ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第128回

イグノラムス・イグノラビムス

Baroque dance

TARANTELLA

-Milstein 
Wieniawski 《Scherzo tarantella op. 16》

Romanian traditional dance (Hora din Moldova)

-Heifetz
Dinicu《Hora Staccato》

-Oistrakh
Debussy 《Prelude "A girl with flaxen hair"》

“見た目”の誘惑に、非常に弱い。
気に入ったデザインのものに出会うと、立ち止まらずにはいられない。
カバーやパッケージに惹かれて製品を手に取ること、たびたび。

 

“ジャケ買い”“パケ買い”…大人なんだからと自分に言い聞かせ、
衝動買いだけはしないようにしているが、情けないことに、
その衝動は抑えるのに苦労するほど大きい。恥ずかしいことに、
本屋やCDショップで“タイトル買い”をしてしまうこともある。

 

その記憶は、幼少時に遡る。ある日、近所の本屋で、
並ぶ背表紙に見つけた、『アルセーヌ・ルパン』の文字。
アルセーヌ・ルパン―その音が口に甘く響いた。
連れて帰らずにはいられなかった。そして、嵌った。

 

『虚無への供物』というタイトルで、中井英夫に嵌り、
『デンドロカカリヤ』というタイトルで、安部公房に嵌り、
『ニジンスキーの手』というタイトルで、赤江瀑に嵌り、
『神狩り』というタイトルで、山田正紀に嵌り、
「澁澤龍彥」に至っては、その著者名で引き寄せられ、

 

どれだけ、“タイトル”きっかけで散財させられたことか。
著者の思惑、出版社の企業策略に見事に乗せられる素直な一読者である。

 

この傾向は、数こそ多くないが、音楽でも同じだ。
“タイトル”に惹かれ手にしたCDも少なくない。

 

アルベニスの《アストゥリアス》、ラヴェルの《マ・メール・ロワ》、
サティの《グノシエンヌ》、オルフの《カルミナ・ブラーナ》、
リゲティの《ルクス・エテルナ》、グラスの《浜辺のアインシュタイン》、

 

今でも、それを口にするだけで、胸の奥がざわつく。
そういうスイッチを入れるキーワードなのだろう。
そして、このタイトルの誘惑に、外れはあまりない。
誘われた先にはいつも、広く深い無限の世界が広がっている。

 

 

初期教育用の、教本の楽曲課題には、
比較的、耳慣れた曲や耳馴染みのよい曲が並んでいる。
『キラキラ星』『ちょうちょ』『子守歌』『行進曲』…、
タイトルも大抵は分かりやすいものなのだが、だからだろうか、
興味の対象にはならず、特に印象の残らぬままに過ぎていく。

 

そうこうしていると、「ソナタ」とか「コンチェルト」など、
あまり自己主張のない、謙虚で地味で普遍的な、
タイトルらしくないタイトルの楽曲が増えてくる。結果、
それを単なる『名前』としてインプットするようになって。

 

先生から、タイトルについて説明があったり、
その重要性を、指摘されたりしなければ、
わざわざ自主的に、その意味を調べたりしない。

 

だから、たまに、『ツィゴイネルワイゼン』とか、
『ツィガーヌ』とか、『チャルダッシュ』とか、
『サパテアード』とか、『ポエム』とか、
ちょっと特別感のあるタイトルに出会っても、
「なんだか素敵な曲名💛」と思う位で、つい素通りしてしまう。

 

と、そんな傾向があるような気がする。
だって、結構よく聞かれるのだ。
「そう言えば『ツィゴイネルワイゼン』ってどういう意味ですか?」
こんな感じで。

 

タイトルだと思っていたものが、通称・愛称であることも少なくない。
ベートーヴェンのソナタ《スプリング》や《クロイツェル》等はその代表だが、(前者はイメージ、後者は献呈者)、
そんなことを知ると、それが中途半端な知識だとの自覚なく、
「なぁんだ、本人が付けたんじゃないんだ。だったらいいか」などと。

 

芽生えた小さな不信感から、全般的に軽く受け流す習慣が付き、
挙句、「タイトルは大して重要ではない。すべては楽譜の中にある」
なんて、もっともらしい主張を掲げ、タイトルをスルー、
そうして大切なもの、重要なヒントを失ってしまうことも。

 

 

小さな子に、うっかり、タイトルの重要性などを語ってしまうと、
何だか大変なことになってしまって、後悔することもある。

 

