top of page

マレック・シュパキエヴィッチ

チェロ・リサイタル を前に・その2

Marek Szpakiewicz Cello Recital

東欧の哀愁と熱情―ヨーヨー・マから賞賛される稀代のソリスト、マレック・シュパキエヴィッチさんが初来日し、コンサートが行なわれる。直前インタヴューのその2
 
何故、祖国ポーランドからアメリカへ行ったのか。その歴史的政治的背景とは。
 

ピアティゴルスキーの奨学金でアメリカへ

 
──ポーランドからアメリカへ行かれた経緯というのは?
 
「私は渡米して最初、ジョンズ・ホプキンズ大学のピーポディー音楽院で奨学金を受けて学んだのですが、その奨学金はあのピアティゴルスキーの奨学金で、とても大きな額のものでした。」
 
──ピアティゴルスキーの奨学金の制度というものがあったのですね。
 
「ええ。ピーポディー音楽院で教えていたスティーヴン・ケイツ先生は、ピアティゴルスキーの弟子だったんです。一人の生徒の為の特別な奨学金制度にピアティゴルスキーの名が付いたのです。私はその奨学金に応募しました。私の演奏の録音を提出しました。たぶん他にもたくさんの応募者がいたと思います。幸運にも私がその奨学金を戴くことになりました。」
 

音楽家とアスリートだけに希望が

 
──ポーランドからアメリカに行くことに躊躇はなかったのですか?
 
「私は灰色の時代、暗黒の時代に生まれ育ちました。夜に外に出てはいけない、という戒厳令の時のこともよく覚えています。そこの社会において、誰もが幸せになれないような雰囲気が立ち籠めていた時代でした。不安と恐怖が植え付けられた時代でもありました。当時は共産主義の時代でした。
 
私が子供の頃は、いつソ連軍が来てポーランドが支配されるか分からないような緊張感に満ちていました。1980年、本当にソ連軍が侵入してきたことがありました。戦車が来て、武器を持っているたくさんの兵士が道を歩いていたことを覚えています。いろいろな映画で、そのシーンは再現されていると思います。人がさらわれたり、拘束されたりという話も聞きました。例えば誰かが、あの人は資本主義と関係がある、という密告をすると、その人は消え去って、その後いなくなってしまう、ということもありました。」
 
――言ってみれば、つい最近のことですよね。
 
「東欧の国々の中でも、ポーランドはかなり迫害を受けた国だと思います。何故かというと、地理的に他の国々よりもソ連に近かったので緊張感はありました。1980年代は、誰も国から出てはいけない、という感覚でした。共産党員は出ることができたでしょう。
 
現在は、ポーランドは全然違う国になりました。奇跡のような感じで国が一変ししました。このくらい大きな規模で、しかも血を流さずに国の体制が変わったのはポーランドくらいじゃないか、と思うくらいです。例えばルーマニアのでは多くの血を流して共産主義から資本主義に変化しました。ポーランドでは、交渉が行なわれました。ポーランドの中に在る独立運動のグループとポーランドの共産党とで交渉が行なわれました。
 
そして1990年代、ポーランドは急激な変化がありました。その時代に生まれた十代の子供達というのは、その体制の変化というものを何も体験していませんので知らない世代です。私は1991年、その大きな変化が始まった頃にアメリカに渡りました。私が育った頃、二種類の人々に希望がありました。音楽家とアスリートです。」
 
――日本は敗戦国で第二次世界大戦後、大変な時代でしたが、そのようなお話を聞くと、自由という点では、ポーランドより恵まれていたように思います。もちろんいろいろ問題はありますが、少なくとも批判する自由さはありました。ポーランドはかつてドイツとソ連に挟まれて大変な時代を過ごしましね。
 
「私の母のパスポートを見ると、興味深いことがあります。母は1943年に生まれました。パスポートに記載されている出生地はドイツの国籍担っているんです。戦時中は、ポーランド全土の住所がドイツ名に変えられていたのです。しかも母の生まれたところは、元々ポーランドの領土でしたが、ドイツの領土になってその後、ソ連の領土になったんです。そういうことが短い時間の中で起こったのです。そして現在は、ウクライナの領土になっています。」
 

