ギリシャを巡ってユーロ圏が揺れている、
そんなニュースを耳にする度に、なんとなく溜息が出る。
その不可解な心持ちに、胸の奥底を探れば、
縁もゆかりもない遠い“ギリシャ”という国に、
なぜか親近感を持っている自分がいることに気付く。
 
何かとギリシャ神話に触れることがあったから?
フェタチーズやタラモサラダが好きだから?
数学で『ピタゴラスの定理』を勉強したから?
パルテノン(多摩)が我が街に建っているから?
ううむ。それもないとは言えないけれど。
 
ヴァイオリンについて学ぶときは大抵、
最初期の楽器の記録が残る16世紀半ば、あるいは、
ヴァイオリン音楽に関して注目度が増した17世紀初頭、
その辺りが、学習の出発点となることが多い。
 
だが、理論や奏法を勉強し始めると、
ヴァイオリンなんて姿も形もないはずの、
古代ギリシャの時代に遡ることを余儀なくされる。
そこに出てくるのは…「ああ、『ピュタゴラス音律』か」
 
我々は、
美しい純正な響きも、濁りや唸りを伴った苦い響きも、
流麗で根源的な旋律音程も、個々が独立した散文的な音程も、
すべて自分で作ることができる楽器を手にしている。いや、
自分で音程を作らねばならない楽器を手にしている。
 
幾つもの時代を経て、幾つもの“音律”を手にした今、
それらが生み出された歴史的経過と共に、その何たるかを学ぶことは、
それしかない、それが当たり前だった時代よりもずっと、
必要性が高いものだということは、理解できる。
 
なにしろ、調弦を電子機器に頼る人がいる時代だ。
平均律を礎とする楽器や演奏が満ち満ちている今、
「“音律”を勉強する」という感覚ではなく、
原点回帰という意味で、よき響きを求めて、
しばし太古の時代に遡るのは、よいことかもしれない。
 
 
“モノコルドmonochord”という装置がある。
ピュタゴラスが発明したとされる音律を規定する器具だ。
初めて、そのイラストを目にしたとき、思った。
これ、ヴァイオリンの祖先?
 
モノコルド=共鳴器の上に1本の弦を張り、
駒を動かして弦長を変え、求める音高を得る。
電気的・電子的測定機器が実用化、一般に行き渡るまで、
教育や研究、演奏の現場などでも使われていたらしい。
 
つまり、
楽器として生まれたものではないということなのだが、
その形態はまさに撥弦楽器、その原始的な音色は、
心の琴線に共鳴を呼び起こす。たった一つの音で。
 
形もさながら、音程を(自身で)作る&探すという作業もまた、
ヴァイオリン弾きにとっては、友達感覚をもたらすものだ。
 
ピュタゴラス楽派が神聖視したテトラクテュスtetraktys、
(=1から4までの自然数とその合計である10を図形化したもの)
ボーっとこれを眺めていると、その点の並びが、
ハーモニクス奏法の節nodeにも見えてくるから敵わない。
後の純正律にも繋がる周波数整数比の象徴のような図形…美しい。
 
日々、ピュタゴラスが愛した五度の響きに浸ってもいる訳だし、
それやこれやで、我々ヴァイオリン弾きにとって、
ピュタゴラスさんは大切な人なのだ。が、かといって、
彼についてもギリシャについても、声高に語ることはない。
ごめんなさい、ピュタゴラスさん。でも、
心のどこかに、あなたはいつも住んでいる。
 
 
「万物の根源は数なり」
そう、ピュタゴラスは言ったらしい。
その頃、音楽は数学だった。
 
ちなみに、ピュタゴラス派では、
“数学mathematics”(『マテーマ』は「学ぶ」という意味の語から派生)を
「数」と「量」の分野に分け、それを
「静止」しているか「運動」しているかで分けた。
 
  静止している数=「算術 (数論)」
  運動している数=「音楽(音階論)」
  静止している量=「幾何学」
  運動している量=「天文学」
 
運動している数…ううむ。
 
「宇宙のすべての運動や物質は物理現象であり、
 その物理現象には必ず法則が見出せる。
 そして、その法則は数字によって記される」
 
確かに、“数字”や“数学”は常に我々と共にある。
ヴァイオリンは宇宙の一部なんだなぁ。
 
理論書はもちろん、楽譜にだって数字はいる。
ヴァイオリン(属)だけが使う数字もある。
4本の弦はE線から順に「Ⅰ」「Ⅱ」「Ⅲ」「Ⅳ」、
フィンガリングは、「0」と「1~4」と数字が振られているし。
ポジションは「1st」」「2nd」「3rd」…(出そうと思えば)「13th」。
 
ボウイングにおいては『配分』なんて言葉を使う。
教本にはときに「1/2(弓)」「1/3(弓)」といった指定もある。
弓…「どこを」「どれだけ」使うか、いつも考えている。
「スピードと圧力の相関関係」も同様に、常に考えている。
「駒からの距離」「上げる高さや落とす角度」…いろいろ考えている。
 
 
だけど、ヴァイオリン弾きは「数値化」しない。(できない?笑)
 
だから、こんな感じになる。
「弓はたくさん使って」「それじゃぁ使い過ぎ。コンパクトに」
「もう少し駒のそばで」「もっと速く弓を動かさなきゃ」…
 
こうは言わない。
「最低50㎝は使わなくちゃ」「今の二割減で。使って2㎝かな」
「駒から1cm以上離れたらダメ」「30㎝/秒で弾いて」
「斜め45度から弦に進入して」「今は親指を支点にしない!」
「曲線を意識しようか」「減速はそこのドの音から開始して」…
 
なんだか、吐き気がしてきた。(笑)
 