「せんせい、『かじや』ってなに?」 そうかぁ、鍛冶屋を知らないかぁ。
「せんせい、『こうじょう』ってなに?」 荒れ果てた城、分からないよねぇ。
「せんせい、『かりうど』ってなに?」きっと、狩りも知らないんだろうなぁ。

 

「せんせい、『メヌエット』って?」 踊り(の音楽)の名前だよ。
「どんなおどり? おどったことある?」 ない。「え~ないの~」 うぅ。
「どうして『メヌエット』って曲がいっぱいあるの?」 ええと…。

 

器楽曲から舞曲を外すことはできない。
ブーレBourrée、クーラントCourante、ジグGigue、ルーレLoure、アルマンドAllemande、リゴドンRigaudo、サラバンドSarabande、パッサカリアPassacaglia、シャコンヌChaconne、タンブーランTambourin、フォリアFolia、パヴァーヌPavane、シチリアーナSiciliana(シシリエンヌSicilienne)、ガイヤルドGaillarde、パスピエPassepied、… 

 

バロックダンス―その舞踊・舞曲名がタイトルになっている曲は多い。
どんなものなのか、手の届く範囲内で資料を調べてはみるが、
こればかりは残念ながら、専門書を読んだだけではピンとこない。
踊りは無理でも音楽は手の内に入れたい。耳で覚えるしかないのかなぁ。

 

舞踊・舞曲由来のものは、まだまだある。
ワルツWaltz、エコセーズEcossaise、ポロネーズPolonaise、マズルカMazurka、オベレクOberek、オベルタスObertas、クヤヴィアクKujawiak、ハバネラHabanera、ボレロBolero、サパテアードZapateado、タンゴTango、ポルカPolka、チャールダーシュCsárdás、…

 

今、いろいろな作曲家の名前が頭に浮かんだのでは?
思えば、我々は、随分多くの舞曲(の名前)を知っている。
結構、弾いていたりもする。素晴らしい!

 

ところで、この話題に関連して、よく聞かれるのが、
メヌエットやスケルツォ楽章にある〈トリオ〉についてである。
ご想像通り、「トリオ」は舞曲(舞踊)の名称ではない。答えは、
「17世紀これら舞曲においてその中間部が、3声部trioで書かれ演奏された習慣に由来する名称」

 

バロックダンスのステップを踊り切るには、曲にある長さが必要。
でも、同じ曲を何度も繰り返すのでは芸がない。なので、
別な舞曲(トリオ部分)を加え、最後に最初の曲に戻るようにした。
せっかくなので編成も変えてみた―というのが事の顛末のようだ。

 

 

それなりに経験を重ねると、それぞれの舞曲が、
何拍子なのか、どんな速度なのか、どんな特徴があって、
どうニュアンスを付ければいいのか、漠然とではあるが分かってくる。
けれど、その程度の認識で弾いていてよいのだろうか? 悩む。

 

そりゃあ、いろいろ知っていた方がよいに決まっている。でも、
現実的に舞踊・舞曲に触れられる機会は、探しても少ない。
学校の授業にあったらよかったのに、なんて思う。

 

ヴィエニアフスキの《スケルツォ・タランテラ》に出会った時、
それはもう本当に何も考えず、勝手にタランチュラをイメージして、
そんな感じ(どんな感じ?‼)のまま、練習に挑んでいたのだが、
ふと気になって調べてみれば、〈タランテラ〉も舞曲だった。

 

その名称に関して「毒蜘蛛のタランチュラに噛まれると(その毒を抜くために)踊り続けなければならないという話に由来する」という説もあるらしいから、
あながち的外れという訳でもないが、それでも赤面ものである。

 

ディニクの《ホラ・スタッカート》の〈ホラ〉も、長い間、
小さな疑問として胸に抱えたまま放置していたが、これも、
ルーマニアの民族舞踊の名称だった。知らなくても弾けるのだから、
ある意味恐ろしい。調べれば、答えはすぐ出てくるのに。猛省。

 

子供たちのことを言えない自分もいる。
その昔、「ネルコルピウ」「オンブラマイフ」「ペルペトゥウムモビレ」「ジュトゥヴ」…
全部、おまじないの言葉だと思っていた(笑)。

 

→パガニーニ《ネル・コル・ピウの主題による変奏曲》:パイジエッロが作曲したオペラ《美しい水車小屋の娘》の中のアリア=『Nel cor pìù non mi sentoもはや私の心には感じない』から。Nel cor pìùは「虚ろな心」と訳される。


