昨年放映されていた弁護士もののドラマ、
主人公の女性弁護士が、依頼人が持ち込む難問に取り組んでいくにあたって、
ただ、目の前の裁判に勝つことだけを考えるのではなく、
先入観をなくし、「そもそも」と原点に立ち返って、
依頼人の本当の幸せを考えることで大団円を迎える、そんな内容のものだった。
弁護士ものというだけで、つい見てしまっていたのだが、
ご想像通り、引っ掛かったのは『そもそも』という言葉である。
 
「そもそも」という語彙、個人的にはあまり使わない。
不特定多数の人達相手に持論を展開する上では、問題はないとも思うが、
誰かに対して「そもそも」と言うときは、否定的な要素が強いことが多いし、
ややもすれば少し『上から』な気配もあって、抵抗を感じる言葉でもある。
 
―「そも【抑】」《代名詞「そ(其)」+係助詞「も」から》
物事の根源を説き起こすとき、または改めて問題を提起するときに用いる。
―「そもそも【抑抑】」(物事の)最初。起こり。どだい。副詞的にも用いる。
改めて説き起こすとき文頭に用いる語。いったい。だいたい。
 
ちなみに、
“卬(ゴウ・コウ)”は、立つ人と座る人二人が向き合っている様子。
「こんにちは」「いらっしゃい」の関係なら「迎(むかえる)」
片方が片方を見上げる形とするなら「仰(あおぐ)」、
見下ろす形とするなら「抑(おさえる)」となる、と。
なるほど。若干、上下関係ありと。
 
でも、“そもそも”という考え方は好きだ。
「そもそも、自分は何故ヴァイオリンを手にしているのだろう」
「そもそも、自分には無理だったんだ」
なんて、ネガティブな『そもそも』もなくはないが、
問題解決の糸口は、『そもそも』で見つかることも多い。
ただし、対峙する相手は自分だ。
 
前進を阻む『停滞』や『崩壊』、『失意』や『困惑』。
そんな奴らが襲ってきたら、最強兵器“そもそも”を繰り出す。
やっつけるべきは、敵の本体なのだ。
目の前の敵にばかり気を取られていては、戦いは終わらない。
 
 
―そもそも、なぜ、ヴァイオリンは音が出るのか。
 
『弦の振動』がなければ、何も始まらない。
ならば、重要なのは? 「もちろん、『弦』!」…然り。
だが、これは料理でいう“素材”。
素材はよいに越したことはないが、いくら素材(弦)がよくても、
それを活かす“道具”と“腕”がなければ話にならない。
 
道具=『弓』。弓選びは楽器よりも慎重に行なうべきものだ。
弓もまたよいに越したことはないが(正直よい方がいい)、
それよりも、『弓の状態』の方が重要である。
「なまくら包丁」では、美味しく美しい料理は作れない。
考えるに、『(弓の)毛』と『松脂』が音の生命線である。
 
『毛の選択』と『毛替え』に関しては、専門家に任せるしかないが、
だからといって、無関心でいてよいというものでもないだろう。
『毛の張り方』は自身で研究して、どうあるべきか知らねばならない。
 
『松脂』は一つ買えば一生モノ、市販の有名製品は概ね良質であるし、
「使い比べる」ことは、強い探求心とそこそこの財布の中身が必要だ。
ただ、実際に、あれこれ比べてみれば、その違いに驚き感心し、
『松脂』が担っているものの大きさを知って愕然とするだろう。
 
そうして“道具”を万全の状態に整えたとしても、
それをコントロールする“腕”がなければ、宝の持ち腐れ。
「“腕”って言われてもね~。それがなくて悩んでいる訳で」
おっしゃる通り。でも、すぐできてしまっても面白くないし。
 
―そもそも、右手は何をしているのだろう?
 
右手は〈音高〉以外の《音の要素》ほとんどを決定付けている。
=〈大小〉〈強弱〉〈長短〉、そして〈音色〉。
右手は、《音の時間的ファクター》も管理している。
=〈発音〉〈持続音〉〈語尾〉
 
右手君、君の責任は重大だ。
 
 
―そもそも、自分の右手をちゃんとコントロールできているのか?
 
