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ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第142回

紫という名の白い花

弓の毛替えをしに、ホームドクターの許へ行く。

「さすが、いいタイミングで来るね」、I氏が笑う。

聞けば、少量だが非常によい弓の毛が手に入り、

残り数束分、というときに連絡を入れたらしい。

そういう無駄な嗅覚は優れているようだ。

 

「まあ、見てよ!」と、元の太い毛束を見せてくれる。

とはいっても、毛束そのものを見慣れていないのだから、

よさなんて分かる訳がない。…と思ったのだが、

いつも見せてもらう毛束と何かが違うことは、素人目にも分かる。

それ程に、それは白くキラキラと輝きを放っていて、

美しいロングヘアの女性に出会った時のように目が離せなくなる。

 

「これ、選んでないんだよ」と、自慢げに言うI氏。

説明しよう! (笑)。 ヴァイオリン工房に行くと、大抵、

まさに「馬の尻尾です」という感じの毛束が何束か、

壁にぶら下がっていたりする。お店によっては、

色や質感の違う毛が何種類もぶら下がっていて目にも楽しい。

(紫やピンクのカラー毛もある。コントラバスだけかな?)

 

弓に毛を張るときは、職人さんがその束の中から、

質のよいものだけ、必要な本数(150~180本位)選び出して使う。

而して、毛束の何割かは廃棄されてしまうことになる。

だが、今回の弓の毛は、廃棄の割合が非常に低い、

そういう意味でも“質”がよいのだと、彼は言いたいのだ。

 

すでに選ばれた毛なのでは?と聞くと、そうではないらしい。

(もちろん、馬の尻尾から刈り取られた直後の、長さを揃える、

 使えないものは除くといった基礎工程は経ているだろうが)

う~ん。どんな美尻、もとい、美尾のお馬さんだったんだ!

 

「何か特別美味しいものを食べてたのかな」「可愛がられてたのかな」

だって健康じゃないと、そんな良い毛にはならないはずだもの。

モンゴルの草原で、美味しそうに草を食む馬を頭に思い描く。

(現実の生活はどうだったろう? とにかく亡くなったお馬さんに合掌)

 

拡大鏡で見ると、一本一本が艶やかで、キリッとしている。

まとめると、その様は、まるでシルクのリボンのようだ。

「触っていいよ」 慌てて手を拭き、そっと触らせてもらう。

な、なんて気持ちいいんだ! その次は湿らせた状態で、

もう一度触らせてもらう。その異常に滑らかな質感に溜め息が出る。

 

「これが結果として、どう出るかは分からないけど」

そんな怖いことをI氏は言う。「それでも張る?」

これが試さずにいられようか! 「張る!」

 

 

面白かったのは、ここからだ。

 

ツルツルピカピカの、張ったばかりの新しい毛。

もちろん、このままではどんな弓の毛だって音は出ない。

パララパッパパ~♪ “松脂”君、登場!

最初の松脂塗りは、日常的に行う塗り方と違って、

松脂を毛に馴染ませる「塗り込み」的作業となる。

 

普段、コンスタントに使っている松脂を採り出し、

塗る。いつもより少し多めに。万遍なく。そして、

塗る → 弾く → 塗る → 弾く → 塗る → 弾く …。

スティックに付いた松脂を、弦に纏わりついた松脂を、

ボディに白く散る松脂を、専用の布で丁寧に拭き取りながら。

 

いつもなら、ある程度作業をすると、

いい感じに松脂が馴染んできて、ツルツル感がなくなってくるのだが、

今回は違う。ちょっと弾くと何故かまたツルツルの状態に戻ってしまう。

あまりの松脂のノリの悪さに、焦る。これはまずったかなぁ。

「結果は分からないよ」…頭に響くのは悪魔の声。

 

理屈で考えてみれば、何の不思議もない。

サラサラの髪の毛、ゴワゴワの髪の毛、埃が付きやすいのは?

