ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第140回

あやまちはくりかへします秋の暮 ~三橋敏雄

パリ同時多発テロ以降、不安と悲しみが増している。
あの悲劇的な事件も、我々を襲う脅威の一部でしかなく、
そして、それが他人事ではないことが本当に恐ろしい。

 

「我々が戦争を終わらせなければ、戦争が我々を終わらせることになる」
そう言ったのは、H.G.ウェルズだったか。
その第一次世界大戦=『戦争を終わらせるための戦争』は結果的に、
とんでもなく多くの犠牲を生み、更なる悪意の種を蒔いた。

 

いや、始まりはもっと前だ。人と共に戦いは在る。
始まりも見えないが、その終わりも見えない、
そう思ってしまう自分が、ひどく悲しい。
…そうして、失うものは大きい。

 

 

フランスの作曲家アルベリク・マニャール、
第一次世界大戦(1914〜1918)の最中、ドイツ軍兵士に殺された。
同年生まれにデュカス、グラズノフ、シベリウスやC.ニールセンが、
同時代人にドビュッシーやサティ、リムスキー・コルサコフらがいる。
“フランスのブルックナー”と呼ばれることもあるマニャール。

 

―アルベリク・マニャール Lucien Denis Gabriel Albéric Magnard 1865-1914 
フィガロ紙の局長も務めた父を持ち、家は裕福だった。マニャールは「フィガロの息子」と呼ばれるのを嫌い、法律学校に学び学位を取得。1886年にはパリ音楽院へ進んでデュボワに和声法を、マスネに作曲法を師事、優秀な成績を残す。ワグネリズムに傾倒しフランキストでもあったV.ダンディにフーガや管弦楽法などを4年間学び、最初の二つの交響曲を彼の下で書き上げる。1894年に父親が他界。1896年結婚、翌年スコラ・カントルムの対位法の教授となるが、この頃より難聴に苛まれるようになる。第一次世界大戦が勃発すると妻と二人の娘は疎開させ、自身はバロンにある邸宅に残るが、1914年9月3日ドイツ軍兵士が侵入、マニャールは銃で抵抗するが射殺され、屋敷は燃やされた。

 

ドイツ後期ロマン派の影響を受けながら、循環形式を巧みに用いる、
革新的で壮大な作風の代表的なフランスのシンフォニストとの評も。
商業主義を嫌い作品の多くを敢えて自費出版、自分の作品に厳しく、
生涯に21作品しか遺していない。そんな彼の人生は49年で終わった。


同じくフランスの作曲家アンドレ・カプレ、
第一次世界大戦に従軍し、前線で二回負傷。
毒ガスを吸って神経を侵された彼の身体は快癒することなく、
1925年胸膜炎を併発して世を去る。享年47歳。

 

―アンドレ・カプレ André Caplet 1878-1925
作曲家、指揮者。キャプレと表記することもある。9歳でル・アーヴルのコンクールのヴァイオリン部門で優勝、12歳でル・アーヴル歌劇場管弦楽団に入団。18歳でパリ音楽院へ進む。和声法、作曲、ピアノ伴奏を学ぶと共に、指揮をA.ニキシュに師事。1901年にはカンタータ《ミルラ》でラヴェルを退けローマ大賞を獲得。ボストン歌劇場管弦楽団の指揮者に就任(1910-1914)し、パリ・オペラ座歌劇場、ラムルー及びコロンヌ管弦楽団の指揮者も務める。

 

彼の知名度が今一つである理由を「作品数」とする向きもあるが、
作品リストを見ると、然程その数が少ないとも思えない。
強烈な印象を残した同世代の作曲家の陰に埋もれてしまった、
と解釈する方がよいのかもしれない。勝手な後世の判断?
彼の創る響きが好きだ。ヴァイオリンの曲を一杯書いて欲しかった…。


ジャン・アランもまた、非業の死を遂げた。
第二次世界大戦(1939〜1945)に従軍、ソミュール地域の警備中に、
ドイツ兵の手により殺害され、若くしてこの世を去る。

 

