ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第137回
片翼の天使たちへ
音大に入って、本格的にオーケストラについて学び始めた頃、
その歳まで気付かなかった、自身の大きな欠点を知ることとなった。
それは、幾つかのテクニックに『持続性』がないということ。
まず、〈きざみ〉が続かない。〈後打ち〉が続かない。
〈シンコペーション〉が続かない。〈3連符〉や〈付点のリズム〉
=一定のリズム・パターンのボウイングの反復が続かない。
ソロ曲ではあまり出会うことのなかった「テクニック」たち。
それらは一見、今まで学んできたものに似ている。
エチュードなどは、それに似たもので満たされている。
メカニカルな要素を多く組み込んだ特殊なシステムで、
幼少時代を過ごしてもいるから、どちらかというと、
そういうものは自分では得意だと思っていた。なのに。
初めて楽譜を見たとき、こう思ったのだ。—「楽勝!」
“タタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタタ”
“タタータータータタタータータータタタータータータ”
“タッタタッタタッタタッタタッタタッタタッタタッタ”
あれ? なんか変だ。どうして? 譜面は簡単なのに。
オーケストラの一員となって、初めて知る。
見慣れたパーツも、正しく、雑味なく、リズミカルに、音楽的に、
尚且つ、他者とぴったりシンクロできるように弾くのは難しい。
何とかパーツをマスターしても、それを続けることは難しい。
ある時間を越えると、突然エンストしたように身体が動かなくなる。
腕がだるくなり、動きが鈍くなり、頭の中もモワァッとしてきて、
焦る気持ちと裏腹に、思うように手が反応しなくなる。
家に帰り、したことのない練習をする。
例えば、開放弦で〈きざみ〉を弾き続けるといった。
なぜだろう、すぐ疲れる。休む。きざむ。休む。きざむ。休む。休む?
今まで痛くなったことのない場所に、僅かだが痛みが出てくる。
あれ? これって?
思い出した。基礎練習をやり直したとき、
〈ロングトーン〉の練習でも、同じように、
それまで全く意識したことのない場所が痛くなったことを。
まだ、使っていない筋肉が、できていない筋肉があるんだ…。
すぐショートしちゃうような配線でも、ダメなんだ…。
ヴァイオリン歴十数年のプライドがガラガラと崩れ落ちる。
☆
小さな生徒さんが〈スタッカート〉のエチュードに初挑戦している。
最初の二段三段までは順調、ちゃんとスタッカートで弾いているのだが、
次第に発音が甘くなり、弓が止まらなくなり、終わる頃には、
それがスタッカート課題だったことはすっかり忘れられていて…。
このパターンは、結構多い。そういうときは、
ちょっと意地悪に聞いてみる。—「スタッカートは?」
「あ、忘れてた!」…こういうこともある。
「ちゃんとやってたよ!」…できてなかったけどなぁ。
「段々できなくなっちゃうの」…分かる、分かる。
スタッカートを学ぶための課題なのに、
それを忘れて弾くなど言語道断だが(笑)、
なぜ忘れてしまうのか、なぜ忘れるとできなくなるか、
そのことにも注目したい。というのも、その理由の一つが、
『持続力不足』にあるのではないかと考えているからだ。
ヴァイオリンを弾く上で、心身共に必要な「持続させる力」。
もちろん、ここでいう「力」は物理的な力forceではなく、能力power。
(ちなみに、フォルテforteはforceと同じ語源=「強い」
という意味のラテン語 fortis の語幹fort から来ているそうだ。
できることなら、スターウォーズでいうところのForceが欲しい…)
小さな生徒さんの中には、レッスン中、
すぐ座ってしまう、あるいは座りたがるお子さんがいる。
緊張感が足りないと言ってしまえば、そうなのだが、
「ずっと立っているのが辛い」という理由があったりもする。
(一時間立ちっぱなしというシチュエーションが日常にない?)
