ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第143回

ホーム・スイート・ホーム

スコアリーディングに少し慣れてきて、

その解析作業の面白さに、すっかり嵌ってしまっていた頃。

 

ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第1楽章を勉強することになった。

例の如く、1週間で1楽章のペースを要求されている。必死で練習して、

レッスンの日を迎える。普段通り、まず「通し」で弾く。

 

勉強は始めたばかり。でも、初レッスンにしては、

そこそこ弾けているのではと、いつもより出来がいいのではと、

珍しく、心に余裕をもって臨んだレッスンだった。

スコアも、随分、勉強した。音源も、いっぱい、聴いた。

練習もした。だから、思った。今日はイケる!

ところが。

 

弾き終わると、大抵、すぐに、

そこここの問題点を指摘して下さる師が、

目を宙に据えて、じっと考え込んでいる。

こういうときの1秒は長い。

5秒も越えれば冷や汗が出てくる。

ようやく腕組みを解いた師の口から出てきた言葉は、

 

「曲の構成、分かってる?」

 

え? それって、

三部形式とか、ロンド形式とか、ソナタ形式とか、

序破急とか、起承転結とか、そんな感じの?

 

「あなたがそれを分かっていないと、

 聞いている人には何も分からない」

 

青く固まってしまった弟子に、師は追い打ちを掛ける。

「スコア、勉強した?」

とてもじゃないが、したとは言いたくない雰囲気、でも、

それも課題だったし、一応してきたのにしていないというのも変だ。

だから。「し…しました」

 

僅かな間の後、師はソファから立ち上がりながら、

さらっと切り捨てる。「ま、いいわ。もう一度最初から」

し、ししょ~っ! 弟子、崩壊。

 

 

協奏曲の総ざらいをすることになったとき、師は、

『スコアを勉強するように』という指示だけでなく、

こんな指示も出して下さっていた。=「全楽章、勉強するように」

時間的に制約もあるから、曲によっては、

一楽章だけしか宿題にしないこともあるけれど、

そういうときでも必ず、全楽章、目を通しておきなさいと。

 

『全楽章、勉強する』…という意味。

 

別のタイミングで、同じようなことを言われた。

ある弦楽四重奏曲の、一楽章だけを演奏するという場があり、

特に深く考えず、その楽章だけしか勉強していかなかったら、

練習中、一緒に弾いていた先輩がボソッと言ったのだ。

「他の楽章、勉強してこなかったでしょう?」

 

その先輩は、こう言う。

止むを得ず、ある楽章だけ採り出して弾かなければいけないときは、

全楽章弾くときとは違う弾き方をしないと、音楽が締まらない。

どちらにしろ、本来の楽章の意味を知っていなければならないし、

ピックアップ楽章の弾き方も、それを知って後に見えてくるものだと。

 

加えて、こうも。

曲の一部を弾いただけで、その曲のことを分かった気になるな。

それは、楽曲に対しても、作曲者に対しても失礼だ。

いやはや、おっしゃる通り。ああ、でも、小品などで、

オペラの間奏曲とかアリアを弾く場合はどうしろと? ま、まさか!

 

別の弦楽四重奏曲を、これまた別の先輩に見て貰ったとき、

「構造は分かっているみたいだけど、構成は全く分かってないね」

との指摘を受けた。(学生時代の思い出は痛い話ばかりだ…)

 

曲の『構造』。曲の『構成』。

 

辞書的には、

“構造”=全体を作っている部分部分の関係や、個々の部分の作られ方、または、その組み合わせ方。

“構成”=幾つかの要素を、一定の順序や配置に従って一つのまとまりのある形に組み立てること。また、そうして組み立てられたもの。

 

「構造」も「構成」も、

演奏や学習の現場では、よく耳にする言葉だ。

双方、同じような意味合いで使われることもあるし、

別な意味で使われていることもある。

(場や人で、若干その使い方が違っていたりもする)

 