―ジャン・アラン Jehan(-Ariste)Alain 1911-1940
フランスのオルガニスト・作曲家。音楽家の家庭に生まれ、オルガニストで作曲家、オルガン建造家であった父から手ほどきを受ける。パリ音楽院で学び、和声法とフーガのクラスで首席となる。オルガンをM.デュプレに師事、オルガン演奏と即興演奏でも首席に輝く。P.デュカスらに作曲を師事、《オルガン組曲 作品48》によって『オルガン楽友賞 Prix des Amis de l'Orgue』に入賞。1939年正式にオルガニストとしての活動に入るが、そのタイミングで第二次世界大戦が勃発する。

 

「新古典的な様式を基調に印象主義などの手法を取り込んだ独自の作風で近代オルガン史に新風を吹き込んだ」「彼の数々の楽曲は20世紀音楽の中でも独創的な音楽作品に数えられている」
29歳にしてこの評価を得ていたのだ。もし…。

 

 

フランスだけではない。イギリスも多くの音楽家を失った。

 

―フレデリック・ケリー Frederick Septimus Kelly 1881-1916
オーストラリア生まれのイギリス人。シドニーで教育を受け、イギリスに留学。1908年ロンドン・オリンピックのボート競技にイギリス・チームの一員として参加、金賞入賞を果たしている。オックスフォード大卒業後、フランクフルトの音楽院でピアノを学び、シドニーやロンドンでコンサートを行なう。カザルスと一緒に演奏したり、ラヴェルのコンサートの手助けをしたりもしている。第一次世界大戦最大の会戦と言われたソンムの戦いで大戦末期の1916年に戦死。享年35歳。

 

―アーネスト・ファーラー Ernest Bristow Farrar 1885-1918 享年34歳。
イギリスの作曲家、オルガニスト。ロンドン出身。王立音楽大学でチャールズ・スタンフォードに師事。その後オルガニストとして活動するが、第一次世界大戦が始まりフランスに出征。わずか2週間後に西部戦線で戦死した。彼の作品は顧みられること少なく、フランク・ブリッジの親友として、ジェラルド・フィンジの恩師として記憶されているにすぎない。

 

―ジョージ・バターワース George Butterworh (1885-1916)
イギリスの作曲家。ヴォーン・ウィリアムズの親友。歌手だった母から音楽の手ほどきを受けるが、父親の意向で弁護士になるべくイートン・カレッジからオックスフォード大学へと進んだ。同校で作曲家のヴォーン・ウィリアムズと出会い、再び音楽に打ち込むようになる。ヴォーン・ウィリアムズの《ロンドン交響曲》の作曲に協力、ヴォーン・ウィリアムズはこの交響曲を故バターワースに献呈している。オックスフォード大を卒業すると、バターワースは音楽活動に従事。しかし、第一次世界大戦が勃発、1916年のソンムの戦いで狙撃され31歳で死亡。

 

―アイヴァー・ガーニー Ivor Gurney 1890-1937
イギリスの作曲家、詩人。少年時代から音楽の才能を発揮、10歳よりグロスター大聖堂の聖歌隊員を務め、大聖堂のオルガニストだったH.ブルワーに師事、作曲やオルガンを学ぶ。1911年王立音楽大学に入学、ヴォーン・ウィリアムズやジョン・アイアランドら多くのイギリス人作曲家を指導したC.スタンフォードに師事。スタンフォードはガーニーを『自分の生徒の中で潜在的にもっとも傑出しているが、もっとも教えにくい生徒』と評していたという。第一次世界大戦が始まり従軍。翌1917年9月フランスの戦場で毒ガスを吸い込み帰国、療養を余儀なくされる。この大戦の従軍体験をもとに書かれた詩集『セヴァーンとソンム』が刊行され詩人としても評価されるようになったが、病状は一進一退、精神的に追い詰められていく。一度は復学し作曲や詩作を行なうが病状は悪化。その後半生を精神病院で過ごし、1937年に結核により47歳で死去。

 

 

犠牲者に敵も味方もない。

 

―ルディ・シュテファン Rudi Stephan 1887-1915  
ドイツの作曲家。フランクフルトとミュンヘンで音楽を学ぶが、第一次世界大戦中、従軍先の現ウクライナ西部でロシア兵に狙撃され死亡。後期ロマン主義の末裔、表現主義音楽の先駆者と言われ、「生前はドイツ音楽の行く末を担う存在として将来を嘱望されていた」「彼が早逝しなければドイツ音楽はこれほど貧弱にはならなかった」とも評される。享年28歳。

 

