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早くも、三月が終わろうとしている。
長い冬の後、春の明るい日差しを浴びると、
『印象派』という言葉が頭に浮かぶ。
この言葉がいろいろな意味で、
勝手に独り歩きしているらしいと知ってからも、
言葉自体は、変わらず好きだ。
口の端に乗せると、眼の奥にキラキラと光が舞う。
『印象派』と言えば、まずはフランスだが、
そのフランスの研究者も注目するのが、印象派に先駆けて
“光”を描いたと言われる伊藤若冲Itō Jakuchū(1716-1800)。
「奇想の画家」「奇才絵師」とも呼ばれる江戸時代中期の京絵師。
音楽界でいえばハイドン、モーツァルトの時代に生きた人物である。
「徹底した写実描写と古典の融合」「精密で高度な技法」
「観る者を惹きつける鮮烈な色彩」「奇抜で作為的な対象表現」
彼の画風の独自性を語る言葉は尽きない。テレビや雑誌などで、
特集を組まれることも多い絵師だが、その中で特に興味深かったのが、
若冲の“光”の表現、その技法についての解説だった。
一つは『裏彩色』=「中国・日本画で、絵絹の裏側からも彩色すること」
拡大された映像を見ると、表から乗せられた絵の具、裏から塗られた絵の具、
絹地の白と三層を成す三色が、表から見るとまさに点描の様になっている。
縦横に織られ凸凹を持つ半透明の絹地の特性が、最大限に活かされているのだ。
ときにそれはぼかし効果を出し、ときにそれは陰影を生み、
ときにそれは特殊な色彩効果をもたらす。
重ねて塗れば、絵具は厚くなり、地は埋もれる。
=「地を活かす」という発想。
絵具は混ぜると、明るさが減る、だから、
=「絵具を混ぜない」という発想。
発想をカタチにする技法。
若冲の生み出す“光のマジック”。凄い。
☆
“音色”について、考える。
今更ながらに、反省する。
そこにあるものを、ただ塗り重ねてばかりいなかったか?と。
美しい地を活かしていたか?と。
それでなくても、ヴァイオリンは、
音色に関するファクターが多い。
しっかり立ち戻って、設定の段階から考えれば、
(ヴァイオリンや弓の買い替えまでは考えないまでも)、
魂柱や駒という心臓部、ペグやテールピース、顎当てといった付属品、
消耗品ながら音色を大きく決定付ける弦や弓の毛、そして松脂、
これらを替えるだけでも、音色は大きく変わる。
技法的にも、左手にも右手にも多くの手段がある。
左手指の押さえる場所(腹とか指先とか)、押さえ方(スピードや圧力)、
深みや多種多様な色合いを出すための最大の武器、ヴィブラート。
右手に至っては、弓の圧力、スピード、使う場所、使う量、
サウンディング・ポイント、弓の毛の傾き、使う毛の量…。贅沢だ。
両手に余る手持ちの札、それを自分はどうしているだろう?
きっちり理解し、正しく使えているだろうか?
「こんな感じ」とか、「そんな感じ」とか、「あんな感じ」とか、
“技法”とも呼べないもので、弾き散らしていないか?
あれもこれもと、厚塗りのお化けのような演奏をしていないか?
若冲の《老松白鳳図》に描かれた鳳凰の白い羽は、金色に輝いている。
表に白、裏に黄土色、それで重なった2色が黄金色に変化するのだ。
金泥を塗ってしまうより、黄土色を使った方がより“金”に見える不思議。
さらにそこに黒を加えると輝度が高くなり、金色の輝きが増すのだが、
若冲は直接黒を塗るのではなく、黒色の肌裏を使用することで効果を出した。
(肌裏:絹地などを補強するための裏打紙で通常は白を用いる)
緻密に計算し、確かな技法で、
必要最小限のものを使い、豊かに表現する。
☆
絵の具を重ねるとき、その順で濃淡が変わるという。
例えば、赤に白を乗せるのと、白に赤を乗せるのとでは、
色合いはもちろん、その輝度が違うのだと。
《梅花皓月図》(『動植綵絵』1760年頃)に描かれた、
画面一杯溢れんばかりの花を付ける白梅と、煌めく満月。
一つ一つの小さな梅の花と月の後ろは、薄く黒く塗られている。
それは影でも闇でもない。
花の明るさを際立たせ、光を感じさせるためだけに塗られた色。
明暗。陰影。コントラスト。
“デュナーミク”について、考える。
再び、反省する。何を? それは言わずもがな。
コントラスト(contrast=輝度の差)が高くなれば、
明暗の差が大きくなり、明るい部分や暗い部分がはっきりする。
コントラストが低くなれば、明暗ははっきりしなくなる。
よくデュナーミクの幅が狭いと注意された。
「もっと大きい音が出せるようになりなさい」
「もっと小さい音が出せるようになりなさい」
そうなればいいんだと、どこかで思っていた。
フォルテと書いてあれば、弓を圧し付け、
駒に寄せてブイブイ弾き、ヴィブラートを掛けまくる。
ここでもまた、厚塗り奏法で満足していた自分。
“デュナーミク”だけでどれだけのことができるのだろう?