でも、先輩の言わんとしていることは、よく分かった。

要するに、「君には全体が見えていないよ」と。

 

 

我々が接する“音楽”の多くは、

一つ一つの音が、雑然と並べられているのではなく、

様々なパターン、規則性をもって配列されている。

そうして作られたまとまりが、また、

美しい秩序と絶妙なバランスをもって配置され、

大きなまとまりとなる。その大きなまとまりがまた…。

 

スコアリーディングは、それを知るために行なうものだが、

モチーフ(動機)や楽節(フレーズ,センテンス)を確認したり、

和声法や対位法、形式を読み取っていくなどの、

細かい分析作業(アナリーゼAnalyse)を行なっているうちに、

全体が見えなくなってしまうことがある。本人の意思とは反して。

 

練習もそうかもしれない。

部分練習ばかりしていると、そこは弾けるようになるが、

通し練習を怠ると、いざ本番というときに、

その演奏は、失敗したコラージュのような演奏になる。

 

小さい頃、初めて美術館に連れて行ってもらったとき、

どんな絵でも、つい、近くに寄って見ようとする私に、

「大きな絵は、遠くから見るといいわよ」

そう教えてくれた、母の言葉を思い出す。

 

「『構造』は静的、『構成』は動的」と表現する人もいる。

構造は縦軸を、構成は横軸をフィーチャーしたものということだろうか。

 

縦の響き(=縦軸)や今出す音にばかりに気を囚われていると、

「音楽が流れていない」と注意されることがある。演奏をしているのに、

もっとも重要な時間的要素が欠けていると注意されるなんて。

 

「先が見えていない」という注意もよく受けるが、

これも多分、時間軸上の言語であって、それは、

曲全体を“俯瞰”できていないということと同意だろう。

 

思えば、自己満足に終わったあのスコアリーディングは、

きっと、閉じ込めた時間ばかり見ていたのだろう。しかも。

捕まえた時間は、勉強が終わったら放してやらねばならぬというのに。

 

 

『全体』への、ある意味の無関心さ。

 

もう一つ思い出した。これもレッスンの時、

楽譜を開いて、すぐ弾こうとする私に、師が言ったのだ。

「時間を使っていいから、ざっと最後まで楽譜を見て、

 曲全体を思い出して(イメージして)から、弾き始めなさい」

 

思い起こせば、当時は、

楽譜を、書いてある通りに弾けばよいのだと思っていた。

フォルテなら大きく、ピアノなら小さく、

レントならゆっくり、プレストなら速く、

そうして、「順に」音を出していけば、よい結果が得られると。

 

—“時間芸術”

その言葉の意味を、間違って捉えていたかもしれない。

刹那的にただ、『今』を重ねていけば、『今』さえ大切にすれば、

それで十分、素晴らしい“音楽”になるのだと。

 

画家が、すでにキャンバスに描いたものを見ながら、

次に何をどう描くかを決め、それを実行するように、

演奏家も、耳のキャンバスに自身の音で描いたものを、

俯瞰的に「見」ながら、頭にある青写真をもとに、

次にどう奏くか、その先どう展開するかを瞬間的に判断し、

演奏すべきなのでは? それが理想の演奏の形ではないか?

そんなことを、ぐだぐだ考える。

 

もちろん、過去の音に引き摺られるようでは困るし、

そのときの自分に振り回されるようでも困るけれど。

 

だって、

そうでなければ、いつも予定調和的な演奏しかできない。

事前に描いた絵を思い出しつつ、

それをただ、正確に描き起こすだけの。

 

「そのときの自分」が出せないのは、少し寂しい。

演奏は「そのとき」しかないのだから。

そのときの自分は、そのときしかいないのだから。

 

 

並べるのも、比べるのも、おかしなものかもしれないが、

個人的には、絵画より音楽の方がリラックス感が強い。

求めているものがそうだからなのかもしれない。

絵画には刺激を。音楽には癒しを。

 

