ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第131回
妄想ヴァイオリン

Arturo Michelangeli
- Debussy Reflets dans l'eau
Francescatti Plays Kreisler – Rondino
Claude Debussy-String Quartet in g minor
突然、
近所の公園の池に、ブランコが現れた。
“水の上のブランコ”―なんて素敵なんだろう。
急に冷え込んだ、秋の朝。
もう十分に日は射しているが、素足には冷たいはずだ。
それでも、
爪先で水を弾いては歓声をあげる子供たちの声は輝き、
踝まで水に浸かりながら彼らを見守る父の眼差しは優しい。
足を止めている場合ではないのだが、
いつになく心惹かれる風景に、まるで、
金縛りにあったように、その場を離れることができない。
心が叫ぶ。 乗りたい! 乗りたい‼ 乗りた~い‼‼
でも、五十過ぎたオバサンは乗せてもらえない。(苦笑)
気付くと、頭の中でブランコに乗っている。
ブランコにぴったりサイズの少女時代の自分だ。
トゥイーティ柄のTシャツ、お気に入りのキュロット。
風に遊ばれ、貼り付いたり膨らんだりするTシャツ、
心地よくひらひらと、控え目になびくスカートの裾、
タイミングを合わせて足を曲げ伸ばしする。
高く!高く! 徐々に上がる高度、速まるスピード、
ひゅう ひゅうと空気が刃物のように耳朶を切り、
慌てて閉じた耳奥の堅牢な門の向こうでキーンと音が篭る。
独りになる。もう、誰も見えない。誰にも見えない。
小さな恐怖を押し殺し、足を水面に突っ込んでみる。
痛いほどの水の抵抗、じゃばっという大きな音と共に上がる飛沫、
気持ちいい! 気持ちいい‼ 気持ちいい‼‼
ドビュッシーの『水の反映』が頭蓋に響く。…ベタだ。
でも、浮かんだものは仕方がない。
それに、自分的にはベストマッチだ。
☆
記憶を手繰れば、相当外遊びもしていたが、
根本的には、ヲタク気味の引きこもり体質。
ネット上に掲載された「二次元からの脱却ができない」といった、
若者の相談への回答を、どれどれと真面目に読んでしまう今もある。
ちなみに、小さい頃の『私』は忍者で、怪盗で、東洋の魔女だった。
妄想癖を持っていながら、随分長く、
それが、ヴァイオリンと結び付くことがなかった。
偉大な作曲家たちの楽曲を、
自身の勝手なイメージや妄想で演奏するなんて、
そんな恐れ多いこと、とてもじゃないができなかった。
と、カッコつけたいところだが、
正直なところ、弾くことに精一杯だったというのが正しい。
いや、そんなこと、考えてもいなかったような気もする。
だから当時は、どんなに楽曲や作曲家について調べても、
何にもならなかった。いつも活字のまま、頭の隅に追いやられ、
育ちもせず、変化もせず、アウトプットもされず、クリプトビオシス。
休眠状態から抜け出し、「それ」が動き始めたのは大学時代(遅い!)。
それは突然やってきた。…驚いたのは自分だ。
曲を聴くと(弾くと)絵が見える、景色が浮かぶ、会話が聞こえる、
自分が知らぬ誰かになっている、見たこともない誰かに話し掛けられる、
なんじゃ、こりゃぁ!
☆
最初の憑依体験(!)は、《ロンディーノ》だった。
どちらかというと遠い存在だったクライスラー。
ある日唐突に、眼底に映った映像は仲の良さそうな父と娘。
父の久し振りの休み。二人は散歩に出掛けることにする。
大きく厚く暖かい父の手にぶら下がるようにして、
ときに小さくスキップしながら、軽やかに歩く女の子。
道端にアイスクリーム屋を見つけた彼女はおねだりする。
「ねえ パパ アイスクリーム たべたい」
「う~ん、そうだね。お母さんには内緒だよ」
「わぁ~い ありがとう! パパ だいすき!」
アイスクリームを食べながら、再び並んで歩く二人。
右手に、観覧車が小さく見える。
「パパ こんどのおやすみ ゆうえんち いきたい」
「ごめんね、その日、パパはお仕事なんだ」
「え~ ゆうえんち いきたかったのに」
歩きながら、ごめんねと父は繰り返し謝る。
でも、女の子はもう違うことを考えている。
「あのね きのうね ようちえんのウサギさん しんじゃったの」
「小屋にいた白いフワフワの小さなウサギさんかい?」
「そう とっても と~っても かなしかったの」「そうか」
「ウサギさん ないてる?」「大丈夫、泣いてないと思うよ」
「ホント?」「ほんとだよ」「よかった!」
彼女はクルクルっとその場で回る。悲しい気持ちが飛んでいく。
二人はまた手を取って歩く。「そろそろ、おうちに帰ろう」
玄関で待つ母の姿を見た女の子は「ママ!」と声をあげ、
父の手を振り払うようにして、駆けていく。
「最後はやっぱりママなんだよなぁ。まぁ、仕方ないか」
ここまでくるとイメージというより、やはり妄想だ。
あれ以来、曲によっては時々、
良くも悪くも、何かが降りてくる(?)ようになった。
☆
ラヴェルが好きだ。妄想が止まらない。
ドビュッシーも好きだ。トリップ状態に陥る。
何もかもが苦しかった時代、逃げ場も見つからず、
どうにもならない状況にあって、この世界で生き続けられたのは、
“妄想”で時間をやり過ごす術を、覚えたからかもしれない。
そんなときは大抵、この二人の曲がそばにあった。
ドビュッシーの弦楽四重奏、本当によく聴いた。救いの曲だ。
―ドビュッシー《弦楽四重奏曲 ト短調》作品10
1893年に作曲され、同年12月末パリにてイザイ四重奏団が初演。