→ヘンデル《オンブラ・マイ・フ》:オペラ《セルセ》の中の木陰への愛を歌ったアリア。オンブラOmbraは「影」、マイmaiは「never」、フfuは三人称単数の過去形で、「Ombra mai fu di vegetabile=こんな木陰は今までになかった」。邦題は『優しい木陰』『懐かしい木陰』など。曲の速度記号から『ラルゴ』とも呼ばれる。


→《Perpetuum mobile》は「常動曲」「無窮動」のこと。「ペルペトゥウム・モビレ」はラテン語、イタリア語では「モト・ペルペトゥオmoto perpetuo」


→サティ《ジュ・トゥ・ヴJe te veux》は1900年に作曲されたシャンソン。邦題は「お前が欲しい」など。

 

 

そう。ヴァイオリンも小品となると話が違う。そのタイトルは、
「モーツァルトのヴァイオリンソナタ第35番ト長調 K.379(373a)」
的な堅苦しいものではない、お洒落で美しいものも少なくない。

 

例えば、《トロイメライTräumerei》(=夢、夢想)、
例えば、《エストレリータEstrellita》(=小さな星)」、
例えば、《カヴァティーナCavatina》(楽式の一つ。叙情的旋律を持つ素朴な性格の小品)、
例えば、《ヴォカリーズvocalise》(歌詞を伴わず母音のみによって歌う歌唱法)

 

オリジナルでないものが多いのが、少々後ろめたくもあるが。

 

カヴァティーナといえば、『ラフのカヴァティーナ』。
この『○○の△△』というタイトルは誤解を招きやすい。
「バッハのガヴォット」「ベートーヴェンのメヌエット」の例もあり、
『○○』を全て作曲者名だと思う人がいる。
多くの思い込みを訂正してきた。

 

例えば、『タイスの瞑想曲』や『ジョスランの子守歌』、
これらの○○はどちらも、オペラのタイトルであり、主人公の名前。
ドビュッシー《ゴリウォーグのケークウォーク》のゴリウォーグは、
絵本に出てくる黒人の男の子の人形のキャラクターの名前。
ヴィエニアフスキ《ポーゼンの思い出》のポーゼンは地名。

 

知っている人には至極当たり前なことなのだが、これがなかなか…。

 

《美しきロスマリン》《亡き王女のためのパヴァーヌ》
《亜麻色の髪の乙女》《わが母の教え給いし歌》…
そこに女性の存在があるだけで、イメージが膨らむのは何故だろう?

 

実は、《亜麻色の髪の乙女La fille aux cheveux de lin》も放置していた。
最初の頃は「亜麻色」がどんな色か、ちゃんと分からぬまま弾いていたのだ。
「亜麻色」は黄色がかった薄茶色、「亜麻色の髪」は金髪の一種、
白に近い金髪と言われてはいるけれど、薄い栗色が正しいとの記述もある。
とにかく、キラキラの金髪って訳じゃないらしい。うぅむ。

 

他にタイトルでよく見掛けるのは〈性格的小品〉と呼ばれるもの。
=自由な発想で作られた小品。ワルツやマズルカなどはこの括りにも入る。

 

ノクターン(夜想曲)、カプリス(奇想曲)、バラード(譚詩曲)、
ラプソディー(狂詩曲)、ファンタジア(幻想曲)、バルカローレ(舟歌)
プレリュード(前奏曲)、アンプロンプチュ(即興曲)、エチュード(練習曲)、

 

バガテルは「ちょっとしたもの」「つまらないもの」といった意味だし、
ユーモレスクは「気まぐれな」「軽やかな」「滑稽味のある」という意味。

 

なんだろう、こうして列挙したものを読み上げるだけで、
何もしなくても、音楽の世界に引き摺りこまれていく感じがする。

 

 

気持ち的には、純粋器楽派である。
音楽を聴いたり、演奏したりするときに、
人からストーリーを与えられることを、あまりよしとしない。
だから、オペラやバレエの世界にはもう一息入り込めない。

 

しかし、曲のことを、それを書いた人のことを知りたい、
そこにある形のない物語を、見えないストーリーを知りたい、
そういう欲求は強い。だって、知れば知るほど、その曲が好きになる。

 

「我々は知らない、知ることはないだろうIgnoramus et ignorabimus」
      ~生理学者エミール・デュ・ボア=レーモン

 

人間はその答えを永遠に知りえない、という意味でならば、
音楽の世界はまさにそうだ。でも。

 

演奏家としては、こういう信念で挑戦し続けたい。

 

「我々は知らねばならない、我々は知るであろうWir müssen wissen — wir werden wissen」
      ~数学者ダフィット・ヒルベルト

 

タイトルは、その入り口だ。
門は大きく開かれている。

© 2014 by アッコルド出版