レッスン後、楽器を片付けながらの他愛のないおしゃべり、
なぜだか、“ベルギーワッフル”の話でお弟子さんと盛り上がる。
初めて食べた時の感動が忘れられず、ふと食べたくなることがある、
そんな話から、あれこれ語り合っているうちに、気付いた。
どうも、イメージしているものが違うような…。
 
「 私が食べに行くお店のワッフルは四角いですよ」
あれ? ベルギーワッフルって丸くなかった?
小さな疑問を残しながらも、ホント美味しいよねぇ、
と、話がまとまったところで、お弟子さんが言う。
 
「そういえばベルギーって、あまり縁がないですよね」
ヴァイオリンと、ということのようだ。
いやいや。そんなことはない。だって…。
「ベルギーの作曲家って、誰かいましたっけ?」
彼女は小首を傾げる。え? そんな感じ? 参ったなぁ。
 
「『ゴセックのガヴォット』弾いたよね?」
「弾きました! ゴセックってベルギーなんですか?」
まあ、フランスで活躍したからベルギーのイメージは薄いけど。
 
「『フィオッコのアレグロ』も弾いたよね?」
「フィオッコもベルギーなんですか!」
まあ、お父さんがイタリア人だからイタリアな名前だけど。
 
「『アッコーライのa-moll』のコンチェルトも弾いたね」
「ひ、弾きました…。アッコーライも?」
まあ、存在自体が謎に包まれている人だから仕方ないけど。
 
「『フランクのヴァイオリンソナタ』知らないとは言わせないよ」
「知ってます、知ってます、大好きです!」
 
「『イザイの無伴奏』も好きって言ってたよね」
「言いました。すみません。本当にごめんなさい!」(笑)
 
 
「そう言えば、『フランコ=ベルギー派』ってありましたね」
そう! それだけでも、思い出してもらえてよかった…。
 
ヴァイオリン近代奏法の祖ヴィオッティの流れを汲み、その原理
=「技術と音楽性の融合」を確たるものにした『フランコ=ベルギー派』
華麗でダイナミックな技巧、典雅な奏法、甘美でエレガントな様式。
 
ベルギーが独立(1830)する前から、彼の地とフランスの関係は密だった。
多くのベルギー出身の音楽家たちが、その人生のうちに、
ベルギーとフランス(特にパリ)の間を行ったり来たりしている。
見事に音楽は国境を越え、2つの国は手を取り合って、
後世の血脈となる一時代&一大楽派を築いたのだが…。
 
今に至って、ヴァイオリン音楽史&ヴァイオリン演奏史的に、
「ベルギーの財産」として際立っているのはイザイだろう。
しかし、他にも、ヴァイオリン弾きが忘れてはならない、
伝えなければならない人達が、曲が、音楽が、技術がある。
 
例えば、シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ。
フランコ・ベルギー派の創始者として、ヴァイオリン史上重要な位置を占める。
例えば、アンリ・フランソワ・ジョゼフ・ヴュータン。
ヴァイオリン界に新しい風を吹き込み、『ロシア派』の礎をも作った人物だ。
 
彼ら自身の演奏は、残念ながら耳にすることはできない。
だが、作品は残っている。ちゃんと楽譜もある。
音源は予想以上に少ないが、探せば動画も少しは出てくる。
 
弾かなくてもいい。弾けなくてもいい。
趣味じゃなくてもいい。嫌いでもいい。でも、
知っていてほしい。一度は聴いておいてほしい。
できるならチャレンジしてみてほしい。そう思う。
 
そこには、ヴァイオリンでしか描けない、
“ヴァイオリンの世界”がある。
 
そこには、ヴァイオリン弾きにしか分からない、
“ヴァイオリニストの語法”がある。
 
同じヴァイオリン言語を用いる、同じ技巧派の、
パガニーニやエルンストらなどとは、また少し違う、
優美で輝かしい独自の世界が、そこに広がっている。
 
 
―シャルル=オーギュスト・ド・ベリオ(1802-1870)
 9歳の時、ヴィオッティの協奏曲を弾いてデビュー。
 1821年、パリでバイヨに師事。ヴィオッティにもここで出会う。
 1826年、オランダ(ネーデルランド)王のソリストに就任。
 1828年にオペラ歌手マリア・マリブランと出会う。
 1830年、革命のため地位を失ったのを機にヨーロッパ各地で演奏旅行を行ない、成功を収めた。
 その後、人妻だったマリブランと駆け落ち。1836年に二人は正式に結婚するが、その6ヶ月後、彼女は落馬事故で死んでしまう。ド・ベリオ、ショックで引きこもるが、四年後コンサートの舞台に復帰。
 パリ音楽院のバイヨが死ぬとその後任に推されるが、生国で教えたいという希望からブリュッセル音楽院のヴァイオリン科主任教授を務めることになる(1843-1852年)。
 1852年に視力の障害から引退に追い込まれる。1858年に失明。
 1866年には左腕の麻痺により創作活動もできなくなる。
 1870年にブリュッセルで死去。
 
