25部限定、出版費用は購入予約で賄うというものだった。その

予約リストには、ド・レイサック夫人とショーソンの名があった。

ルドンにとって大切な場所だったペイルルバードの所有地に

売却話が持ち上がったときには、ショーソンに借金を申し込んでいる。

ショーソンが亡くなった後には、ショーソン邸の居間の装飾を請け負った。

未亡人のために描かれたそれは、ルドンの作品の中でも格別に明るい、

優しい黄色が印象的な、愛情に満ち溢れた作品となっている。

 

ルドンは76歳まで生きた。ショーソンが持てなかった『4楽章』で、

彼は、成功を体感することができた。戦争に行った息子の、

無事の帰還を見ずに逝くことは、無念だったろうけれど。

 

 

近代フランス音楽の擁護と顕揚に貢献したショーソン。そう、

ショーソンがいなければ、あの“ドビュッシー”はなかった。

なのに、彼の資料を探そうとすると、なかなかストレートには見つからない。

でも、同時代の芸術家たちについて調べていると、その名は頻繁に出てくる。

煌めく数多の星々の中心に、それと知られず彼は静かに座していた。

 

ゴーギャンがフランスを離れ、マラルメが亡くなり、気付くと、

長を求める若い芸術家たちが、ルドンの周りに集まるようになっていた。

ルドンもまた人と人とを繋ぐ人であり、重要なハブの役割を担っていたのだ。

 

 

『弾けるようになりたい』と思った曲は、恥ずかしながら、

今に至っても『弾けるようになりたい曲』のままである。

 

「終わりの見えない目標があるから、続けられるんだよ」

なんて泣ける言葉をくれるのは、学生時代からいつも、

我々みんなの傍にいてくれる、愛すべきハブ氏である。

CHAUSSON:

Piano Trio op.3

String Quartet& violin, piano op.21

Poème op.25

Piano Quartet op. 30

© 2014 by アッコルド出版