top of page

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第139回

あなたのことを教えて下さい。

あの《悪魔のトゥリル》で有名なタルティーニに、
《捨てられたディド》というヴァイオリンソナタがある。
楽曲全体を支配する、大きな悲しみに満ちた旋律と和音。
もしそこに、垂れ込めた雲から差す一条の光のような、
そんな優しい響きがなかったら…、きっと。
聴き手も救われないまま終わってしまうに違いない。

 

「悲しい捨て子ディド」の心情を想い、
彼女をそっと見守る神の存在を想い、子供なりに一所懸命、
心を込めて弾いていた。ところが、なんてことだ!
ディド(ディドーネ)は捨て子なんかじゃなかった。
ギリシア・ローマ神話に登場するカルタゴの女王だった。

 

「新たな王国を求めるトロイの英雄アエネアスと恋に落ちたディド、しかし、アエネ
アスは神命により、彼女を捨てイタリアに去る。嘆き悲しんだディドは、不貞な恋人
の思い出の品を焼き捨てるために積んだ薪の炎に身を投じ、自ら命を絶ったのだっ
た」

 

悲劇には違いない。ただ。
また、出てしまった…勝手な思い込み癖。
そうと知れば、弾きようも違ってくるというものだ。

 

いつだったか、小さなイベントで若いプレーヤーさんが、
《タイスの瞑想曲》をムードミュージックのように演奏していた。
あまりにそれっぽいので意図的にそう弾いているのかな?と思う。
話すチャンスがあったので、さりげなく聞いてみた。すると。

 

「『瞑想』って気持ちを落ち着けるためのものじゃないすか。
 言ってみれば一種のヒーリングミュージックって訳で、
 書いたタイスさんの気持ちも考えると、オレ的解釈では、
 ガツガツ弾くのはナシってことで、あんな感じに弾いたんすけど、
 なんかやばかったっすか?」

 

う〜ん。いろいろ問題あり? でも、なんだか微妙に合ってる?(笑)。
演奏も結構心地よいものだっただけに、返答に困る。でも、
勘違いだけは訂正しておいてあげた方がいいかな。老婆心が起き。
「へぇ、そうなんすか。オレ、映画音楽かなんかかと思ってました」
そ、そうなんだ…。

 

でも、
ディドをただの捨て子だと思っていた自分だから、
それ以上は、何も言えない。

 

 

物語性のある音楽が、好きだった。
風景が思い浮かぶ音楽が、好きだった。
小学生の時、何かにつけてかけていたレコードは、
ケテルビーの《ペルシャの市場にて》だった。
その絵本のような音楽は、今でもお気に入りの一つ。
懐かしさもあって、聞くとちょっと幸せな気分になる。

 

グリーグの《ペール・ギュント》もよく聞いた。
一瞬で周りを澄んだ空気に変えてしまうような美しい『朝』、
幼心にも深い悲しみとはこういうものなのか思った『オーゼの死』、
そんな音楽で表現される世界に生きるペール・ギュントという人はきっと…。

 

思っていた。純朴な青年の波乱万丈の人生を描いた物語だと。
『アニトラの踊り』で美女に誘惑され、『山の魔王の宮殿』で魔物に襲われ、
それでも健気に生きるペール・ギュント! がんばれ、がんばるんだ!

 

しかし。しかぁし。ある日、話の内容を知って衝撃を受ける。
「祖父は大富豪だったのに、飲んだくれの父のせいで財産を失い、母と共に貧乏暮ら
しをするペール・ギュント。二十歳になろうかというのに、いつか王様になってやる
などとホラを吹き、仕事もせず喧嘩ばかり。ある日、彼は他人の結婚式から花嫁を奪
取して逃亡。でも、その女性イングリッドにもすぐ飽き、捨てて逃げる。さらに魔王
になるためその娘を手に入れようとするが、これも上手くいかずまた逃げ出す。身を
隠すように住んだ山小屋に訪れたのは、かつて出会った純情な女ソルヴェイグ。彼女
を手に入れるも、またも彼女一人残して放浪の旅に出る。一旦母オーゼの家に向かう
が、その母は臨終の時を迎えていた。その後の彼はといえば、大金儲けては無一文に
なったり、精神病院に入って皇帝になってみたり。気付けばすっかり年老いたペー
ル。必死で故郷に辿り着き、人生を振り返りながらあちこち彷徨う内に、見覚えのあ
る山小屋を見つける。そこにはなんとあのソルヴェイグが彼を待っていた。そうし
て、優しき彼女の子守歌を聞きながらペール・ギュントは息を引き取る」

