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南米の小国ウルグアイ大統領のスピーチが話題になっている。
エル・ペペという愛称で慕われるホセ・ムヒカ大統領。
『世界で最も貧しい大統領』『世界で最も清貧なリーダー』
「貧乏な人とは、少ししかものを持っていない人ではなく、
無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ」
大統領公邸には住まず、郊外の静かな農場で質素に暮らし、
収入のほとんどを社会福祉基金に寄付、月9万円程で生活をする。
大統領専用機も持たず、国際会議にはエコノミークラスで行くか、
他国の大統領専用機に便乗、自国まで送ってもらうのだとか。
個人資産は友人から贈られた愛車1987年製フォルクスワーゲン・ビートルのみ。
この車を売ってほしいと、アラブの富豪から高額での買取りを打診されたときには、
「売れば友人の気持ちを傷付けることになるから」と断ったそうだ。
その映像を見ればいかにも好々爺という感じ、とても大統領には見えない。
我々の業界で、「人々から“慕われる”」イメージがあるのは、
ヴァイオリニストならクライスラー? 作曲家だとハイドンやフランク?
『交響曲の父ハイドン』、『近代フランス音楽の父フランク』、
彼らはそれぞれ身近な人たちから、こういう愛称で呼ばれていた。
「パパ・ハイドン」「ペール・フランク(父フランク)」
ハイドンの死にあたり、ハイドンの写譜師エルスラーからハイドンの伝記を書いた友人グリージンガー宛に送られた手紙
「私たちのパパの死をお知らせします。もう涙が溢れるばかりです。5月26日昼の12時半、彼は最後に三度繰り返して《皇帝讃歌》を弾きました。27日土曜日7時半、私達のパパはいつものように起きようとしましたが、もうその力はなく、それっきりベッドを離れませんでした。何らの苦しみも洩らしませんでした。具合はどうかと聞かれるといつもこう答えるのでした―『大丈夫だよ、子供たち。具合はいい』。そして1809年5月31日が我々すべてにとっての悲しみの日となったのでした」
フランクの弟子シャブリエの弔辞
「先生のすばらしい教えのおかげで、行動力と信念を持ち、長期に渡る戦闘に勝ち抜くために武装した一世代の音楽家が生まれました。最後にこう申し上げます。先生は、高潔な、まことに人間的で公平無私な方で、その忠告はいつも正しく、その言葉はいつも親切でありました。先生、さようなら」
☆
“父”と慕われたフランクの父は、どの資料を読んでも、
あの『教育パパ』『ステージ・パパ』で有名な、
モーツァルトの父よりも凄まじい、鬼パパだったと書いてある。
早期教育を徹底、リエージュ音楽院に入学させ、彼が才能を開花させると、
有無を言わさずリサイタルを企画し、演奏旅行に連れ出す。当時は、
若きモーツァルトがその才を披露し、各地で賞賛を得た頃とは違い、
絶対王者リストはもちろん、タールベルク、モシェレス、マルモンテル…、
素晴らしいピアニスト達が目白押し、フランクの入る余地などなかった。
批評家たちの態度は厳しく、リサイタルや演奏旅行は惨敗に次ぐ惨敗。
傷付き、打ちひしがれるフランク。
それでも父は諦めず、自身の国籍を変えてまで、彼をパリ音楽院へ送る。
「パリ音楽院に入学することになったとき、苦手な演奏会から解放され、フランクはホッとしたに違いない」
学内で着実に研鑽を積んだフランクに、またも父の魔の手は伸びる。
演奏家としての生活を再開する時期が来た、そう判断した父は、
ローマ大賞への出品準備をしていたフランクを、無理矢理退学させる。
フランク、イヤだって言えなかったのかなぁ。とにもかくにも、
「ピアニスト・フランク」は結局、成功を手にすることはなかった。
ピアノ教師として倹しい生活を送ることになったフランク。
そんな生活の一部始終をも、父は厳しく管理したという。やがて、
彼はピアノの教え子であったフェリシテと知り合い、結婚を決意。
当然、父は反対する。24歳にしてフランク、家を出る。早い?遅い?
まだ、終わらない。彼の結婚は両親と和解の上、行われたらしいが、
父は祝福の言葉代わりに、1万フランもの負債を彼に「プレゼント」したという。
はあぁ。どこまでが本当なのだろう? なにしろフランクの父の厳しさは、
L.モーツァルトのそれとは、少々意味が違ったようだ。
独り立ちしたフランクは、『César(C.) Franck』と署名するようになった。
「これは彼が父と決別し、その事を周囲に知らせようとする意志の現れであった」
「彼は元の自分とは違った、新しい人間になろうと決意したのである」
がんばれ!フランク!
☆
弟子ダンディは、師フランクの音楽を3期に分けている。
後世の研究者たちも、ほぼそれに倣って考察しているようだ。
1期(1841-1857)は、パリ音楽院卒業頃から「不遇の」ピアノ教師時代、
2期(1858-1872)は、30代後半からの教会オルガニスト時代、
3期(1873-1890)は、50歳を迎え、存在が認められ始めたパリ音楽院教授時代。
ご存じの通り、一定の評価を得た彼の作品は晩年に集中している。
ピアノ曲やオルガン曲…他にも秀作はあるが、人々のよく知る
《ピアノ五重奏》《ヴァイオリン・ソナタ》《交響曲》《弦楽四重奏》
これらはみな、なんと57歳以降の作品である。
「人並み外れて不成功の連続だった一生にもかかわらず、
彼が19世紀末にフランス音楽に与えた影響は大きかった。
フランクの重要性は、彼が近代フランス室内楽の道を準備したこと、
器楽音楽を再建し、そこに明らかにフランス的特色を与えたこと、
彼がロマン主義的語法と思想を、古典主義的な枠の中に入れることができることを示したことにある」
と、ここまで調べてきて、少し引っ掛かるものがある。
それは、彼についての記述の多くが、
『作曲家フランク』という視点でのみ書かれていて、
それと気付かずに読むと、フランクの生涯は、
ひどく辛いものだったように感じることである。
果たして、本当にそうだったのか?
