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目の前に、一冊の本がある。
―『ピエタ』(大島真寿美著 ポプラ社)
その隣にもう一冊、本がある。
―『スターバト・マーテル』(T.スカルパ著 河出書房新社)
どちらも、時は“18世紀”。
どちらも、舞台は“ヴェネツィア”。
どちらも、主人公は“孤独な少女”。そして。
どちらも、“ヴィヴァルディ”が登場する。
そう、この二冊は、
ヴィヴァルディについて勉強した時に出会った本だ。
『ピエタ』……恩師ヴィヴァルディの訃報から話が始まり、
一枚の楽譜に残された小さな謎に導かれ、物語が進んでいく。
カーニバルの喧騒、そのざわめきの中で様々な人々が現われ饒舌に語るが、
「わたし」は最後まで静かで澄んだ空気を纏ったまま、愛を問い続ける。
『スターバト・マーテル』……ヴァイオリニストのチェチリアが、
母への手紙に思いを綴る。日々の音楽との関わり、ヴィヴァルディとの出会い、
その後の心の変容を、少女らしいアイロニカルな物言いで赤裸々に独白する。
自身が生む暗い幻想、激しい情念に向き合い戦おうとする「わたし」。
読後感は随分違うが、底に流れるものはどちらも孤独。
寂しさや湧き起こる恐怖から逃れることができない「わたし」たち。
独りで生きていくことを運命付けられた二人。
考える。
ヴィヴァルディとその教え子を描いた二つの物語が、
奇しくも、似た設定で書かれたその理由を。
考える。
ヴィヴァルディについて。彼の曲について。
彼の下で演奏した女性たちについて。彼女たちの人生について。
それを聴いた人々について。彼らが生きたヴェネツィアについて。
☆
小さい頃からヴァイオリンは弾いていたけれど、当時は、
「クラシック音楽」には特に興味もなく、当然すべてに疎かった。
それでも、“ヴィヴァルディ”という名は知っていた。
『アー・モール』(Violin Concerto a-moll RV.356 op.3-6 )のほか、
学習過程で何曲も彼の曲に出会ったし、その曲はどれも好きだったから。
それに、“イ・ムジチの『四季』”ブームの真っ只中だった。
―イ・ムジチ合奏団 I Musici
F.アーヨを中心にローマのサンタ・チェチリア国立アカデミアの卒業生12名が集まって結成され1952年にデビュー。イタリア・バロック音楽の演奏で知られる。指揮者を置かず楽員全員の合議で音楽を作り上げる形式を採る。
彼らのおかげだろうか。(日本でもレコードがミリオンセラーを記録したとか)
今や“ヴィヴァルディの『四季』”は、誰もが知る超有名曲である。
仕事を始めれば、弾く機会も多かった。(多過ぎて嫌いになった…笑)。
だから、ヴィヴァルディが「再発見組」だと知ったとき、
ずっと世間に忘れられていたのだと知ったとき、随分と驚いたものだ。
J.S.バッハも同様であった訳だが、ヴィヴァルディよ お前もか!である。
バッハ再発見の際、その作品のうち十数曲が、
ヴィヴァルディの曲を編曲したものだと分かり、そこでようやく、
ヴィヴァルディを見直す活動が始まったのだと。(芋づる式?)
バッハは、生徒でもあったヴァイマル公子ヨハン・エルンストが、
留学先のオランダから持ち帰った楽譜を通して“イタリア”を知る。
彼の依頼でヴィヴァルディらの曲を鍵盤楽器用に編曲しているうちに、
大いにヴィヴァルディの影響を受けたということらしい。VIVA! ITALIA!
1926年トリノ大学図書館でヴィヴァルディの自筆譜が多数発見された。
膨大な数のそれらの作品を、カゼッラやマリピエロらが整理&校訂を行ない、
1939年にはイタリアのシエナでヴィヴァルディ・フェスティバルを開催。
ヴィヴァルディの楽曲が多数演奏されると、聴衆は歓喜に沸き立ったという。
1947年ミラノの大手出版社リコルディ社が器楽曲全集出版に取り掛かり、
25年後に完成。ありがとう、カゼッラ! ありがとう、リコルディ!