―エルヴィン・シュールホフ Erwin Schulhoff 1894-1942 享年48歳。
チェコの作曲家、ピアニスト、指揮者。ドヴォルザークに音楽的才能を認められ、10歳でプラハ音楽院ピアノ科入学、ウィーンにも留学、ライプツィヒではレーガーに師事、コローニュでも学ぶ。第一次世界大戦ではオーストリア=ハンガリー帝国軍の一員として従軍するが、大戦後は反戦主義の立場をとるようになり、それは曲にも表れた。プラハへ戻った後は国際的なピアニスト&作曲家として活躍するが、1933年以降ナチス・ドイツによって音楽活動を阻害され、最終的に拘束された。その後、ヴュルツブルク強制収容所に送られ、1942年同地で結核のため他界。


アルベニスと並び、スペインの国民的作曲家として有名なグラナドス。
彼もまた第一次世界大戦中、乗船がドイツ潜航艇に襲われ犠牲となっている。

 

―エンリケ・グラナドス Enric Granados i Campiña 1867-1916
1867年スペインのカタルニアに生まれる。バルセロナ音楽院へ入学、その後パリに留学。当代随一のピアニストと称された。1901年グラナドス・アカデミー創設。1914年にパリで行なったリサイタルで評価されレジオン・ドヌール賞を獲得。1911年ピアノ組曲として完成された《ゴイェスカス》はオペラに転作され、パリ・オペラ座で上演されることが決まる。しかし、第一次世界大戦勃発。メトロポリタン・オペラがその初演を代わって引き受けることになり、立ち会うために1916年妻と共にニューヨークに向かう。大統領ウィルソンの招きで急遽ホワイトハウスでのリサイタルをすることになり帰国の直行便をキャンセル、リバプール経由の客船サセックス号で帰国する途中、英仏海峡でドイツ海軍の潜水艦による魚雷攻撃を受け船は沈没、行方不明となる。目撃者によると、一旦救命艇に乗ったが波間に妻の姿を見つけ飛び込み、そのまま帰らなかったのだという。享年40歳。


あのウェーベルンも、非業の死を遂げている。
第二次世界大戦が終わったその年、疎開先のミッタージル(ザルツブルク)で、
ベランダに出てタバコに火をつけたところを闇取引の合図と誤解され、
オーストリア占領軍の米兵により、その場で射殺されているのだ。

 

―アントン・ウェーベルン Anton (von) Webern 1883-1945
オーストリアの作曲家、指揮者、音楽学者。コーマウアーの下でピアノ、チェロ及び理論の基礎を学び、1902年ウィーン大学入学。高名な音楽学者アードラーに師事、H.イザークの《コラリス・コンスタンティヌス》に関する論文を提出、博士号を得た。1904年からシェーンベルクに師事。ベルクとも知己を得る。各地で指揮者として活動した後ウィーンに戻る。第一次世界大戦後は、シェーンベルク主宰の〈私的演奏協会〉の設立を補佐。彼の成功は確固たるものになろうとしていたが、1938年、ナチス・ドイツによりオーストリアが併合されると、その音楽活動は厳しく制約され、事実上の隠遁生活に入らざるを得なかった。終戦を迎えると、作曲活動を再開したいという思惑から、ザルツブルク近郊の娘の家に避難。ここで命を落とすことになる。

 

 

ふと空を見上げると、
地上に降ることの多い“天使の梯子”が、
天に向かって伸びていた。
叶わぬことかと思いつつ、
平和を祈らずにはいられなかった。

 

敵といふもの今は無し秋の月   高浜虚子
昭和二十年八月二十二日 在小諸。詔勅を拝し奉りて。

A.Magnard:正義の賛歌

Jehan Alain:Litanies

Jehan Alain:Choral Works

Andre Caplet:Messe a Trois Voix “Sanctus”

F.S.Kelly: Elegy for Strings: "In Memoriam Rupert Brook"

Ernest Farrar: Heroic Elegy, Op.36 (1918)

George Butterworth:

The Banks of Green Willow

Ivor Gurney: A Gloucestershire Rhapsody

Granados:

La maja y el ruiseñor “Goyescas”

Erwin Schulhoff:Hot-Sonate

Rudi Stephan:

Musik für Orchester in einem Satz (1910)

Webern:

Langsamer Satz (1905) for string quartet

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