内気で物静か―確かにソリストとしての活動は辛かったかもしれない。
でも、父の敷いたレールそのものが、フランクにとって、
まったく意に染まぬものであったかというと、そうではない気もする。
でなければ続かない。続けられない。だから、こう思いたい。
それに耐えられるほど、彼は音楽が好きだったのだ、と。
失敗したジャンルの曲でも、チャンスがあれば何度でも挑戦した。
世間に批評家にどんなに酷評されても、曲を書き続けた。
「彼は自分の音楽の中に生きていた」
彼は弱かったのではない。途轍もなく強い人だったのだ、と。
出来の悪い生徒の作品を前に、「私は…ここは好きだよ」
なんて言ってくれる、そんな一所懸命な先生と、
大切にされている実感がある生徒とのレッスンが不幸せなはずはない。
きっと、たくさんの小さな幸せが彼を支えていたのだ、と。
☆
二人は、その肩書をこう書かれることがある。
ハイドン―『イギリスで活躍したオーストリアの作曲家』
フランク―『フランスで活躍したベルギーの作曲家』
ちなみに、ハイドンの祖父はハンガリー王国領の出身。
フランクの父はドイツ系で、母は純粋ドイツ人、彼が生まれたのは
オランダ領ベルギー、後年フランスに帰化した。って、
愛国者フランク、君は一体、何人なんだ…。
彼の曲に流れているのは、間違いなくドイツの血だし、
彼の曲が纏っているものは、間違いなくフランスの衣装である。
ハイドンの名はモーツァルトやベートーヴェンの陰に、
フランクの名はドビュッシーやラヴェルの陰に隠れることがある。
成功とは何か? 幸せとは何か? なんて考えてみる。
二人は教えてくれる。不遇=不幸ではない。
凡人としては、生きているうちが幸せな方がいい。できることなら、
彼らのように、愛してくれる人たちに囲まれて生きていきたいし、
グチャグチャしていてもいいから、総じて右肩上がりの人生を送りたい。
そのためには、頑張らなくてはいけないのだろう。
フランクの円熟期は57歳からである。
まだまだ可能性はある、今からでも積み重ねる時間はある、
そう信じて、もう一足掻きしてみるか。
ハイドンは晩年の手紙の中で書いている。
「さまざまな困難や障害に出会って挫けそうになった時、私の中の何かが、しばしば囁いたものです。《この世に幸福で満足している人はごく僅かしかいない。おそらく何時の日にか、お前の仕事は、心配事に悩む人、生活の苦労に押しつぶされそうな人、そんな人たちにとって、憩いと慰めの源泉になるだろう》と。この考えがいつも私を力づけ、前進させてくれたのです」
☆
フランクといえば、やはり《ヴァイオリン・ソナタ》だ。
不思議なことに、この曲だけは誰のどの演奏を聴いても拒否感を感じることがない。
バッハやイザイの無伴奏や、ベートーヴェンやドビュッシーのソナタなどは、
思い描くものと違う演奏だと、耳に強い違和感を覚えたり、ときには、
不快にも感じ、聴くのを止めてしまったりすることもある。なのに。
フランス系ヴァイオリン・ソナタの最高傑作のひとつ、
そう称される、このフランク唯一の《ヴァイオリン・ソナタ》は、
同郷の後輩であるウジェーヌ・イザイに結婚祝いとして献呈された。
1886年冬、イザイのヴァイオリン、夫人のピアノにより初演された、
その様子は、今もドラマティックに語られる。
―その演奏会は、ブリュッセルの近代美術館の一室で行われた。
午後3時から始まった演奏会、この曲が演奏される頃には、
辺りはすっかり暗くなってしまっていた。電灯のない時代。
美術品保護のために、ローソクどころかマッチ一本を灯すこと許されない。
夜の帳が下りる。楽譜はもう見えない。
しかし、一楽章に感動した観客はその場を動かない。
イザイは弓先で楽譜を軽く叩いて言った。「先に進みましょう」。
闇に閉ざされた部屋に再び、美しくも力強い旋律が響き始める。
曲に酔いしれる人々を前に、二人は残りの楽章を暗譜で弾き切ったのだった。
その主要作品ですら、ほとんど聴衆から支持されなかったフランク。
死後の評価も定まらず、流行り廃りを繰り返してきた彼の作品の中で、
ずっと演奏家から愛されてきた《ヴァイオリン・ソナタ イ長調》。
ヴィルトゥオーソのイザイにとって
テクニック的には物足りなかったであろうこの曲を、
彼は行く先々で演奏し、披露し続けた。それは、単に、
フランクへの感謝の気持ちからだけだったのだろうか?
その答えは、曲の中にある。
彼を慕う若き作曲家たちは集い、『フランキスト』を名乗った。
彼の周囲には、いつも誰かがいた。
彼は弟子たちに教える。
「少しのものでよいから、十分に考えて書きなさい」、と。
そうして、我々ヴァイオリン弾きの手の中には、
彼の《ヴァイオリン・ソナタ》がある。
これがあればいい。これだけで十分だ。
ありがとう。ペール・フランク。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第100回ぱぱ だぁいすき♡
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