ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第135回
それでも進化し続ける。

あなたの耳は何歳?
友人達とアンサンブル合宿をした帰りだった。
電車の中で、品のよい年配の女性に声を掛けられた。
どうも、同じ場所からの帰りだったらしく、
「あそこで練習か何かなさってたの?」と。ニコニコと、
それはもう、こちらが幸せになるくらい素敵な笑顔で、
「私もヴァイオリン、弾いてるんです」、そうおっしゃる。
伺えば、御年85歳。
室内合奏団に所属、1月にはモーツァルトの40番を弾くそうだ。
時にお仲間で集まって、初見大会もしているとのこと。
ただ弾くだけならまだしも、初見大会だって? すごいなぁ。
話しているうちに、住まいがご近所と分かり、
共通の話題もあって最寄り駅までの車中、話に花が咲いた。
大腿骨骨折の手術をしたのだという足元は少しおぼつかない。
歩けるようになってよかったですね、と言うと、
「どうしても、もう一度ヴァイオリンを弾きたかったから。
4月のコンサートにのりたかったし」 で、間に合ったと。
この歳になるといろいろあるの、クスッと笑って彼女は言う。
「指もね、一本動かないの」 左手を広げて見せて下さる。
薬指の辺りが、僅かに陥没したようになっている。
「怪我したときは、もう、弾けないかと思ったわ。
小指はダメだけど、薬指はなんとか動くようになったから…」
見た目はとても痛々しい。でも、その指はモーツァルトを奏でる。
ヴァイオリン弾きにとって耳にもしたくないような、
聞くだけで辛く悲しい、そんなディープな話を、まるで、
日常の出来事のように淡々と語る、老ヴァイオリン弾き。
手を壊して、現役復活したのが60歳。「60歳の始まりね」
その時が来たら、言えるだろうか? 彼女のように、
優しく微笑みながら、そんな言葉を、そんな風に。
=正しい人生のリセット。
彼女の目下の悩みは、引き際だという。
「眼も悪くなるし、耳も聞こえなくなるし、手は動かないし」
確かに、合奏となると問題はあるかもしれない。
「みんなに迷惑掛けちゃうでしょう?」
でも許されるなら、ずっとずっと続けて欲しいなと思う。
「思い切って、お声掛けてよかったわ」
いえ、声を掛けて頂いてよかった。
勇気を頂いた。これからも頑張ろうと素直に思った。
本当にありがとうございました。
☆
ある文献では、身体的能力は15〜20歳でピークに達し、
30歳過ぎるとゆるやかに低下し始めると書いてある。
身体能力も、その機能によりピークに達する年齢が異なり、
例えば、最も早くピークに達するのは全身持久力、
柔軟性は17歳頃、瞬発力や敏捷性は19歳頃がピーク。
筋力は青年期以後も高まって、そのピークは35歳前後だとか。
60〜70歳代の身体能力は、ピーク時の60〜70%前後で、
感覚機能である視力・聴力も当然、年齢と共に衰えてくる。
聴力の低下が始まる時期には、個人差があるらしいが、
どういっても、60歳を過ぎると高音域は聴き取りにくくなる。
一方、身体的能力と異なり、
精神的能力は40歳頃までは上昇し、60歳前後でピークに。
80歳を超えると急速に低下していく。「急速に」かぁ…。
あれやこれや調べていると、
スポーツ選手の平均引退年齢なんて数字が挙げられていた。
水泳選手は凡そ21歳、ラグビー選手は28歳、サッカー選手は26歳、
プロ野球選手は29歳 相撲は32歳で、競馬騎手は38歳…。
運動能力的にはやはり10代〜20代がピークということか。
中学生で、難なくパガニーニのカプリスを弾いている同級生に、
これが同じ人間かと、随分ショックを受けたものだが、
技術的開花が十代前半で来ること自体は、至極当然なのだ。
ただし、それを望むなら早期教育を受けねばならない。そして、
努力が及ばぬものがあることも知っておかなければならないけれど。
「選手寿命を縮めるのは身体の老化ではなく、脳の老化」
なんていう記事も見掛けた。脳の老化? ちょっと怖い。
でも、大丈夫。
われらヴァイオリン弾きは、脳の老化防止対策は万全。
日頃の練習で十分、脳の老化は防ぐことができるはずだ。
それだけ、複雑な作業をしている。あ、ただし、漫然と、
単純作業的練習をしているのでは効果はないかも…。
☆
水泳選手のことを少し調べていたら、
「水泳をすると水かきが発達する」という記事を見つけた。
「水の中に長時間いると耳の穴が小さくなる」なんて記事も。
何がどこまで本当なのかは、分からないけれど、
格闘技系の方々のカリフラワーイヤー等を考えてみても、
身体的変化が起きること自体は、不思議ではない。
*cauliflower ear:「柔道や相撲、レスリング、組み技や打撃系の技を使うスポー
ツ選手に多い耳の変形。耳を打ち付けたり、強く擦られたりした結果、耳介の軟骨膜と軟骨の間がはがれ、その付近のリンパ管や血管が損傷して皮下出血を起こし、そのまま放置することで耳介血腫ができて耳たぶが変形する。『柔道耳『餃子耳』ともいう」