☆
―アントニオ・ヴィヴァルディAntonio Lucio Vivaldi 1678-1741
ヴェネツィア出身のバロック後期の作曲家、ヴァイオリニスト、司祭。
赤毛であったことから、後に「赤毛の司祭」と呼ばれるようになった。
“stretezza di petto”(おそらく喘息)に苦しむ病気がちな子供だったという。
ヴァイオリンの才があった父からヴァイオリンを学ぶが、目指すは司祭。
10歳で教会附属の学校に入り、15歳で聖職に就き、下級叙階、助祭を経て、
1703年25歳で司祭に叙階の秘跡を受ける。しかし、持病のせいで、
ミサの続行が困難となることがあり、在俗司祭となった彼は、
ピエタ慈善院付属音楽院のヴァイオリン教師という役職を得る。
このピエタとの関係は、最後まで良好というものではなかったが、
結果的には40年もの長きに渡り奉職することになる。
ヴィヴァルディをイタリアの内外に認めさせたのは《調和の霊感op.3》。
協奏曲などの器楽曲だけでなく、オペラでも彼の名は高まっていく。
1718年、諸事情でピエタ音楽院を解雇されたヴィヴァルディ、
マントヴァで歌姫アンナ・ジローと知り合う。彼女をオペラ等で重用、
姉妹を共に同行させるなどして、世間から不道徳な司祭と批判を浴びる。
1725年に『四季』を含む《和声と創意への試みop.8》出版。
1729年から1738年に掛けてはヴェネツィア外で時間を多く過ごしている。
1738年には復職していたピエタの職を辞すが、作品の供給は続ける。
この頃から巷では「ヴィヴァルディは時代遅れ」だと語られるようになり、
ヴィヴァルディの作品に対する評価に翳りが見え始める。
1740年、数多くの楽曲をピエタに売り払ったヴィヴァルディは、
イタリアを去りウィーンに向かう。が、残念なことにウィーンに着くと、
理解者だったカール6世が逝去。予定していた公演を打てずに終わる。
ヴィヴァルディは貧困生活を余儀なくされ、失意のうちに体調を崩し、
ヴェネツィアに帰国することも叶わず、63歳でウィーンにて永眠。
名声と凋落。絶頂と絶望。希望と諦念。
彼もまた孤独だったのだろうか。
ピエタの少女たちのように。
☆
―ピエタ慈善院 Ospedale della Pietà
ヴェネツィアにはピエタをはじめ、4つの救済院があった。
慈善機関として共和国の負担で孤児に教育を受けさせ、
音楽的才能のある女子は訓練し、慈善院付属音楽院の一員とした。
18世紀ヴェネツィア、かつての栄光は見る影もないものになっていたが、
結果として得た「平和と自由」が贅沢を齎し、同時に貧困を生んだ。
貴族たちの間では、家系を絶やさず貧しきに陥らずという考えから、
男子の一人が結婚し正当な相続人を作り、それ以外の男子は結婚をしない、
あるいは子供を作らないよう求められていた。また、
港町であるヴェネツィアは船乗りや商人など外国人の出入りが多く、
而して増えるのは“娼婦”である。星の数ほどの娼婦たち。
…生まれてきた赤ん坊の多くは捨てられる運命にあった。
ピエタは1346年設立され、4つの救済院の中で最も名の通った施設となる。
とはいえ、貴族や裕福な市民からの寄付や遺贈だけでは運営には足りず、
付属音楽院のコンサートによる収入が、ピエタの運営を大きく支えていた。
演奏や歌唱は、音楽院内のホールまたは教会で行なわれた。
そこはまさに、こんな様子だった。
「教会は大きな四角い広間で、立方体の音楽空間です。側面の壁には、何メートルかの高さのところに、向き合ってふたつの大きなバルコニーがあります。長さは十二メートルほどで、壁から二メートルぐらい突き出ています。そこへは、養育院の三階にある内部の扉から行くことができます」
「バルコニーを取り囲む手すりは二層になっていて、下の層は石、上の層は金塗りの金属で、レースのような透かしの装飾が施されています。それで、バルコニーの演奏者は、向かいのバルコニーで演奏する人たちを見ることができ、彼女らの動きを見、リズムを刻むジュリオ神父のしぐさに合わせることができるのです。けれども、下のベンチにすわって下からわたしたちを見上げる人には、わたしたちの顔を見わけることはできません」~『スターバト・マーテル』
娘達は赤い服に身を包み、歌い奏でる。
見えそうで見えない少女たち。まさに、ヴェネツィアの仮面の花。
そんな彼女たちの演奏、いろいろな人がその様子を記録に残している。
グランド・ツアー全盛期、アトラクションの一つでもあったのだ。
☆
その生活が、その人生が思う通りのものでなかったとしても、
自分の意を汲み、肌で理解し、真剣に演奏してくれる、
そんな演奏家の集団が共にあったことは、
ヴィヴァルディにとって幸せであったのではないかと思う。
それにしても、
作曲者が常に傍にいる、作曲者に直に指導される、
朝から晩まで「彼」の曲を練習し、
彼の目の前で「彼」を表現しなければならない。
=作曲者と共に生きる。
それって、どんな感じなのだろう?
