ときに、「趣味は?」と聞かれる。
『読書』と言いたいところなのだが、悲しいことに最近は、
趣味とは言えない状況に陥っていて、すんなり口にできない。
なので、取り敢えず、『手芸』と答えることにしている。
 
刺繍、パッチワーク、ぬいぐるみ、ビーズ、ソーイング、
紙工芸、トールペイント…いろいろなものに挑戦してきた。
飽きることはなく、気が多いだけなのだが、そうは言っても、
我ながら余りにも節操がない。少々言い訳がましいが、
やっている間は真剣だということ、断続的ではあるが、
細く長く続けてきているということは、訴えてみたい。
 
編み物には、一時期、真剣に嵌った。
某有名手芸メーカーの講師コースに臨んだりもした。
本格的に取り組めば、学ぶものも多い。
「独学の限界」を教えてくれたのも、編み物だった。
 
大学時代、玄人はだしの腕を持つ先輩がいた。
手の込んだ模様のセーターを編みたくて、相談すると、
「だったら、まずメリヤス編みが綺麗にできないとね」と。
 
メリヤス編みは一番シンプルな編地、基本的な編み方。
編地を見たら問題点が分かると言われた。ならばと見て貰うと、
「目がもう一息揃ってない」「編地が固過ぎる。肩凝るでしょう?」
どうすればメリヤス編みが綺麗にできるのかを問えば、
「リズムと脱力かしら」 ううむ。どこかで聞いたような…。
 
後は? 「練習」…ですよね。「慣れかな」…まさに。
「失敗したときや納得がいかないとき、ちゃんと解いてる?」
勢いよく編んで、ふと見ると、何段か前に編み間違えが…。
ここまで編んだのに。解くのヤだな。何とかならないかな。
「抵抗なく解けるようになれたら、上手になるよ」なるほど。
「上手になりたいんでしょ?」 はいっ!
 
 
なんでも同じなんだなぁ、と思う。
 
どうせなら、いいものを作りたい。
本で見るお手本のような仕上がりにしたい。
プロになりたいとは思わないが、プロの腕は持ちたいと思う。
だから、なけなしのお金と時間と気力&体力を注ぎ込んで挑む。
趣味とはいえ、いや趣味だからこそ、夢は大きく、理想は高い。
 
ある日、たまたま、『編み物の先生』と知り合う機会を得た。
これから何を勉強すれば上手くなれるか、アドバイスを求めると、
「あら、趣味なんでしょ。これだけ編めれば十分よ」
彼女の表情から見るに、多分、褒め言葉だったのだと思う。
でも。なんだろう。とても悲しい気持ちになった。
 
指導する側が“理想”を勝手に作ってはいけない。
指導する側が“夢”の限界値を設定してはいけない。
それを学んだ一瞬だった。
 
話は変わるが、このところ、よく、
『承認欲求』という言葉を、耳にする。
=他人から認められたいという欲求
昨今、「認められる」も、「やばい」と同じくらい、
いろいろな意味を持つようになったらしい。
「注目される」=「認められる」? 変な世の中だ。
 
地道にヴァイオリンの腕を磨いている多くの友人たちを見ていると、
正しい承認欲求の在り方はこうなのかな、と思ったりもする。
 
「人間は自己実現に向かって絶えず成長する生きものである」
そう仮定して、アメリカの心理学者マズローは人間の基本的欲求をこう低次から並べる。
 
「生理的欲求(生きていくための基本的・本能的な欲求)」
  ↓
「安全欲求(生を脅かされない安全な環境・生活を確保したいという欲求)」
  ↓
「社会的欲求(家族・仲間など集団に帰属していたいという欲求)」
  ↓
「尊厳欲求(承認・自我欲求:他者から認められたい尊敬されたいという欲求)」
  ↓
「自己実現欲求(自分の能力を引き出し、創造的な活動がしたいという欲求)」
 
 
いろいろな夢を持って、楽器を手にする。楽器を手にすれば、
まず弾けるようになりたいと思う。ある程度弾けるようになれば、
様々な心的欲求から集団に入ってみたいと思う。集団に入れば、
そこにいる仲間に認められたいと思うようになる。それをクリアすれば、
今度は、かつて思い描いた自身の理想、自身の夢を叶えたくなる。
 