小さい頃、10度が頻発する課題に出会った時、
「これがないともっと指が広がるのに」と思った記憶がある。
そう、指と指の間にある所謂“水かき”である。そして、
今、その水かきはない。ふふふ、進化したのだ!
「ピアニストは水かきを切るってホント?」といった、
恐ろしい質問がネットに載っている。当然、答えは「嘘」。
加えて「水かきを切る必要などない」という声があがる訳だが、
水かきが邪魔で指が広がらなくて悩んでいた人を、
実際に知っているから、切って何とかなるものならと、
考えてしまう人の気持ちは、分からなくない。
我が手を眺むれば、ほかにも幾つか「進化」が見られる。
普通は凹んでいるはずの、指の骨と骨との間が、
掌内の筋肉の発達で、普段からプクッと盛り上がっている。
血管も太い。(若干左手の方が太い。指の動きが激しいからだろう)
親指の付け根の筋肉、小指を動かす筋肉も発達している。
『ボディビル』ならぬ『ハンドビル』大会でもあれば、
結構、いいところまで行けるかもしれない(笑)。
「よく見ると、変な格好よねぇ」と言われる演奏中の左腕、
いつも捻った状態で保ち、且つ、その状態のまま動かすせいか、
右手よりも楽に捻じることができる。多分、普通の人よりも強く。
子供の時からやっているから、そうなったのかと思っていたら、
3年5年の経験者でも、そうなっている人がいた。ううむ。
どうも、こういった「プチ進化」は、
年齢や経験年数というより、個人差に因るものが大きいようだ。
云十年弾いている友人やお弟子さん達の手を見せてもらうと、
何人かの手に、結構な大きさの“水かき”の存在を確認。
えっ? どうして? …理由はすぐ分かった。
—「指が長ければ、水かきはあっても全く問題ない」
なあんだ。水かきがないの、全然自慢になんないじゃん。ぶぅ。
腕の長い短い、手が大きい小さい、指が長い短い、等々、
人には個人差があり、皆それぞれ何某かのハンデを持っている。
地道に練習を重ねていれば、そのハンデをカバーするべく、
それなりに身体が進化してくれるということだ。
人間って凄いなぁ。
☆
何事も、『続ける』のは大変だ。
受験、就職、結婚、出産&子育て…様々な環境的変化、
病気や怪我、老化など自身の身体的変化が、中断を余儀なくする。
時には、止めざるを得ない事態になることも。
志半ばで断念した人も、きっといるだろう。
「続けられる」ということは、とても幸せなことだ。
かといって、「続けている」「続けられている」人達が、
何も問題がなかったから、そうできているのかと言えば、
必ずしも、そうではない。襲い来る災いに心折れることなく、
艱難辛苦を乗り越えて、それを成している人達も多い。
癌や難聴、骨折、精神的落ち込みを克服しての復活を遂げた、
奇跡のヴァイオリン弾き達を、間近に何人も知っている。
『続ける』ことは、凄いことなのだ。
精神的な問題もある。それは見逃せないほどに。
どの世界でも同じなのだろうが、我が業界、
弾ければ弾けたで、一部同業者から妬まれたりもするし、
弾けなければ、コンプレックスに苛まれ、闇に飲まれる。
成熟した環境に上手く入り込めれば何とか生きていけるが、
そういう『場』に巡り合えなかった人達の中には、
壁に押し潰されて現場を去っていく人も少なくない。
『続ける』ことは、本当に難しい。
昔は、「50歳が限界かな」なんて勝手に考えていた。
今に至って、60代70代の諸先輩方が、
バリバリの現役生活を送っていらっしゃるのを見ると、
そういう態度は不遜であったと思わざるを得ない。
だって。
ギトリスやイダ・ヘンデル、現役長老たちの姿を見よ!
*イヴリー・ギトリス Ivry Gitlis 1922年8月22日 -
*イダ・ヘンデルIda Haendel 1928年12月15日 -
その昔、晩年のメニューインのコンサートに行き、
老いの見える演奏に、痛ましさを感じたことがある。
超一流のヴァイオリニストなら、たとえ、相手が子供でも、
そんな風に思わせてはいけないのかもしれない。が、
今ならそれを、微笑ましくも、羨ましくも思っただろう。
身体さえ許せば、本人にその気があるなら、
ヴァイオリンは、いつまででも弾くことができる。
せっかく、ヴァイオリンという楽器と出会ったのだ。
そのことに感謝しながら、
元気でいる間は現役でいたいと思う、一ヴァイオリン弾きである。
もとい、
死ぬギリギリまでヴァイオリンが弾けるように、
元気でいなければと思う、一ヴァイオリン弾きである。

Ivry Gitlis
Ida Haendel
楽しそう!
-Ruggiero Ricci & Ivry Gitlis




水かき、大きい!
こんな手になっちゃった……。
腕の内側を限界までグッとこちらに向ける。左手の方が楽に入る。入る角度も違う。




あんな手、こんな手、あなたの手は、どんな手?