「パガニーニが登場する前にデビューしたのは幸運だった」
そう書いてある。確かにそうかもしれない。なにしろ、
話題性という意味でパガニーニに勝てる者はいなかっただろうから。
 
それでも、ド・ベリオの演奏は、高く評価された。
あの詩人ハインリヒ・ハイネをして、こう言わしめた。
「彼の亡き妻の魂が、そのヴァイオリンを通して歌っているようだ」
 
師ヴィオッティは、若きド・ベリオにこう言ったという。
「君には立派なスタイルがある。それを完成させることに専念したまえ。才能のある人の演奏をすべて聞き、あらゆるものを参考にするのだ。しかし、決して何かを真似てはいけない」
 
師となったド・ベリオは、まだ幼かったヴュータンにこう言ったという。
「私の真似をし続けていたら、君はいつまで経っても小さいベリオでしかないんだよ。君は君自身にならなくてはいけない。君の道を探し出して、ヴュータンにならなくてはいけないんだ。このことを忘れないでいたまえ」
 
 
―アンリ・フランソワ・ジョゼフ・ヴュータン(1820-1881)
 4歳からアマチュアの父にヴァイオリンの手ほどきを受け、6歳の時、ローデの作品でデビュー。近隣都市で演奏をするようになる。
 1828年、シャルル・ド・ベリオと出会い、門下に入る。
 1829年にベリオに連れられてパリに向かい、大成功を収めるが、翌年、師のド・ベリオがマリブランとイタリアに駆け落ちしたため、単身ブリュッセルに戻り、その後は自力で自身の演奏技術に磨きをかけた。
 1833年のドイツ旅行では、シュポーアやシューマンとも知己を得る。
 ヨーロッパ各地を歴訪。多くの音楽家達にその存在を知らしめた。
 1835年ウィーン音楽院に留学。ゼヒターに音楽理論と対位法を学び、1836年からはパリでレイハに作曲を学ぶ。
 1837年以降は演奏家としてヨーロッパだけでなく、アメリカにおいても活躍。
 1846年~1851年、ニコライ1世の宮廷音楽家、帝室劇場の首席演奏家に任命されてペテルブルクに在住、また教師としてペテルブルク音楽院で『ロシア派』その後の繁栄の基礎固めをした。
 この間に行われた1849年サンクトペテルブルク、翌1850年のパリにおける《ヴァイオリン協奏曲 第1番》初演は絶賛される。
 1871年帰国、ブリュッセル音楽院の教授となり、イザイらを輩出。
 1873年、脳卒中により半身麻痺になり、その座をヴィエニャフスキに委ね、治療に専念するが、1879年再発、引退を余儀なくされた。娘夫婦の暮らすアルジェリアで余生を過ごす が、馬車で事故に遭い、その時の傷がもとで命を落とした。
 
彼のことを「小さなパガニーニ」と称したシューマンは、その演奏についてこう書く。
「アンリの演奏は甘く明るくて、花のようだ……楽器から引き出す最初の音から最後の音まで、彼は君のまわりに魔法の輪を描いて君を捉え、君は始まりも終わりも分からなくなる」
 
ヴュータンは自作曲を演奏するだけでなく、
忘れられかけていたベートーヴェンの協奏曲を蘇演するなど、
古典の研究怠らず、その熱心さはまた、作曲技法にも及んだ。
 
協奏曲においてはオーケストラとの関係を、単純なソロと伴奏という形ではなく、
一体感や対比を重んじたシンフォニックなものに仕上げることに傾注している。
その独自の創意と語法は、ベルリオーズらからも認められるものだった。
 
 
一生の間に弾く(ことができる)曲、これを考えると、
その数は思っている以上に、限られているのかもしれない。
時間その他の問題もあるが、『出会い』も大きい。
 
オーケストラに所属すれば、オーケストラの曲ばかり、
レッスンに通っても、何を課題にするかは先生の意向次第、
そういう意味では、ド・ベリオやヴュータンの楽曲は、
ヴァイオリン弾きにとって(特にアマチュアの人にとって)、
出会うことの難しい存在かもしれない。
 
