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ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第146回

ヴァイオリンを弾く画家

はじめて、デュフィの《赤いヴァイオリン》を見たとき、

そのヴァイオリンの、あまりにラフな描かれ方に、心の底で、

「これって、どうなのっ!」と突っ込みを入れたのを覚えている。

でも、なぜかしばらく、その絵から目を離すことができなかった。

特に好きなタイプの絵でもなかったのに。そして、

すぐ、画集を探した。で、知ったのだ。

 

彼の作品に、ヴァイオリンが多く登場することを。

ヴァイオリンだけでなく、音楽に関する作品がたくさんあることを。

彼が音楽を愛していたことを。彼がヴァイオリンを弾いたことを。

 

《赤いヴァイオリン》と《オーケストラ》は何点かずつあって、

他にも、《ヴァイオリンのある静物:バッハへのオマージュ1952》、

《モーツァルトに捧ぐ1915》、《クロード・ドビュッシー頌1952》、

《音楽会1948》、《五重奏1948》、《黄色いコンソール1949》…。

 

—ラウル・デュフィ Raoul Dufy 仏 1877-1953

 

1877年、北フランスのル・アーヴルという港町で、

貧しいけれど音楽好きという一家に生まれる。会計係だった父親は、

才能ある音楽愛好家で、教会の指揮者兼オルガン奏者を務めていた。

母はヴァイオリン奏者で、弟の一人はフルート奏者だった。

 

マティスやドランと共に、野獣派(フォーヴィスム)に分類されるが、

それに括り切れない独自の世界があり、多くの人を魅了してきた。

明るく透明感のある色彩、軽快な筆致で描かれた線。

『色彩の魔術師』とも呼ばれているが、見ていて刺激されるのは、

不思議なことに、〈視覚〉ではなく〈聴覚〉である。

「音楽が聞こえてくる」といった感想も少なくない。

魔術師デュフィは、実は音のイリュージョニストなのか?

 

彼は、指揮者シャルル・ミュンシュとも親交があった。

ミュンシュの振るオーケストラ(パリ管)のリハーサルに熱心に通い、

舞台の上にそっと身を置き、デッサンをしていたという。

 

彼の楽器や楽譜のある画を見続けていると、気付く。

そこには、ただ“音楽”が描かれているのではない。

奏者の気持ちが入っているのだ。彼の画は伝えている—

演奏の楽しさや、弾き手にしか分からない楽器の素晴らしさを。

「奏者目線」=きっと、だから、惹かれたのだ。そう思う。

 

76歳で亡くなるまで、ほぼ自国フランスで活動を続けた彼は、

本の挿絵(アポリネールの『動物詩集』、ドーデの『タルタラン・ド・タラスコンの大冒険』など)、舞台美術(ジャン・コクトー『屋根の上の牡牛』の舞台装置など)、ポスター、タペストリー、陶器や家具の装飾、そして、パリ万国博覧会電気館のための大装飾《電気の精》なども製作した。

 

忘れてはならないのは、テキスタイルデザイナーとしての活躍。

20世紀初頭にファッション界に大変革を起こしたポール・ポワレは、

デュフィの斬新なデザインの生地を使って、華麗なドレスを仕立てた。

1930年代には永遠のモダン「デュフィ柄」という花柄モチーフが大流行。

『VOGUE』の表紙も手掛けたという。デュフィ、すごいぞ!

 

時代に認められた天才芸術家デュフィだが、生涯を追うと、

ときには困窮に喘ぎ、戦争に翻弄され、病気に苦しみ、

どうにも完璧な幸せを得ていたとは思えない。それでも、

絵だけ見ていると、輝かしい履歴のまま、彼の生活は幸せで、

明るく楽しく、喜びと優しさに満ちたものだったように思える。

 

デュフィは言う—「私の眼は醜いものを消し去るようにできている」

消し去る? その意味するところは多分、捨てたり、それに蓋をしたり、

なかったことにしたりするという、短絡的なものではないはずだ。

=「どんなものでも美しく見せられる術を知っている」

そのことを、彼の作品は見事に証明している。

 

そうして、資料を読み進めていると、こんなことも書いてあった。

「もともとデュフィは右利きで、少年時代すらすらと事の運ぶ右手を嫌い、

 技巧に走り過ぎぬよう、左手の不器用さを利用することを思いついた。 

 以来、左手で画を描いた」

 

え? そうなの? う~ん。人間の大きさが違い過ぎるぞ。

下手くそな絵だなぁなんて、一瞬でも思った自分が恥ずかしい。

へぇ、そんな風に思ったんだ? はい、少しだけ…ごめんなさい。

 

 