“良質”の弓の毛、松脂のノリが悪いのは想像できたことだ。

だからといって、ここで止める訳にもいかない。

最初が肝心。平常心是道。ひたすら、地道な作業を続ける。

 

普段の何倍かの時間を掛けて、

ようやく、それらしい状態になる。

弾いてみる。うぉぉ、これはいいかも。

でも、右手が「少し違う」と言う。

そうか、ならばと、松脂を変えてみる。

再び。うぉぉ! 驚くほど、触感と音色が違う。

松脂で音が変わるのは周知の事実だが、ただ、その差が!

 

 

昔は、演奏の安定性を道具に頼る気持ちもあって、

使っているものを、あれこれ変えることを良しとしなかった。

今でも、基本的には、そういうスタンスで過ごしている。

 

ただ最近、松脂に関しては、たまに、

季節やその時の気分で変えることを、楽しんでいる。

今日の天気だとコレかなとか、今日の気分だとコレかなとか。

パン屋さんが天気によって水の加減を変える的な? ふふ。

持っている松脂の特性が、少し分かってきたからかもしれない。

あくまでも感覚的なものだけれど。

 

松脂? 銘柄で言うと優に30種類を越える数ある。

それぞれ配合や製造技術が違う。粒子の細かさが違ったり、

金が添加されていたり、松脂アレルギー対応になっていたり、

それらが違えば当然、色も違う。黄色、琥珀色、黒、赤っぽいもの。

形も、丸型、箱型、犬型、ハート型、ヴァイオリン型。

集めたんでしょう? はい、思わず。10個ほど。

最初は、単なる蒐集目的でしかなかったけれど。

 

さて、件の弓。

徐々にそれらしくなってきたが、まだまだ馴染み方が足りない、

松脂を足しながら、ゆっくり練習をして、一日を終える。

そうして迎えた翌日。様子を見るため、松脂を塗らずに弾くと、

なぜ? ツルツルとは言わないが、再びそれに近い状態。

初期塗りを翌日に持ち越したのは初めてだ。またもや、悪魔の声が。

だが、少し松脂を塗って弾くと、これがなかなかの味わい。

 

日に日に、落ち着きが増す。いつしか悪魔の声も聞こえなくなる。

ただ。これまでのものに比べ、松脂の落ちは格段に早い。そして。

何よりの驚きは、日によって毛が求める松脂が違うということ。

選ぶ作業が面倒臭いのは面倒臭いが、その日ピッタリの松脂を選べば、

右手が直接、弦に触れているかのような感覚がある。

吸い付きもよく、反応もよく、音色もよく、…ああ、幸せ。

 

しかし。しかぁし。思うのだ。

これほどに松脂を選ぶ弓の毛って、どうなんだ!

これを「良い毛」と言っていいのだろうか?

出来はいいが、手が掛かる。結果は出すが、我儘。

うぅむ。みなさん、どう思います?

 

そんな『じゃじゃ馬』と付き合い始めて、ひと月とちょっと。

やっと信頼関係は構築できた感じだが、相変わらずの気分屋。

毎日が刺激的で楽しいし、個人的には過去最高の弓の毛、

でも、気の短い方、安定志向の方にはお薦めできないかも。(笑)

 

 

楽器&弓、付属品各種製品、昔と違って非常に選択肢が多い。

例えば、弓の毛もそう。その産地、メニューが必要なほどだ。

モンゴル(外モンゴル、内モンゴル)、イタリア、スペイン、チベット、カナダ、シベリア、日本…。

しかも、それぞれに違う価格帯の毛がある。

 

昨今、入手方法を間違えると、ものによっては、

とんでもない粗悪品を掴まされてしまうこともあるが、

弓の毛に関しては、良心的な店を選べば、

比較的安価なものを選んでも、そう「ひどい」ものはない。

(と、信じている。その先の技術はまた別だが。)

 

