ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第145回

恋人たちの巡礼

慌ただしく年の初めが終わり、気付くともう月半ば。

お正月の準備に追われる頃には、いつも、

新年を迎えれば、パリッと気持ちが切り替わり、

身も心も洗われたように、スッキリしていそうな気がするのだが、

あれやこれやで力尽きて、除夜の鐘を聞かず寝てしまうせいか、

煩悩は払われぬまま、時間に流されるように年を越してしまう。

 

子供の頃は、本当にのんびりした正月を過ごしていた。

もちろん、年末年始はお店がどこも開いていなくて、

初詣と親戚へのお年賀が終わると、行く場所もない。

凧上げに羽根つき、カルタにコマ回し…定番の遊びも、

楽しみはしたが数回すれば飽きもして、ゲームもテレビもなく、

「お正月=退屈」という公式がインプットされていた。

 

異世界にトリップしたかのように、信じられないほど人気なく、

しんと静まり返った街を通り抜け、氏神様のお社に伺えば、

そこだけは普段と変わらず、ざわざわと多くの人の気配があり、

なぜか、ひどくホッとしたのを覚えている。

いつになく澄み切った空気の中で、華やぐ色とりどりの晴れ着。

だから、そう、初詣は好きだった。

毎年引くおみくじの、よく分からないけれど有り難いお言葉も。

 

学校が始まれば、それこそ退屈は一瞬で吹き飛び、

その激しいギャップが、新しい年を「新しい年」にしてくれていた。

教室の後ろの壁一面に貼られた、書初めの墨の匂いにうっとりしながら、

今年も頑張ろうと、子供なりに気持ちを新たにしていたものだ。

 

今は、ああいう、ひどく退屈な時間がなくなったように思う。

止まっているのかと思うほど、ゆっくりと流れる時間。

自身でそれを消費し切れず、不安や時には恐怖さえ呼び起こすような、

そんな時間も、今は作らなければ出会えない。

作れても、紛い物だったりする。

それは、少し寂しいことなのかもしれない。

 

 

すべてが、日常に戻ったある日、

テレビで、伊勢志摩サミットのニュースが流れていた。

伊勢神宮の話の流れで、出雲大社の名が出る。

 

出雲という地名は、耳慣れていて愛着がある。その昔、

仕事でその辺りに行き、暇を見てあちこち観光もしたのだが、

今や、出雲空港に『出雲縁結び空港』なる愛称が付けられていて、

出雲大社も『キング・オブ・縁結び』と称され、彼の地を巡る、

「縁結びツアー」や「出雲路パワースポットめぐり」があるだなんて、

恥ずかしながら、知りもしなかった。

 

出雲大社と言えば大国主大神。なぜ、縁結び?

「全国の神々は旧暦10月11日から17日まで7日間、出雲の地に集まり、

 人には予めそれとは知ることのできない人生諸般の事=神事(かみごと)を

 神議り(かむはかり)にかけて決めると言われている。人々の結びについても、このとき神議りが行なわれることから“縁結び”を言われるようになった」

 

なるほど。

と、いつものように調べずにはいられなかった訳だが、

探すものがそういうものだから、画面上のあちらこちらで、

幸せそうな恋人たちの笑顔を見ることになる。そのせいだろう。

気付けば、頭の奥でドビュッシーの《喜びの島》が鳴っていた。

 

―クロード・ドビュッシー《喜びの島 L'Isle joyeuse》

1904年に出版されたピアノ曲。この曲を初めて聴いたときには、

華やかさの内にある、妙に浮ついた感じにどうも違和感があって、

「これは私のドビュッシーじゃない!」なんて思ったものだ。(笑)

 

この《喜びの島》は当初、《月の光》で有名な

『ベルガマスク組曲』の一曲になる予定だったらしい。

しかし、同じ1904年作《仮面Masques》と同様、出版社の都合で、

一つの独立した曲として世に出ることとなった、と。

モリナーリ(イタリアの指揮者)による管弦楽版もある。

これはドビュッシー自身の指示に基づいた編曲だという。

 

初演は1905年2月、パリの国民音楽協会で、

リカルド・ヴィニエスの演奏によって行なわれ、好評を博した。

 

華麗で絢爛。暴走する悦楽。

“喜び”に終始する6分。

 

 

ドビュッシーの《喜びの島》は、一般的に、

ロココ美術の画家、アントワーヌ・ヴァトー(1684-1721)の作品、

『シテール島への船出』の影響を受けていると言われている。

 