かの《牧神の午後への前奏曲》を書いていた時期の曲である。
非機能和声、旋法的な独自の語法、ホモフォニックな傾向。
循環形式が取られているところからフランクの影響も語られる。
この頃の、ドビュッシーからショーソンへの書簡。
「親愛なる友よ。時として、私の送る日々は、エドガー・アラン・ポーの主人公のそれらと似て、煤け、暗く、押し黙ったものです。そして、私の夢見がちな魂はショパンのバラードといったところです! 私の孤独には、あまりにも多くの思い出が詰まっていて、それを追い払うことはできないのですが、結局、生きなければなりませんし、また待たなければならないのですね! 私が『幸福』という乗り合いバスへの間違った切符を持っていないのかどうかはまだ分かりません。とはいえ、私は屋上席で我慢するのですが!(そうした安上がりの哲学をどうかお許しください!)」1893年9月3日(31歳)
ドビュッシーに関する著述は多い。読み漁るとその文章の多くが、
ベートーヴェンやワーグナーに関するそれらと違い、
詩的な表現、美しいフレーズに満ち満ちていることに気付く。
ドビュッシーの音楽を語らんとすると、誰もが詩人になる。
ベートーヴェンの音楽に対しては、誰もが誠実な人となるように。
「彼の音楽が孤独な主観の中に沈潜し、そこでだけ開放された自我の悦楽にひたっている多分に逃避的な姿勢は、やはりその時代以外のものとしては考えられないのであり、また極度に鋭敏な感情の働きと、感覚の末端まで動員しての神経的な表現は、むしろロマン主義の臨終的現象」
「現代に向かって音楽的予告の幾滴かのしたたりを投じた彼の芸術も実はあの時代の暗いヨーロッパの中で、自分の詩を静かに吟じ、夢に埋もれていたところから生まれたのである」~大木正興
氏のこの文章もまた、美しき妄想のようだ。
夢見る夢を見る夢現の世界は、印象主義なる衣を纏い、
それを解説する硬質な文章さえも幻想的な装いにしてしまう。
☆
「この先、私は、再び元気な人間の状態を知ることがあるのでしょうか? もうあえてそれを望んではいません。奇妙なことに、これまで常に病に先を越されてきたこの健康の追及を続けるよりも、突然の終わりが来る方がよいと思うぐらいです」~1916年6月5日(54歳) セガレン宛書簡
1915年が終わろうという頃から、
ドビュッシーは完全に病に支配され、衰え続けた。
そんな中で着手したのが、ヴァイオリン・ソナタだった。
これが彼の最後のソナタであり、最後の作品であり、その初演は、
ドビュッシーの最後の演奏であり、公に姿を現した最後の機会となった。
ドビュッシーからゴデへの書簡 1917年5月7日
「私はようやくヴァイオリンとピアノのための《ソナタ》を書き終えました…。大いに人間的な矛盾によって、それは陽気なざわめきに満ちています。これからは、大空を飛んでいるように見える作品には用心して下さい。そうした作品は、しばしば陰気な頭脳の闇の中にうずくまったことのあるものなのです」
循環形式が採られ、古きよきフランス古典の明晰さを持つこの曲で、
彼が新しい境地に至ったと考える向きもある。どうだろう?
彼はしばしば「自然に何回も繰り返される単純な思考様式」を試みた。
それは堂々巡りに陥り、混乱する人々の姿にも見える。
そういう演奏になってしまう恐れを、演者は持つことがある。
自身が、「自分の尾を噛む蛇のような」と語る、
この“ドビュッシーの循環形式”は、文字通り、
ウロボロス uroborosなのかもしれない。それは、
あらゆるものを包含する一者であり、全にして一であることを、
完全を、無限を、死と再生を、永劫回帰を意味するのだとすれば。
多くの研究者が彼の人物像を描くのは容易ではないとする。だが、
ドビュッシーは自身を「一本の草のように単純」だと主張する。
彼自身がウロボロスだった?
だから彼の存在は永遠?
妄想は果てしなく広がる。
☆
流れゆく時間、変化し続ける自然、交錯する光と影、
瞬間的に煌めくもの、一瞬で消えゆくもの、
主観的な感覚の表現。内部的なものの表出。
楽曲を前に、いつも悩む。
自分のイメージは正しいのか、と。
これは妄想なのではないか、と。
何を勉強すれば、どうすれば、
正しいイメージを持てるようになるのか、と。
ドビュッシーは言う。
「いつでも同じ曲ばかり演奏していることは間違いだ」
そして、こう重ねる。
「音楽には一つの『過去』があるのだ。その過去の灰をかき立てることが大切だろう。灰のなかにはまだ残り火が、ちろちろ燃えている。われわれの『現代』は、こんなにも明るく輝いているが、その明るさには、いつでもあの残り火の光が少しは混じっているだろう」
考えてみれば、
ヴァイオリン弾きの人生なんて、妄想の日々。
過去に生きた人々の熾火を食み、自ら炎と化す。
その姿はマラルメが描いた荒々しき半獣神にも似て。
―あのニンフたちを永遠のものとしたい。
あらぬ想いが、夢の中でいつしか美への追求となり、
音楽や芸術、知識への渇望となり…。
それが妄執ともなろうものなら、奏者失格となる。
その恐怖と戦いながら、それでも我々は、
愛すべき仲間たちの屍を乗り越え、
正しきイメージを捉えんがため、
作曲家たちの心の激流に挑まなければならない。
行け! 妄想戦士。

Debussy : Prélude à "L'après-midi d'un faune"
Debussy-Sonata for violin and piano.
David Oistrakh