絵画や写真は、良くも悪くも気持ちが落ち着かない。

好き嫌い以前の、何のシンパシーも感じない作品は居心地が悪いし、

嫌悪感や拒絶感でも湧けば、それはそれで興味の対象になるが、

結果、暗い興奮状態に陥るだけで、決して心地よさは得られない。

 

ならば、好きな作品ならどうかと言えば、

すっぽりとその世界に飲み込まれ、囚われた心はそのまま、

なかなか戻ってくることができず、宙に磔にされたような感覚になる。

それを現実に引き戻すのは、生皮を剥ぐような作業だ。

(それを強烈に欲する時もあるのだから、人間って不思議だ)

 

その点、音楽はどんな曲でも大抵、終わりが来ればホッとする。

この、音楽にある“安堵感”というのは、どうも、

終わりがくるから、という理由だけではない気がする。

もう一つの理由=その多くが、『戻る』構成になっているから?

 

アンサンブルをしていると、こんな会話がしばしば。

「どこから弾こうか?」「戻ったところからでどう?」「OK!」

 

— 冒頭に戻る(da capo)、セーニョ記号に戻る(dal segno)、

— 主調に戻る。主和音に戻る。主音に戻る。

— テーマに戻る。

 

三部形式、ロンド形式、ソナタ形式、循環形式、…

みんな、どこかに、何かに戻る。

 

演奏に、確かな「戻った感」や安定した「帰着感」があると、

その演奏は大抵、多くの共感を得る。

それは多分、それが人間的に“正解”だからだ。

 

ただ、そうして帰る場所は決して同じものではない。

家が、朝、出掛けたときのままではないように。

夜には、朝にはなかった温かい夕食が待っているかもしれない。

子供たちが今日あった出来事を嬉しそうに話してくれるかもしれない。

そこには家族の過ごした時間がある。自分の過ごした時間も。

 

ならば、繰り返しやダ・カーポをするとき、

「ああ、また同じことを弾くのか」と、思うのは、とんでもないことで、

「ああ、また同じことを聞くのか」と、聴き手に思わせてしまったなら、

それは、弾き手としては“大失敗”なのかもしれない。

 

まあ、正直、時々、

「勘弁して~っ」という繰り返しもあるのは事実だけれど。(笑)

 

 

『帰る』というと、思い出す曲がある。

 

ヴァイオリンの教本や小品集に時々入っている、

『ホーム、スイートホーム』だ。=『埴生の宿』『楽しき我が家』

作曲はヘンリー・ビショップ(Henry Rowley Bishop 1786-1855 英)。

作詞はジョン・ハワード・ペイン(John Howard Payne 1791-1852 米)。

日本では、明治から唱歌として親しまれている。

きっと、みなさんもご存じだろう。

 

自国の曲でもないのに、初めて聞いたときから、

懐かしさを感じる曲があるが、この曲はその最たるものだ。

 

映画『ビルマの竪琴』で、敵兵と日本兵がこの曲を合唱する、

そのシーンは、涙なしには観られない。

監督・脚本 高畑勲、スタジオジブリ制作『火垂るの墓』、

この作品でも挿入歌として『埴生の宿』が使われている。

歌っているのは、イタリアの歌手アメリータ・ガリ=クルチ。

 

奇しくも、この原稿を書いている最中に、

『火垂るの墓』の原作を書かれた野坂昭如さんが亡くなった。

最後まで平和へのメッセージを送り続けた氏のことを、

戦争で国を追われ、戻る場所を失った人々のことを考える。

 

  粗末なれど 我が家にまさる所なし

  愛すべき我が家よ 我が家にまさる所なし

 

 

 

 

次回更新日は1月1日です。

その後は1日と15日の月2回の配信となります。

では、みなさま、良いお年を!

Amelita Galli-Curci - Home Sweet Home

"Home Sweet Home"

© 2014 by アッコルド出版