独学をしていた人が、アンサンブルを始める。
オーケストラメインで活動していた人が、アンサンブルを始める。
 
考えてみれば、弦楽器奏者にとってアンサンブルは、
自己実現という意味では、理想的な「形」なのかもしれない。
 
“群”ではなく“個”になれる。
“独り”ではなく“一人”になれる。
常に自分に目を向け、評価してくれる人がいる、
 
唐突だが、あなたはどんな人だろう?
・友人達と歩く時、歩調を合わせられず、先に歩いたり遅れて歩いたりする。
・他人と鍋料理を食べることに、抵抗がある。
・仲間内で話が盛り上がってくると、一人冷静に構えてしまう。
・一度に幾つもの作業をするのは、不得手だ。
・他人の話を最後まで聞けず、つい自分の意見を被せてしまう。
・第一印象ですべてを判断してしまう傾向がある。
・人と目を合わせて話すことができない。
・親しい友人とでも、行列に並ぶのは嫌だ。
・カラオケでマイクを手放さない人は、絶対に許せない。
・目立つことが嫌いだ。目立つ奴も嫌いだ。
・ともかく、集団行動は苦手だ。
・どちらかというと、悲観的な方だ。
 
話の展開が見えたかと思う。そう、
この項目に、そうかもしれないと頷いた人は、
多分、アンサンブルには不向なタイプだ。
でも、そういう人にこそ、挑戦してほしいとも思う。
だって、アンサンブルは楽しい。これだけは大声で叫びたい。
 
え? カラオケでマイクを手放せない目立ちたがり屋は誰?って。
いやいや、ファーストヴァイオリンだなんて、そんなことは一言も。
 
 
アンサンブルのレッスン中、よく耳にするのは、
「見て!」「聴いて!」「合わせて!」…こんな注意だろうか。
どこかに書いてあった—『勉強の方法論、三つの入り口』
 ①視覚刺激:目で見た情報を認知・記憶する方法
 ②聴覚刺激:耳から入る音を認知・記憶する方法
 ③行動刺激:人の作業や行動を観察し、模倣しながら学習していく方法
いやあ、我々勉強してますなぁ。しかも瞬時に。
 
“アンサンブル”=ensemble(仏)「一緒に」「共に」、
 
意味もいい。単語の音もいい。
共に一つの楽曲を演奏する。皆で息を合わせて演奏する。
 
それはヒトとして自然な行動の一つなのかもしれない。
だから、アンサンブルをするとなると、最初から、
何も言わなくても皆、自分が何を為すべきかを理解している。
 
なのに、「合わせて!合わせて!」と何度も注意されるうちに、
変な勘違いが起き、それが頭にインプットされてしまうことがある。
そう。常に「何か(誰か)に」合わせていればよいのだという勘違い。
 
他人の音を聴いて、それに合わせる。
他人の弾き方を見て、それに合わせる。
確かに、そういうアンサンブルテクニックはある。
誰かに「揃える」、誰かに「付ける」といった。
 
学生時代、大先輩に叱られたことがある。
「技術だけで合わせるな。心で合わせろ」
「揃えるんじゃない、シンクロするんだ!」
「ちゃんと同じ時間を生きているのか!」
 
なんてカッコいいんだろう!
 
友人の伴奏ピアニストが叱られていた。
「『ソリストにつける』っていうのは『ついていく』っていう意味じゃないのよ」
「タイミングは『計る』もので『合わせる』ものじゃないの」
「『感じる』の。『探る』から重くなるんでしょ」
 
難しい…。奥が深い…。
 
 
合図らしい合図なしに、一斉に音を出すことができる。
指揮者がいなくても、合奏できる。
やっぱり、演奏家ってすごい。
 
合図で思い出した。よく聞かれる質問があった。
 
Q.「『ザッツ見て』とか言われるんですけど、ザッツって何ですか?」
A.「ザッツを見る」「ザッツを出す」と言うときの「ザッツ」は、出の合図を意味す
ることが多いので、『アインザッツゲーベン』の略だと思われる。
 
—ザッツSatz(独)
(1)楽章の意 (2)楽節の意 (3)書法、作法の意
 
—アインザッツEinsatz(独)
(1)アタック
(2)管弦楽または合唱で、ある声部(または独奏者や独唱者)が比較的長い休止の後、
再び始めること
(3)コンチェルトで独奏部が入ること
(4)フーガの主題の入り
 
—アインザッツゲーベンEinsatzgeben(独) アインザッツを示すこと。
 
Q.「演奏中は特に合図しているように見えないんですが、どうしてるんですか?」
A.始まってしまえば、ほとんど合図は必要ない。総休止の後など合図が必要なとき
は、右手の動きや呼吸でさりげなく送る。「ザッツを出す」のは各楽章の頭くらい。
 
Q.「でも、映像ではアイコンタクトをしているように見えるんですけど」
A.これは合図を出しているというよりは、会話に近いもの。「もっと出せば?」
「え?出しちゃっていいの?」「ちょっとうるさい」「ごめんごめん」「少し速くな
い?」「そう?」「いい感じ?」「うん、いい感じ」「楽しいねぇ」「楽し〜い」こ
んな。
 
事件が起きたときも、どうするかを目で相談することがある。
アイコンタクトをしている奏者たちの目が、慌てていたら、
何かまずいことが起きているのだと思って見ていてください。

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第97回鍋奉行は要らない

© 2014 by アッコルド出版