ここに、パガニーニの肖像画がある。

描いたのは、ドミニク・アングルだ。

以前から、この画を見る度に、世のパガニーニ評に対し、

どうも端正に過ぎるのではないかと思っていた。

 

—ドミニク・アングル Jean-Auguste-Dominique Ingres 仏 1780-1867 

 

あの《グランド・オダリスク》を描いた画家。

「19世紀前半、当時台頭してきたドラクロワらのロマン主義絵画に対抗し、新古典主義を継承。古典と個性を融合させた美の革命者」

難しいことは分からないが、彼の肖像画には、人の気配=

魂の一部を切り取って、キャンバスに塗り込んだかのような、

吸い込まれるような妖しさのようなものがあって、囚われる。

 

アングルは1801年、若手画家の登竜門であったローマ賞を受賞、

政府給費生として国費でのイタリア留学が許可されるが、当時の

フランスの政治的・経済的事情などから、1806年にようやくイタリアへ。

その後、1820年まではローマ、1824年まではフィレンツェで活動。

パガニーニとは、ローマで出会ったのだ。

 

肖像画は1819年に描かれている。パガニーニ37歳、アングル39歳。

どのタイミングで二人が知り合ったのか、手元に資料がなくて分からない。

「1819年、ローマを訪れたオーストリア宰相メッテルニヒがパガニーニを大使公邸に招いた」という記述もあったから、もしそれが正しいのであれば、メッテルニヒと知己を得ていたアングルが、そのチャンスにデッサンしたものかもしれない。

 

歳も近かった。どちらも才に恵まれていた。共に曲者だった。

そして、アングルはヴァイオリンを弾いた。だから、意気投合した?

 

装飾画家の息子としてフランス南西部モントーパンに生まれたアングルは、

父親に絵とヴァイオリンを教わり、どちらも器用にこなしたという。

双方に才能を示した彼だが、ヴァイオリンに関しては、

「13歳から16歳までトゥールーズ管弦楽団で第2ヴァイオリン奏者だった」

こんな逸話もある。

「イタリア留学中はパガニーニやリストらと親交を持ち、一緒に演奏もしていた」

「パガニーニとは、弦楽四重奏曲を一緒に弾いた」

 

さて。あのパガニーニが一緒に演奏したのならば、

かなりの腕前だったのかもしれない。いや、単に、

仲良しだっただけかもしれない。いやいや、もしかすると…。

 

「なあ、パガニーニ君。肖像が描いてあげるから、ぜひ一緒に演奏させてくれたまえ」

「は、はあ…」

「私は、ヴァイオリンの方もなかなかの腕前なんだ」

「そ、そうですか。でしたら、一曲」

「そうか、そうか、わっはっはっはっ。愉快、愉快」

 

フランス語には、“アングルのヴァイオリン”という言葉があって、

「玄人はだし」「得意の余技」「(本格的な)趣味」

といった意味で使うらしい。それ位は弾けた、ということか。

 

これには、後日談がある。後の1831年、

パガニーニ49歳にして、パリ初演(於:パリ・オペラ座)を行なう。

その3月9日のコンサートには、アモリー=デュヴァルが、

師アングルと共に訪れていた。(アングルはフランスに戻っていた。)

 

ベルリオーズは言った。—「パガニーニはパリジャンの夢と心に強烈な衝撃を与えて、死が彼らの上に襲いかかってくるのも忘れさせてしまった」

(当時、パリにはコレラが発生していたのだ。)

 

デュヴァルはこう書いた。—「幕が上がると、黒ずくめの服装の痩せた男が入ってきた。その容貌はまるで悪魔のようだった。その最初の音で、彼は劇場にいる人々を一人残らず虜にしてしまった」

しかし、「パガニーニが衝動に任せて名人芸的演奏を披露し始めると、アングルの顔は怒りのために赤く染まった」

 

アングルがパガニーニに何を求めていたのかは、

パガニーニのデッサン画を見れば、分かるような気がする。

 

その同じ聴衆の中に、音楽好きのドラクロワもいた。

彼の描いた《ヴァイオリンを奏でるパガニーニ》は、

アングルのそれとは随分、印象が違う。

 

アングル、ドラクロワ、彼らの腕前を考えると、

それらは正しく『パガニーニ』なのだ。彼らの「眼」が、

パガニーニのどの部分を切り取ったにせよ…。

 

そう、考えるならば。

彼らの絵から流れ出てくるパガニーニ、

あなたには、どんな風に聴こえる?

 

 

え? 彼もヴァイオリンを弾くの?