その昔、人は「1」「2」「たくさん」で生きていたという。
漢数字の『参』は「集まる」ということ。
大和言葉で『三つ』は「満つ」で「たくさん」の意。
英語の『three』には「幾度も」「大いに」の意があるのだと。
 
ヴァイオリン弾き、一応「4」までは数えられる。
でも、「4」が限界かもしれない。だって、
弦は4本、フィンガリングも4まで、
10を越えるポジションを持ちながら、口にするのは、
せいぜい「4ポジ」まで、それより上は「ハイ・ポジ」(笑)
「5ポジ」「7ポジ」と言うときは、ちょっとカッコつけたりする。
 
ただ、数学的に考える習慣がないことで損をすることもある。
(それを「数学的」というと数学者さんが怒るかもしれないが…)
 
「そこ、もっと歌って!」「はい!」
「もっと、抑揚をつけて!」「はいっ!」
「もっともっと、感情を込めて!」「はいっっ!」
「何にも変わってないけど、何かした?」「気合い入れました‼」
 
たまに「気合い」が功を奏することもあるけれど、
それは偶発的なもので、身体はなぜそうなったかを知らない。
だから、覚えられないし、再現できないし、応用も効かない。
 
音楽と数学は表出の表裏なのだ。
困ったときは、ちょこっと裏返せばいい。
 
 
愛すべきピュタゴラスの本、『音楽』のコーナーにはまずない。
探すべきは『哲学』、あるいは『数学』、あるいは『スピリチュアル』‼。
 
大体、本人の存在が怪しい。
言っていることも、していることも怪しい。
だって…。
教団にはこんな戒律があったという。
 
 ―刃物で火をかき立ててはならない
 ―心臓は食べてはならない。
 ―秤竿を跳び越えてはならない。
 ―パンをちぎってはいけない。
 ―白い雄鶏にはさわってはならない。
 ―枡目の上に座ってはいけない。
 ―灯のそばで鏡をのぞいてはいけない。
 ―蚕豆を食べてはならない。
 
まだまだ、いっぱいある。
 
いろいろ「なぜ」が浮かぶが、
ディオゲネス・ラエルティオス(3世紀前半頃に活躍した哲学史家)の
著書を読むと、そういうことかと納得させられたりもする。曰く、
 
「刃物で~」というのは権力者たちの怒りや膨れ上がった激情を突き動かすことのないようにという意味。
「心臓は~」は悲しみや苦痛によって心を溶かしてはならないという意味。
「秤竿を~」は平等・公正や正義を踏み外すなという意味。
 
う~ん、少し苦しい感じもするけれど、
説明されている内容は、もっともである。
直接お話聞いてみたかったなぁ、ピュタゴラスさんに。
 
しかし、蚕豆を食べてはいけないのは、なぜ? 
政敵にソラマメ畑に追い詰められて、禁忌から中に逃げ込めず殺害された、
と、ピュタゴラスの最期を語る伝承もあるし…。
「『ソラマメ中毒』『ソラマメ病』が背景にある」
という説に、一票入れるかなぁ。
 
 
西洋占星術や易学等と並ぶ占術の一つ、
“ピタゴラス数秘術 Numerology”も有名だ。
 
「数は魔術的な力を持った神秘的存在」…なんとなく共感してしまう。
 
  1にはモナドmonadという名を与え、それ自体を数とは考えず、
  特別なもの、不可分なるもの、神的なものの象徴とした。「絶対」
 
  2は最初の数と位置付けられ、対立、極性、分離の象徴、
  女と男、右と左、善と悪、太陽と月…一対性を表す。「相対」
 
  3は最も神聖な数。〈包み込むもの〉〈完全なるもの〉の象徴、
  物理的な空間を包含。三位一体。神聖なるトリアーデ。「発展」
 
  4は最初の合成数で平方数。宇宙の概念を象徴し、
  四元素、四方向、四つの季節…調和、真理、正義。「安定」
 
5は…。興味のある方は、ぜひピュタゴラスの数の世界へ。
 
 
「輪廻転生と魂の浄化」を説き、「友情とは平等である」と説き、
「肉体の浄めには医術を、魂の浄めには音楽を」と説いた、
わがピュタゴラス氏は、また、
音楽によって魂の調和を回復させることができるとも考えていた。
 
ものの本によると、彼は酔っている青年に対して、
ある調の曲で歌いかけることで平常な意識を取り戻させたらしい(!)
実際、彼は「音楽医学の父」「音楽療法の先駆者」と考えられている。
ヒーリング音叉&音叉セラピーのルーツとも言われているし。やるなぁ。
 
 
『素数と音楽』、そんな具合に、
数学の本やエッセイのタイトルに、ときに、
「音楽」や音楽をイメージさせる言葉が含まれるものがある。
実際、具体的に数学と音楽との深い関わりを著すものも少なくない。
自身は芸術家であると語る数学者もいる。
 
数学者は芸術に、音楽に恋をする。
まるでギリシャ神話の神々のように、
報われぬ恋をする数学者たち。通じぬ想い。
 
作曲家には同じ言葉を持つ者もいるから、
相容れることは、可能かもしれない。だが、
本来、その想いを受け取るべき演奏家たちは、
投げ掛けられたものが愛の言葉とも知らず、恐れをなして逃げる。
 
数学者は諦めない。
想いよ届けと、そっと静かに願い続ける。
 
 
星合いの夜空を、梅雨が昏く遮る。
小さな商店街の軒先に飾られていた七夕飾り、
笹の葉の先、雨に濡れ震え揺れる短冊の一つに、
柔らかな筆文字で、こう書いてあった。
「来年もお星さまにお願いが書けますように」

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第121回

数学者の片想い

Monochord

弦の本数はちょっと多いけれど…。

© 2014 by アッコルド出版