早期教育においては、技術に囚われない音楽性を望むばかりに、
その「技術の獲得」に躍起になる傾向がある。
彼らの曲のような『技術的に難しい課題』は、つい、
「弾けるようになること」に終始することが多い。結果として、
それらの楽曲がエチュード的学習課題のような印象を、
生徒に植え込んでしまうことがある。気を付けねば…。
 
もっと悲しいことは、その音楽を楽しめる時期に来ても、
それらを勉強し直すチャンスがなかなかない、ということだ。
それを本人が望まない限り…。
 
ヴァイオリニストの書いた曲には、それほど好きでなくても、
弾いてみると気持ちのよい曲、楽しくなる曲というものがある。
語法の一致が、身体に心地よさをもたらすのだろう。
それを知ることは、ヴァイオリン技法の根幹を知ることでもある。
 
それを学ぶことは、ヴァイオリニストの身体になるための、
もしかすると、一番、手っ取り早い方法かもしれない。
ヴァイオリニストが書いた曲は、やはり大切なのだ。
 
同じ楽譜でも、「そこに在るもの」は随分違う。
ヴァイオリニストが書いた楽譜には、
ヴァイオリン弾きにしか読み取れない、特別なものがある。
それをちゃんと、聴き手に伝えられているだろうか? 自戒する。
 
いや。そもそも、演奏のチャンスがなければ伝えようもないか。
ああ、あれこれ、いろいろ、実に悩ましい。
 
 
でも気になるのは、やはり“ワッフル”。調べてみた(笑)。
“ブリュッセル・ワッフル”。
 大きめの長方形で、食感はサクサクで軽い。
 甘さが控えめなので、トッピングで甘さをプラスする。
“リエージュ・ワッフル”。
 現地では、日本のものよりやや大きめの楕円形。
 歯ごたえのある生地。真珠砂糖が入っていて充分な甘さがある。 
 
で、驚いた。本場ベルギーでは「ワッフル」とは言わないらしい。
じゃあ、何?=「ゴーフルgaufre」 e.g.「Gaufre de Bruxelles」 
 
北部ドイツやオランダ低地などでは、蜂蜜が詰まった蜂の巣を「wafel」と呼んでいた。
その後、アメリカに移住したオランダ人が蜂の巣模様のパンケーキを「wafel」と呼んだ。
それでアメリカでは「ワッフルwaffle」になり、当初アメリカンワッフルが一般的だった日本では「ワッフル」と。さらに。
 
日本で『ゴーフル』といえばあれだよね、あれ(笑)。
某大手菓子メーカーを代表する菓子。昭和の初めにはもう発売されている。「大正15年頃、洋行帰りのお客様がフランスの焼菓子を持参され、『日本でも作ってみてはどうか』と提案されたのがそもそもの発端なのです」
このゴーフルが広く世間に知られると、当然、類似品が。たまらず、
某メーカー『“ゴーフル”の商標と意匠の登録』を出願、1953年商標の権利を取得。
そして、1986年ベルギーワッフル日本上陸! なるほど。大人な理由が…。
 
ベルギーだの商標登録だのなんだの、書いていたら、
悲しいかな、オリンピックのエンブレム問題が起きてしまった。
リエージュと検索すると、そのニュースばかり出てくる(涙)。
 
いやいや。とにかく、ビールに、チョコレートに、ワッフル。
ベルギー万歳\(^o^)/ でも、ベルギーと言えば、実は
『フライドポテト』なんだそうだ。そのフライドポテト推し半端じゃなく、
2014年にはベルギー国内で無形文化遺産として登録されていて、
今年はユネスコの世界文化遺産に申請する予定だとか。そんなに?!
 
全然、ベルギーのこと、知らないなぁ。まずい、まずい。
反省していたら、なんだか、おなかがすいてきた。
ベルギーポテト食べた~い!

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第124回

ヴァイオリニストの語法

どれも素敵な曲…。

Gossec's Gavotte :Mischa Elman

Fiocco' Allegro:Itzhak Perlman

Accolay, Violin Concerto No.1 a-moll

Beriot, Charles Auguste de Scene de Ballet op.100

Henri Vieuxtemps:Fantasia Appassionata Op.35 - G.Kremer

Henri Vieuxtemps:Violin concerto Nº 5 Op.37 - Jascha Heifetz

© 2014 by アッコルド出版