ヴァトーの『シテール島への船出』と呼ばれる絵は、二枚あり、

一枚は現在ルーヴル美術館(パリ)に所蔵されている、1717年作の、

『シテール島への巡礼Pelerinage a l'isle de Cythere』をいう。

この作品は、その後『雅びな宴』と名前を変更され、更に、

諸事情で誤解のまま『シテール島への船出』と呼ばれるようになった。

 

もう一枚は、正しく『シテール島への船出Embarquement pour Cythere』。

先の『シテール島への巡礼(雅びな宴)』が成功を収め、後年、

そのレプリカとして制作されたとされる、1718-1719年頃描かれた作品。

表現や構成要素に顕著な違いがあって、見れば全く別の作品である。

こちらは現在、ベルリンのシャルロッテンブルク宮殿にある。

 

『シテール島への巡礼』はヴァトーが、美術史上重要な地位を占める、

王立絵画アカデミーの正式な会員として認められることになった作品。

この作品が当時のアカデミーのどの部門にも属さない作風だったことから、

『フェート・ギャラントfêtes galantes(雅宴画)』という

新たな名称が案出され、以降ヴァトーは「雅宴画の画家」と呼ばれるようになり、ロココ美術を代表する画家として広く認知されることとなった。

 

さて。シテール島は、ギリシャ神話に出てくる島の名前。

―海の泡から誕生した美と愛の神アフロディテは、西風の神ゼピュロスにより東の果てへと運ばれ、(現在のペロポネソス半島とクレタ島の間にある)シテール島へと流された。

いつの頃からか「独身者がシテール島に巡礼を行なえば良き伴侶が見つかる」と言われるようになり、この愛の聖地『シテール島』が、そして『愛の巡礼』が、文学や絵画、音楽の題材として採り上げられるようになるのだ。

 

ネルヴァルの『東方紀行』『シルヴィ』、ユゴーの『静観詩集』、

ボードレールの『惡の華』…。これら文学作品においては、

残念というべきか、必ずしも愛や恋がまっすぐ捉えられてはいない。一方、

クープランの《シテール島の鐘》、プーランク《シテール島への船出》といった音楽作品では素朴に幸せが描かれていて、可愛らしく楽しいものになっている。

 

 

42歳のドビュッシーは、恋をしていた。

 

相手は、生徒だったラウル・バルダックの母であり、

銀行家バルダック夫人だったエンマ・バルダック。

彼女もまた42歳。分別ある齢であったはずの二人は、

1904年7月、互いの伴侶を残してジャージー島に旅をする。

そのとき書き上げられたのが《喜びの島》。

 

遡ること5年、1899年にエンマの息子ラウルはドビュッシー門下に入る。

師弟関係は続き、1903年の終わり頃、ラウルの招待を受けた彼は、

バルダック家の夕食会に出向く。エンマに歓待されたドビュッシー、

妻にはない魅力を持つエンマに強く惹かれたのだろう。彼はその後、

自作品の楽譜の献呈をするなどして、積極的に距離を縮めていく。

 

翌1904年、『三つのフランスの歌』を献呈した6月6日、

バルダック夫人から礼の花束を贈られたドビュッシーは、早速、

返礼の手紙を書いている。重ねて6月9日速達で送った手紙には、

「どうか今日の午後、私に少し時間を割いて頂けないでしょうか。私は、対位法も展開もなしに、一度あなた『ひとりだけ』をどうしてもわがものにしたいのです」

わお!

 

《喜びの島》の草稿には、こう書き記されているという。

「以下の小節は、1904年6月の或る火曜日にそれらを私に書き取らせてくれたバルダック夫人―p・m―に帰結するものです」

『p・m』とは、エンマを呼ぶときに使った「かわいい私のもの」の略。

 

7月20日頃、ジャック・デュランに宛てた手紙には、

《マスク》と《雅やかな宴》の校正を同便で送ったことを告げ、

さらに続けて、こう書いている。

「《雅やかな宴》については、次のような献辞をどうか忘れないようにして下さい。『1904年6月に感謝するために』、そして『A.l.p.M』の文字を続けて下さい。少し神秘的ですが、伝説のために何かする必要があるのです!」

『A.l.p.M』=「À la petite mienne.」。

 

神秘的? というより、タイミング的には申し訳なくも、

ロック歌手DAIGOの「KSK(結婚して下さい)」に近く感じてしまう。(笑)

 

 