と、意外に思ったのはヴラマンクだ。

 

—モーリス・ド・ヴラマンク Maurice de Vlaminck 仏 1876-1958

 

ヴラマンクの絵に、楽器を見た記憶がなかった。

どちらかというと風景画のイメージが強く、その絵の印象は静謐で、

聴こえるとしてもそれは風の音や雪を踏む足音、人の吐く息が寒さで凍る音。どこにも音楽のイメージがない。時間が切り取られて止まっていて。

フォーヴから離れて後の絵を、多く見たからかもしれない。

 

「徹底した自由主義者で、何かに束縛されたり、服従したりすることを嫌った。故に、伝統や教育、アカデミックなものを拒否し、絵もほとんど独学だった」

 

ラヴェルと同時代人のヴラマンク、

ヴァイオリン教師の父とピアノ教師の母の子として、パリで生まれた。

両親は彼にヴラマンクに音楽の手ほどきをするが、

本人は、自転車選手に憧れていたらしい。

12歳の頃から近くに住む画家に絵の基本を学ぶ。

17歳で家を飛び出し、競輪の選手&メカニックとなる。結婚。

1896年身体を壊し、選手生活を断念。

音楽を教え、楽団でヴァイオリンを弾いて生計を立てていた。

1900年6月、ドラン(Andre Derain 1880-1954)と知り合い、

二人でアトリエを借り、共同生活を始める。昼は絵を描き、

夜はカジノやキャフェでヴァイオリン演奏していたという。

 

「絵は本能に従って、感動を描くのだ、構図にこだわる必要はない。必要な物を在るべき位置に置き、不必要なものを除くだけだ」

これが、ヴラマンクの口癖だったという。

彼に影響された佐伯祐三の、友人達への口癖はこうだった。

「ぼくの絵は純粋か、純粋でないか。ほんとうか、ほんとうでないか。それを言ってくれ」

 

そこに、音楽を感じようが感じまいが、

在るものは同じなのかもしれない、と思う。

 

 

ヴァイオリンの絵といって、思い出すのはシャガールだ。

残念ながら、彼自身がヴァイオリン弾きだった訳ではないが。

 

—マルク・シャガール Marc Chagall 1887 -1985

 20世紀のロシア(現ベラルーシ)出身のフランスの画家。

 

幼い頃、ヌーシュというヴァイオリン弾きの叔父さんが、

彼のお祖父さんの為に弾くヴァイオリンに聞き惚れていたという。

それは“クレズマー”と呼ばれるユダヤ(イディッシュ)の民族音楽。

シャガールのルーツは、伝統的なユダヤ人コミュニティだったのだ。

そして、そこでは“ヴァイオリン弾き”は欠かせないものだった。

 

パリで勉強をし、一旦は自国に戻るが、落ち着かぬ政情に国を出る。

アメリカへ亡命した後、ナチス・ドイツ軍によって故郷は灰燼に帰し、

その数年後には愛する妻ベラが急死する。その絶望、喪失感を想う。

そうして、フランスに永住することを決意したシャガール。

 

『愛の画家』とも呼ばれるシャガールの絵には、

デュフィが消し去ったものが、残っている気がする。

彼の絵をまっすぐ見られないのは、どんな幸せそうな絵にも、

必ずそこに、誰もが持つ痛みや悲しみを感じてしまうからかもしれない。

 

ちなみに、映画&ミュージカルの『屋根の上のヴァイオリン弾き(Fiddler on the roof)』は、

「昔ローマ皇帝ネロによるユダヤ人の大虐殺があった時、逃げ惑う群衆の中で、一人屋根の上でバイオリンを弾く男がいたという故事を描いたシャガールの絵(《The Fiddler》1912)にヒントを得たもの」とされている。

 

いつ滑り落ちてしまうとも分からない屋根の上

=そんな不安定な状況、不穏な情勢下にあっても、

いつも明るく前向きに「音楽を奏でるように」生きていけという教え、

ユダヤ人たちの不屈の魂の象徴なのだという。

 

シャガールの絵には、そこここにヴァイオリン弾きがいる。

隠れミッキー的に、探してみるのも楽しいかもしれない。

 

 

ヴァイオリンを弾く画家と言えば、やはりパウル・クレーだろう。

オディロン・ルドンも、ヴァイオリンを弾いた。

大好きなこの二人については、また、いつか語ってみたい。

デュフィ《Le violon rouge》1948頃(1965フランス切手)

アングル《パガニーニの肖像》1819

アングル《グランド・オダリスク》1814

ドラクロワ《ヴァイオリンを奏でるパガニーニ》1831

ヴラマンク《静物》1910(1976フランス切手)

ガルニエ宮Palais Garnier:1964年から劇場の天井画はシャガールのものに。

© 2014 by アッコルド出版

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