大小だけでもない強弱だけではない、フォルテとピアノの本当の意味。
デュナーミクを突き詰めた結果として出てくる色合い、
それに気付いていたか? それを大切にしていたか?
厚みを持たせることができていただろうか?
微妙なニュアンスを付けられていただろうか?
☆
若い頃に聴きに行った、あるコンサートのことを思い出した。
当時はあまり聞くことのなかった北欧のオーケストラの演奏会、
友人からチケットを貰い、何の気なく出掛けて行ったのだが、
いやいや、未だに残る鮮烈な記憶。なぜだろう?
それまで聴いたことのないタイプの演奏、弾き方、
北欧独特のほの暗く澄んだ音色があったことも確かだが、
それとは違う「何か」が、脳細胞をチカチカさせて…。
輪郭線がないのに輪郭線があるように見える、
そんな錯視画を見たときのような感覚に襲われたのだ。
さて。「フランスもの、フランスもの」と騒いでいる割に、
一番好きなヴァイオリン協奏曲は、実は“シベリウス”である。
そう、2015年はシベリウス生誕150年。パチ☆(´pq`)☆パチ♪
シベリウスがヴァイオリン弾きだったと初めて知ったときは、
「へぇっ」と思い、同時に「なるほどっ」とも思った。
フィンランドに留学した友人から、当時は手に入れることが難しかった
シベリウスの小品の楽譜と音源を貰って、それを弾いたときには、
その「へぇ」と「なるほど」が、強い語気で頭に浮かんだ。
協奏曲以外のヴァイオリン作品は、習作期、五十歳頃の第二期、
最後の創作期、三期に渡って書かれていて、数もかなりある。
ヴィルトゥオーゾを目指していただけあって(あがり症で断念)、
高度な技巧を盛り込んだ作品もなくはないが、どちらかというと、
技巧的には控えめな、小規模のシンプルで詩情豊かな作品が多い。
それにしても、北欧の作曲家にはヴァイオリン弾きが多い。
スウェーデンのアウリン、アルヴェーン、
ノルウェーのハルヴォルセン、オーレ・ブル、スヴェンセン、
デンマークのゲーゼ、ニールセン、
指揮者のオッコ・カム(フィンランド)もヴァイオリンを弾く。
ノルウェーにはハルダンゲル・ヴァイオリンもある。
北欧とヴァイオリンの関係は深そうだ。
☆
フィンランドとくれば、やはりムーミン!
2014年はムーミン生誕100周年、今年はムーミン童話誕生から70年、
近所の本屋さんの一角もムーミン・グッズで埋まっている。
1969年に放送されたアニメ『ムーミン』を見て育ったから、
ぽってりムーミンでインプットされている。この‘大塚ムーミン’、
原作者トーベ・ヤンソンには、非常に不評だったとか。曰く、
「これは私のムーミンではない」 でも、初めて原画を見たときに、
私もこう思った。「これは私のムーミンじゃない」(笑)、
今はどちらも可愛いと思う。大人になった。
それにしても、あのウーパールーパーが直立したような、
「長い白靴下を逆さにしたような形」のニョロニョロなるものは、
一体、何だったんだろう? 小さいのかと思っていたら結構な背丈。
「手は腕に相当するものはなく、掌が体の横に直接付いていて、物をつかんだり投げたりすることができる」
ううむ。あれは、手だったのか…。
「ニョロニョロの種から生えてくる」
「電気がエネルギー源で、充電したてで光っているときに触ると感電する」
「ほとんど目が見えず、耳も聞こえず、口もきかず、感情がなく、愛することも愛されることもない」
いろいろ怖い。
ムーミンの主題歌は可愛らしくて好きだった。
「ねえ、ムーミン♪」で始まる 《ムーミンのテーマ》の方が、
メロディ的には気に入っているが、(作詞:井上ひさし)
原作者が気に入ったという新シリーズの主題歌、
《夢の世界へ》の歌詞は、確かにそれっぽくていい感じだ。
いつも強がりばかり言っている君でも
たまには涙を零すこともあるはず
そんなときには思い切り泣くのもいい
悲しいことなど ほらすぐに消えるから
お気に入りのスナフキンは言う。
「大切なのは、自分のしたいことを、自分で知ってるってことだよ」
「『そのうち』なんて当てにならないな。今がそのときさ!」
これもいい。
「長い旅に必要なのは大きなカバンじゃなく、口ずさめる一つの歌さ」
☆
庭のトキワイカリソウが花を付けた。
華奢で可憐な白い花が、冬越しした硬質な紅い葉に隠れるように、
ひっそりと静かに咲いている。
せっかくだから、よく見えるようにしようと、
我が物顔の葉っぱを刈り込んだら、悲しいかな、
花が地面の色に同化してしまって、
かえって見えにくくなってしまった。
紅い葉に、白い花。
硬質な葉に、儚げな花。
地面を覆う葉に、伸び上るようにすっと立ち上がる花。
自然が作り上げた、
見事なコントラストをぶち壊しにしたのは、
…私だ(泣)。
勉強、全然役に立ってない。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第106回 顧みれば、春。
Sibelius - Mazurka, Op.81 No.1 James Ehnes(Vn)
〈エーレンシュタイン錯視〉
輪郭線がなくても主観的な円が見える(左)
円を足すと中心の明度が下がる(右)
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