 

ペール・ギュントって、ペール・ギュントって。
考えてみれば、作者はあの『近代演劇の父』イプセンである。
まっすぐな青年のまっすぐな人生の話のはずがない。
それと知ってから、この曲を聴く度に、
「何か違うなぁ」と思ってしまう自分がいる。
曲は変わらず好きである。さりとて。

 

ペール・ギュント、舞台上演は成功だったという。
ただ、風刺的なイプセンの戯曲に対して、グリーグの音楽が
あまりにロマンティックに過ぎるという意見もあったらしい。
そう思った人の気持ちが、何となく分かる。

 

グリーグの音楽にはいつもどこかに、性善説で生きる人の、
人のよさ、優しさ、実直さのようなものを感じてしまうのだが、
(グリーグさん、実生活では浮気とかしちゃってますが…)
その自身が受ける感じと、物語の中のペールの行い&性格に、
少しだけ、ギャップのようなものを見てしまうのだろう。

 

ベルリオーズの《幻想交響曲》も昔から好きだった。
この曲には、ペール・ギュントのような形の主人公はいない。
『話』はあるが一貫したストーリーはない。言ってみれば、
作曲者自身の赤裸々で刹那的なただの『失恋体験の告白』。
演奏の際には、自身が書いたプログラム・ノートを配るようにと、
スコア(1845年版)に書き記している。その内容はこんな感じ。

 

「病的な感受性と燃えるような想像力を持つ若い音楽家が、恋に絶望し、発作的に阿
片を飲む。麻薬は彼を死に至らしめるには弱すぎたが、彼を奇怪な幻想を伴った重苦
しい眠りに落とし込んだ。彼の感覚や情緒、記憶は、彼の病んだ心を通じて、音楽的
な想念や心象に変えられた。恋人ですら一本の旋律と化し、絶えず彼に付きまとう固
定観念(イデー・フィクス)のような存在となる」〜1855年改訂時の作曲家自身による
プログラムの前書き

 

だからこそ?
そこには、圧倒的なまでの一人の人間の存在がある。
“ベルリオーズ”という。

 

 

曲の中には誰かがいる。
作曲家が。作曲家が愛する人が。作曲家が尊敬する人が。
テクストの作者が。協力者である作家が。
作家が描いた主人公が。作曲家が思い入れる主人公が。

 

それは、ときには神々であり、人ではないもであったりもする。
“登場人物”が複数であることも少なくない。
それらは、姿を見せないこともある。
それらが、強く自己主張することもある。

 

音楽の中で、作者と作曲家が喧嘩していることもある。
そうして生まれる捻じれが、奏者を迷わせることもある。
すべてが混然一体となって、捉えどころなく、
描くべきものの存在を、奏者が見失うこともある。

 

演奏者は、
誰に共感し、誰に思いを寄せ、誰の気持ちを汲み、
演奏するのか。

 

 

『マンフレッドManfred』はバイロンによる劇詩である。
1817年に、上演を目的としない、読むための戯曲=
クローゼット・ドラマ(レーゼドラマ)として発表されたが、
コヴェント・ガーデンで、1824年に上演されている。

 

ゲーテの『ファウスト』に暗示を受けたとされる、その内容は、
「スイスのアルプス山脈ユングフラウの城に住む若い当主マンフレッドは、かつて恋
ゆえに人妻アスターテを死に追いやった罪悪感に苦しみ、生に絶望して『忘却』を求
めている。彼は魔術の力を借りて、天地のあらゆる精霊たちを呼び集め、忘却への道
を尋ねるが答えを得られない。しかも、忘却を与えることができない精霊は逆に『永
遠の生命』という呪いを彼にかけてしまう。 死こそが最大の忘却の手段—にもかか
わらず、死ぬことも叶わないマンフレッドは、神殿でアスターテの霊を呼び、許しを
求める。彼女は彼にかけられた呪いを解き、 翌日に解決がもたらされると予言す
る。マンフレッドは彼の許に忍び寄る悪魔を『もう、貴様らの餌食にはならぬ。我と
我が身を壊してきた俺だ。これからだってそうするのだ』と追い払い、やがて静かに
息を引き取る」