演奏家の使命とは

 
――音楽家、演奏家には、政治の世界、世事から超越した世界で音楽を生み出してほしいと、いつも思うのですが、振り返れば、いつの世も音楽家や演奏家は、政治や世事と無関係に過ごす事は全くなかったですね。
 
「アーティストには使命というものがあると思っています。アーティストは何かの運動であったりムーヴメントというものを先導することが多いと思います。あとは、何かのメッセンジャーの役割もあると思います。例えばアメリカと中国とで緊張感があったりしたときに、アイザック・スターンは中国へ行きました。それに関する大きなドキュメンタリーができたと思います。もっと最近では、北朝鮮との緊張感があったときに、ニューヨーク・フィルハーモニーが北朝鮮へ行きました。アーティストには緊張を和らげる責任というものもあると思います。
 
私にとっての今回のコンサートの使命は、東日本大震災に関することです。この災害が起こったとき、本当に心が打ち拉がれました。あの悲劇が起こった数ヶ月後に私はロサンゼルスでチャリティ・コンサートを行ないました。先日、私は福島に行きました。実際に悲劇が起こった現場を目の当たりにしました。そして、そこで復興活動をしている人達や子供達に会ってきました。実は
私がポーランドで育った時代に、チェルノブイリ原発事故が起きたのです。その時の影響は心に深く受けています。ですからいつも私は、悲劇を風化させないように、皆に覚えていて欲しいということを少しでも伝えることができれば、と思っています。」
 
――東日本大震災の被害の状況、津波を映像でご覧になりましたか?
 
「ええ、見ました。アメリカのテレビでもかなりの映像が流れました。でも、映像だけでは伝えきれなかったことが有ると思います。というのはあの悲劇はまったく想像外の大きな事件でしたから。これからやっていかなければいけない復興というものをどのように皆さんが話してよいのか分からないくらい大変なことだったと思います。」
 
――震災直後から多くの日本の演奏家が慰問に行きました。マレクさんのように海外からも来て下さることは、我々にとって本当に嬉しいことだと思います。
 
津波チェロ
 
「実際に津波チェロを触ってみて、素晴らしい楽器だと思いました。弾かせてもらったとき、芸術としての一つの作品だと思いました。どのようにして作られたものか、ということを知ったときに、何か特別な感じがしました。特に音色に特別な感じがしました。普通の材料で作られたものではなく、悲劇の瓦礫によって作られたものであり、魂柱が奇跡の一本松から作られたということも知りました。」
 
――非科学的ですが、楽器に魂が籠もっている、というふうに思いたいです。
 
「私もそう思います。とにかく素晴らしい音色がしました。裏板に描かれている一本松も美しいです。コンサートでは、私の楽器と津波チェロの両方を弾きます。津波チェロでは特別なものを弾く予定です。」
 
次回は、ショスタコーヴィチのお話から。
マレック・シュパキエヴィッチ チェロ・リサイタルMarek Szpakiewicz Cello Recital
Pf.ジアイ・シー
 
2015年3月27日(金)19:00開演[18:30開場]
王子ホール
曲目
ドヴォルザーク(シュパキエヴィッチ編):スラヴ舞曲 ホ短調 Op.72-2ショパン:チェロ・ソナタ ト短調 Op.65ショスタコーヴィチ:チェロ・ソナタ ニ短調 Op.40ピアソラ:ル・グラン・タンゴ
 
全席指定:¥4,500(消費税込)
◎王子ホールチケットセンター 03-3567-9990
◎チケットぴあ[Pコード:247-125] 0570-02-9999 http://pia.jp/t/
 
後援:駐日ポーランド共和国大使館、ポーランド広報文化センター、エル・システマジャパン、Classic for Japan
 
制作・お問合せ:株式会社1002[イチマルマルニ] 03-3264-0244 http://www.1002.co.jp/

 

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page