逆に、「高価なものならよい」というものでもないのが面白い。

大切なのは、自分の弓と毛の相性、

その毛を纏った弓と楽器との相性、何より、自身の手との相性。

 

そうそう。忘れてはいけないのが、技術者の方の腕。

毛替えの作業、その工程は目で覚えられるほどシンプルだ。

ただし、その技術の奥深さは計り知れない。

重要さという点では、弓の毛の質より技術者の腕の方が勝つ、

といっても過言ではない。だって。

 

張り方が悪ければ、弓が傷む。

張り方がよければ、弓の寿命が延びる。

 

張り方が悪ければ、できていたことができなくなるし、

張り方が良ければ、できなかったことができるようになったりもする。

あ、そこ、できないのを毛替えのせいにしないように!(笑)

 

張り方が変われば、使い勝手も変わるし、音色だって変わる。

張り方によっては、弓の欠点をカバーしてくれることもある。

 

その毛替えにも、やはり“相性”というものがある。

プロの演奏家が通う工房が、それぞれ違う所以だ。

 

毛替えに関しては、技術者の方それぞれに一家言ある。

それは、「弓の毛替えはこうあるべき」というものではなく、

その弓のことを、その弓の持ち主のことを第一に考えてのもの。

 

そういう意味では持ち主も、自分の弓を、そして自分を、

知ってもらう努力をしなければならないのかもしれない。

 

よくある質問—「どれ位の間隔で毛替えをすればよいか?」

毛替えは、毛の摩耗という視点から語られることが多いが、

どちらかというと、単なる「毛の交換」と考えるのではなく、

弓を健康に保つための、弓に長生きしてもらうための、

『弓の定期検診』と捉えるのがいいのかなと思う。

そう考えると、半年か一年に一度は行くとよいかなぁ。

 

 

お金を掛ければよい、というものでもないし、

いろいろ試せばよい、というものでもない。

 

今あるものを大切に使う。

それが、何より大事なことだと思う。

 

人それぞれ、求めるものが違う。

それでいいのだと思う。

 

ただ、

チャンスがあれば、

自分を知るためにも、

自分の楽器を知るためにも、

いつもと違うものに挑戦してみるのもいいかもしれない。

 

そうして、

縁あって、我が家にきたヴァイオリンとヴィオラと弓達。

縁あって、はるばるモンゴルから欧州経由でやってきた弓の毛。

合縁奇縁。よきホームドクターとも出会えた。

 

“縁”の字の、「ゆかり」という読みが好きだ。

「ゆかり」と言えば、某食品メーカーの赤紫蘇ふりかけが好きだ。

ああ、なんだか、白いご飯が食べたくなってきた。

 

そう言えば、なぜ“紫”を「ゆかり」と読むのだろう?

 

  紫のひともとゆゑに 武蔵野の草はみながら あはれとぞ見る

               ~出典古今集 よみ人知らず

 

「紫草がただ一本生えているという(縁)だけで、

 武蔵野の草という草が皆、愛おしく感じられる」

 

紫草は夏に白い小さな花をつける、ムラサキ科の多年草。

紫色の染料として特別な価値を持つとされた紫草(ムラサキ)。

紫草を愛する人に、他の草々をその縁者に例え、

愛する人と縁のあるもの、ゆかりのあるものはみな慕わしいと詠む。

ここから転じて、「紫(ムラサキ)=ゆかり」。素敵だ。

 

かつては全国各地で栽培されていたが、化学染料の普及で廃れ、

今や、絶滅危惧種レッドデータブックIBにランクされているのだとか。

失われつつあるのは、楽器の材だけではないのだ。

 

根を「紫根」と呼び、染料だけでなく薬品・化粧品に利用する。

『紫根エキス』は、髪のはりもアップするらしい。

弓の毛のはりもアップするだろうか?

いや、これはさすがに、試すのはやめよう。

© 2014 by アッコルド出版

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