そういった私生活と《喜びの島》との関連を否定する向きもある。

例えば、ヴィニエスの1903年の6月13日の日記にはすでに、

「《喜びの島》を聴いた」と書かれていることを挙げ、時期的に見て、

エンマとの恋が作曲の引き金になった訳ではないとする説。

でも、曲が仕上がったのは、燃え上がる恋の逃避行中である。

 

ドビュッシーが、ヴァトーの絵画にインスピレーションを得た、

という説にも、懐疑的な意見が多く見られる。

その関連を裏付ける完璧な証拠がないためだ。ただ。

 

エンマと深い関係になってすぐ、ドビュッシーは、

歌曲《艶なる宴Fêtes galantes》第2集を書き上げている。

テキストは同題のヴェルレーヌの詩集から採られているのだが、

その詩集はヴァトーの絵に着想を得ていて、且つ、題名も、

ヴァトーの冠となった『fêtes galantes』にちなんだものである。

 

確かに、ヴァトーの絵と《喜びの島》の印象は違う気もする。

だが、直接的ではなかったとしても、

『ヴァトー』が、『シテール島』が、『シテール島の巡礼(船出)』が、

そこに存在したと考えるのは、そう不自然なことではない。

 

《喜びの島》。

間違いなく、そこにあるのは愛の喜びで、

ジャージー島は、二人のシテール島だった。

なんて、ロマンティック。なんて、ドラマティック。

 

それにしてもドビュッシー、実に情熱的である。

19歳で人妻ヴァニエ夫人と不倫関係になり、その交際を8年間続ける。

その後、ガブリエル・デュポン(愛称ギャビー)と出会い恋愛関係に。

その間に、ソプラノ歌手のテレーゼ・ロジェと浮気。

ギャビーが自殺未遂騒動を起こし、1898年に破局を迎え、

翌年には、ギャビーの友人でもあるマリ・ロザリー・テクシエ=

(愛称リリー)と結婚するが、1904年頃からエンマと不倫関係になる。

今度はリリーが自殺未遂を起こし、1905年に離婚。

そして、エンマと結婚。

 

エンマもまた、なかなかに情熱的だ。

17歳でバルダックの妻になり、二人の子供をもうける。

知的で教養があり、社交界の歌姫としても知られていた彼女は、

1890年代前半、フォーレを魅了しW不倫の関係になる。フォーレは、

エンマの娘エレーヌ(愛称ドリー)のために組曲『ドリー』を作曲。

エレーヌはフォーレの子だったのではないかという説すらある。

ラヴェルも《シェエラザード》の『つれない人』を献呈している。これには、エンマに接近されたラヴェルが、この曲を献呈して牽制したという逸話もある。

そうして、紆余曲折の末に、ドビュッシーとの結婚と相成る訳である。

 

 

そう言えば、ヴァイオリン曲には、

こんなにストレートに感情表現を顕在化させた曲は、

あまりないような気がする。思い付くのは、

エルガーの《愛の挨拶》、クライスラーの《愛の喜び》くらい?

男女の狂わしい恋を描いた物語が背景にあるとされる、

ショーソンの《ポエム》ですら、多分に観念的である。

 

現実は、どこもかしこもゴシップだらけだが、

頭の中はもう、出雲そばでいっぱいである。

久し振りに食べたいなぁ、出雲そば。

広島にいた頃は、蕎麦と言えば出雲そばだった。

そばは黒くて、割子に入っていた。

釜揚げ風のも、食べたことがある気がする。

 

黒いのは、玄そば(殻のついたそばの実)をそのまま製粉するから。

割子に入っているのは、江戸時代、松江の趣味人が野外でそばを食べるために、弁当箱として割子にそばを入れ、食べる直前につゆをかけて食していたから。

釜揚げそばになったのは、全国から神様が一堂に会すると言われている10月、出雲大社で「神在祭」が執り行なわれる際、大社の周りに屋台が出て、

そば湯を入れた温かい釜揚げで、新そばを参拝客に振舞っていたから。

何かと、風流で、優雅で、素朴で、温かい。

 

出雲大社。

恋愛だけでなく、様々な良いご縁を手繰り寄せて下さるそうだ。

今多くの縁を頂いているのが、あの昔のたった一度の参拝のご利益だとしたら、やはり、出雲大社は「キング・オブ・縁結び」だ。

Debussy:L'isle Joyeuse

-Maurizio Pollini  

(冒頭に映る絵画が

ベルリン版『シテール島への船出』)

(45秒頃から映る絵画がパリ版『シテール島への船出(巡礼)』)

-orchestral version

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Couperin: Le Carillon de Cythère

Poulenc :l'Embarquement pour Cythère

© 2014 by アッコルド出版