先の例のように、ロングトーンで分かることもある。
ゆっくり、何度も、時間を掛けて弾いてもらっていると、
人によっては、段々、(右)肘が下がってくることがある。
肘の高さをキープすることができないのだ。ほかにも、
弓が震え始めたり、等速が保てなくなったり、
上下や前後のぶれが大きくなったりすることもある。
『保つ』こと、『続ける』こと、『繰り返す』こと、
これらは、そうすること自体が難しいのだ。
ただ、この問題は、ほんの少しの、
習慣付けと基礎練習で解決できるものでもある。
☆
きざみが、トレモロが、スタッカートが、スピッカートが苦手。
重音が、移弦が、ロングトーンが、リズムパターンが苦手。
それらが続くのはもっと苦手。ましてや、
それらが複雑に絡み合おうものなら手はパニック、頭はカオス。
考えてみれば、(最近よく言われることでもあるが)、
左手のメカニックについては、多くの人が関心を持つが、
右手のメカニックについては、若干、それが薄い気がする。
右手指は、相当な「凄ワザ」を行なっているのだが、
今一つ注目されないのは、それが目を惹くものでないからだろうか。
得てして、
教本やエチュードにある〈ボウイング・ヴァリエーション〉は、
間引きされる、あるいは飛ばされてしまう傾向がある。
ものによってはそれが主であるのに、基本譜を弾いたら終わり。
「ちゃんとヴァリエーション、練習しておきなさいね」
優しき先生の言葉は、レッスンから帰る頃には遠く彼方に。
右手のテクニックは、
メカニカルなもので裏打ちすることで
よりその技術を深めることができる。
後は、やるか、やらないか。
ハーモニクスやピチカートもそうなのだが、
出てくる頻度が低い=練習時間が短いものは、
結果として「慣れが足りない」状態におかれる。
それが、『苦手』の原因だったりする訳だ。
分かっているのなら、普段から練習しておけばよい。
…だよね。自分で言って、自分の耳が痛い。
☆
初心者さん達の『苦手』に入るテクニックの一つが、
実は、「三次元的な弓の動き」ではないかと睨んでいる。
ここにモレンドで終わる曲がある。ダウンで弾く最後の音、
「弓を、最後にそっと滑らせるように持ち上げると、
音がプツッと切れずに、自然な感じに静かに終われるよ」
そうアドバイスしてみる。ところが、生徒さん、
その気はあるのに、弓が持ち上がらない。持ち上げようとすると、
とってつけたような、ぎこちない動作になり、
音もプツッと切れたり、かえって不自然な音になったり。
…あちゃぁ、余計なことを言わなければよかった。
弾き始めも同様である。
弓が弦に、どのタイミングで、どの部分が、どう接地するのか。
置いてから弾き始めるのか、すべり込むようにするのか、
叩き付けるようにするのか、捻じ込むようにするのか、…。
空間を意識させるような注意をすると、これまた、
余計なことを言わなきゃよかった状態に陥ることがある。
『弓を戻す』という動作が苦手な人もいる。
空飛ぶ弓を、上手くコントロールできないのだ。
「一瞬で」「ゆっくり」「テンポに乗せて」
「弧を描いて」「直線的に」「なめらかに」
『弾き切り』もできない人がいる。
したことがないと言う。怖いと言う。無理ですよぉと言う。
“弓”という、軽いけれど、かなりの長さがある道具、
これを三次元の演奏空間の中で、いかに自在に操るか。
ヴィルトゥオーソ達の空中での弓の軌跡は、実に美しい。
そう言えば昔、バドミントン好きの先輩から、
「バドミントンをすると、腕の動きがよくなる」
なんて、いかにもそれらしい話を聞いた。
ダメ元で、友人を誘ってやってみる。そのときは、
興に乗ってバドミントンをやり過ぎて、二人して筋肉痛(笑)。
後日、改めてラケットを握り、素振りなどしてみた。
ふむ、分からんではない。いや、いけるかも。
☆
当たり前にできる、ということ。
そこに至るまでには、必ず、積み重ねがある。
今の自分には当たり前なことも、
かつての自分には、決して当たり前なことではなかった。
そして、多分、
今の自分には当たり前なことが、いずれは当たり前でなくなる。
それは、身体を痛めたときに、そして、
年齢による衰えを感じ始めたときに、強く実感する。
運動の基礎になる力=『行動体力』は、
次の7つに分けて考えられるという。
筋力:物を持ち上げる、掴む、押すなどの動作をするときに発揮する力
瞬発力:投げる、打つ、跳ぶなどの動作をするときに発揮する力
筋持久力:物を持ち続けたり、繰り返し持ち上げたりするときに発揮する力
全身持久力:運動し続けるときに必要な力。いわゆるスタミナ。
平衡性:平衡感覚に基づいた調整力。
敏捷性:自分の思うように(素早く)身体を動かせる力。
柔軟性:身体を曲げる、反らすなどの運動で使う関節を取り巻く組織の弾力性。
弾き続けるためには、弾き続けるのが一番?
自身の身体を見つめ、自身に適切な練習メニューを組んで。
人は、あることができるようになってしまうと、
何故それができなかったかを、何故それができるようになったかを、
それができなかった頃の感覚を、忘れてしまうことがある。
それができなかったときの焦燥感も、それができたときの歓びですら。
それは、少し寂しい。
できないことは、いっぱいあった方がいいのかもしれない。
できなくなったらできなくなったで、それもいいのかもしれない。
生まれたてのヒナが、
バタバタと羽を動かしている。
本当に、それで空を飛べるようになるのか?
心配になるほど、ぎこちない。
ヴァイオリン弾きは片翼である。
左の翼は楽器によって動きを制約されている。
大きく羽ばたけるのは、右の翼だけである。
まだまだ、右の翼が開き切っていない、
駆け出しの片翼の天使たちを後ろから眺める。
祈る。— 翼よ、大きく開け!
このシンプルで美しい楽譜には
魔物が住んでいる…。
Mozart - Divertimento in D major, K. 136
おなじみ、
クロイツェルのボウイング・ヴァリエーション。
これじゃあ、やる気が失せるかなぁ。
弓、伸びやかに舞い、腕、踊る。
-Bojidara Kouzmanova Sarasate:Zigeunerweisen
-Joshua Bell
Vivaldi:The Four Seaosons
-Midori Goto
Ravel:Tzigane
ボク、がんばる!
がんばれ! 君だって飛べるかも。