チェチリアは、こう記す。
「男たちは、その音楽でわたしたちの中に侵入してくる。養育院の新しいヴァイオリン教師兼作曲家、アントニオ神父が書きあげて楽譜をもってくると、わたしたちはそれを読み、自分のパートを写譜する。こうして音楽は少しずつわたしたちの中に入り込んでき、わたしたちはそれを目で追う。音楽は、書いているわたしたちの手を動かし、わたしたちはそれを学んでいく。それから、楽器を手にする。アントニオ神父の音楽はわたしたちの目の中に入り、わたしたちの頭を満たし、わたしたちの腕を動かす。右腕の肘と手首は、弓を操ってくねくね柔軟に動き、左手の指は弦の上で折れ曲がる。わたしたちの中を、男たちの音楽が横切っていく」
幻想での逢瀬の果てに、彼女は悪夢に陥る。
「お母様、動転しています。月経が遅れているのです。妊娠したのではないかと心配です。
どうして起こったのかはわかっています。アントニオ神父がわたしのことを考えて書いたソナタを、わたしは演奏した。それで今、神父が音楽でもってわたしの心の中にまいた種が、わたしの中で成長しているのです」~『スターバト・マーテル』
狂おしいほどに、曲に心を奪われたことがあっただろうか。
分かつことができなくなるほどに、曲と身体が同化してしまったことがあるだろうか。
曲に入り込むのではなく、曲に囚われる(取り憑かれる?笑)、そんなことが。
こんな想像をしたからといって、それでどうなるのか、
何か分かるのか、何か変わるのか、何かできるようになるのか、
そう尋ねられれば、残念ながらとても首は縦に振れない。
ただ、小説という虚構の力を借りるというこうした手段もまた、
非力で浅薄なヴァイオリン弾きには、ありかなとも思う。
それに、
小さいときに出会ったヴィヴァルディは、バッハやベートーヴェンより、
ずっと親しみやすかった、弾いていて楽しかったし、面白かった、
この印象が、あながち的外れなものではなかったことが、
少しだけ、嬉しかったのだ。
☆
神に仕える者が書き、神に救われた者が奏でる。
そうして生まれた音楽は、人々を天へと導いたのだろうか。
「でもわたしは、ほんとうに音楽が上へと高まり、上がっていくものなのか、少しも確信がありません。わたしは音楽は下へ落ちるのだと思います。わたしたちは高いところから、地上何メートルかの、教会の両側面の壁にあるバルコニーの高みから、演奏します。音楽は重たくて、下へと落ちるからです。わたしたちは演奏を聞きにくる人たちの頭の上に、音楽を注いでやります。彼らをわたしたちの音楽の中に沈め、音楽でその息を詰まらせるのです」~『スターバト・マーテル』
降り注ぐ彼女たちの音楽に、息を詰まらせてみたい。
できることなら、自身の奏でる音楽で聴く人を沈めてみたい。
ヴィヴァルディが、生涯に作曲した作品は、
協奏曲だけで500を超え、総作品数800曲を下らないと言われる。
ピエタとの契約で定期的に「新鮮な」音楽を提供することを課せられていた。
本人が語る。―「私は写譜屋が追いつかないほどの速さで協奏曲のすべてのパートの作曲をします」
作曲の筆が速いのはヴェネツィアの伝統だったともある。
悪筆を言われるがそれも仕方がない。引用が多かったのも事実である。
ストラヴィンスキーが、「ヴィヴァルディは大変に買い被られている。彼は退屈だ。同じ協奏曲を600回も続けて作曲することが出来たのだから」
と言ったという話があるが、真偽やその意がどうあれ、
ヴィヴァルディの作品が粗製濫造だという意見があるなら、
それに対しては反対の声をあげたい。
「ほんとうに、ほんとうに、わたしたちは、幸せな捨て子だった。わたしたちが、どんなに幸せな捨て子だったのか、ヴィヴァルディ先生が、あの頃作ってくださった、わたしたちのための協奏曲を聴けば、きっと何百年先の人たちにだってわかってもらえることだろう」~『ピエタ』
今夜もヴィヴァルディを聞きながら、本を読むとしよう。
幸せな捨て子の優しい涙に浸りながら。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第120回
ヴェネツィアの涙が降る夜
Vivaldi - Violin Concerto in A Minor RV356
Vivaldi L'Estro Armonico 12 Concertos, Op.3 / Fabio Biondi Europa Galante
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