 

重い話だ。この劇詩に基づく曲がある。そう、
一つは、チャイコフスキーの『マンフレッド交響曲』作品58。
もう一つは、ロベルト・シューマンの『マンフレッド』。
どちらも納得の楽曲である。強いて言えば、美し過ぎる位?

 

標題音楽。
具体的なものを示しながら、まったく具体的でない。
多くの人物が介在していながら、まったく言葉がない。
あからさまに提示されたものに気を取られていると、
いつしか別の暗示にかけられ、書き手の手中に落ちていたりもする。
まるで一種のマジック。そんな不思議な音楽。

 

書き手も、弾き手も、聴き手も、
思うのは勝手である。想うのも自由である。
だから、標題音楽は魅力的なのかもしれない。
哲学者の問い掛けに似て。

 

 

かつてドビュッシーは、友人セガレンの台本で、
叙情劇《王オルフェ》を書こうとした。
そのとき彼は、セガレンにこう語っていた。

 

「オルフェウスは最初、言葉を語らないようにしてください。彼は歌うのです。それ
どころか、劇のあいだ中ずっと、オルフェウスは言葉なしで歌うべきでさえあるので
しょう」

 

その構想が実現しないままに迎えた、ドビュッシー54歳の年。
死を間近に感じながら書いたセガレン宛の書簡にはこうある。

 

「親愛なる友よ、『オルフェウス』を読み直してみて、心を動かされずにはいません
でした…鉛筆を手に私たちが長い議論をし、そして、私がもっと長い沈黙をしていた
姿が思い浮かびます。-(中略)-劇に伴うはずだった音楽について言うと、私はそれ
が次第に聞こえなくなってきています。何よりもまず、オルフェウスに歌を歌わせる
ことができません。なぜなら、彼自身が歌なのですから—あれは誤った構想だったの
です。しかし、私たちには一つの作品を書いたという事実は残るでしょう。そして、
そのいくつかの部分はとても美しいものです」(1916年6月5日)

 

誰が音楽なのか。誰の音楽なのか。

 

演奏者もまた、
聴き手にとっては、一人の登場人物である。
だから、自身に問うてみる。—“私”はどういう人間なのか?

 

この際、ペール・ギュントのように自分探しの旅に出てみるか?
でも、旅人のつもりが、気付くと難民になっていた、
なんてことになるのも嫌だなぁ。

 

「あなたはノルウェー人ですね?」
そう聞かれて、ペールは答える。
「生まれはそう。しかし中身はコスモポリタン。
 わが輩の持つ財産は世界各国の恩恵を受けている。
 アメリカからは資本主義、ドイツからは観念論、
 フランスからはシックなモード、イギリスからはコモンセンス、
 ユダヤ人の吝嗇、イタリアからは甘い生活、
 そして何よりの恩恵はスウェーデンの鋼鉄」

 

多分、演奏家はコスモポリタンであらねばならない。
では、真のコスモポリタンとは?…はあぁ、なんだか、
継ぎ接ぎだらけの似非コスモポリタンになってしまいそうで怖い。

 

「私はずっと努めてきました。私自身であろうとね」
ろくでなしのペールのそばには、いつも彼を愛する者たちがいた。
“自身”は他者による承認の内にある、と?
自己と他者。人格的他者と非人格的他者。

 

《ペール・ギュント》—深い。深過ぎる。
 

Tartini:Sonata in g minor

"Didone abbandonata"

Grieg:Peer Gynt Suite No.1

Berlioz:Symphonie fantastique

Ketelbey:In a persian market

Tchaikovsky :Manfred Symphony

Schumann: Manfred Overture Op. 115

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page