起きる。顔を洗う。朝食をとる。出掛ける。
日常的に行なう作業、その動作は、当たり前に、ごく自然に、
何の問題もなく行なうことができる。ところが何か、
新しいことをしようとすると、なかなかそうはいかない。
 
箸が持てない。鉛筆が上手く使えない。
前転ができない。鉄棒ができない。跳び箱が飛べない。
上手く走れない。スキップができない。ラケットにボールが当たらない。
折り紙が折れない。おにぎりが握れない。
カッターが使えない。ドライバーが回せない。
 
「できない」、そのことを自身で納得できればまだいい。
「ちゃんとやっているはずなのになぜ」と、困惑することもある。
「こんなはずはない」、自分に苛立つこともある。
「こんなつもりじゃない」、泣きたくなることもある。
「できる訳がない」、諦めたことも少なくない。
 
自分の身体のことなのに。
 
考えてみれば、ボウイングなんて難易度マックスだ。
「まっすぐ弾いてね」なんて、平気で初心者に言うが、
画用紙にまっすぐな横線を描くのだって、難しい。
のこぎりをまっすぐ引くのだって、難しい。なのに、
目に頼らず、耳と、腕の感覚だけで「まっすぐ弾け」と?
 
而して、〈開放弦でのボウイング〉が最初の課題となる。
ダウン、アップ、ダウン、アップ、ダウン、アップ。
シンプルな、実にシンプルなボウイングだ。
 
でも、弾き始める前に、考えておかなければいけないことがある。
速さは? 音量は? 弓の使う量は?等々…「適当ではダメですか?」
『適当』というとき、そこに自分の意思はない。
「身体に任せる」というと聞こえはいいが、
本当に任せていいのか。身体は信頼に値するのか? 
指揮官が誰か、身体は分かっているのか? 
 
 
―そもそも、基礎練習とは何か?  何のためにするのか?
 
ヴァイオリンを弾くためには、弾けるようになるためには、
演奏に必要な身体を作り、それをキープしなければならない。
その身体を意のままにコントロールできるようにしなければならない。
 
レッスンや本番など取り敢えずの目標は、今の自分で乗り切るしかないが、
いつまでも、同じ自分ではいたくない。
自分を研き成長させるためには、そのための練習が必要である。
 
日課として毎日同じメニュー(基礎練習)をこなす、その意味。
身体作りに反復・継続が必要なのは、周知の事実。他には?
ルーティンワーク=今の自分を、今日の自分を知ること。
 
例えば、「できること」「できている」ことを確認する。 
=自分で無意識にやっていることを意識して行なうようにする。
 
例えば、「できない」「できていない」ことを確認する。
=原因を明確にし、対処としての手段や方法を検討、選択・決定する。
 
例えば、自分の何が変わり、それがどう結果に結び付いたかを確認する。
=変化に気付く。違いを聴き取る。フィードバックする。
 
そして、これらの作業を習慣的に行なえるようにすることも大切。
そのための基礎練習でもある。
 
「難しいもの」では、それらに気付けないこともあるし、
「長いもの」は集中力が続かず、気付いたことを忘れてしまったりする。
「複雑なもの」では、『選択』『抽出』という余分なエネルギーが要る。
故の、単純化され、標準化され、専門化された課題。
短くシンプルで、ひどく無理のない、目的がはっきりした課題。
 
ちなみにエチュード(として用いられているもの)は、
各課題それぞれ、あるテクニックに特化したものではあるが、
含まれる要素が多いので、どちらかといえば応用問題にあたる。
 
基礎練に組み込まれることの多いスケールとアルペジオは、
「音楽的基礎」なのであって、技術的にはかなり難易度が高い。
 
 
「音程悪いね」
「よく言われるんですが、正しい音程が分からないんです。
 どうすれば『耳』って、よくなりますか?」
 
こういう会話を、これまで随分してきた。
左手の役目、その主たるものは「音高を決定する」ことだ。
これに不安があるのは、辛い。だから、
真剣に考えてきた。「どうすれば『耳』がよくなるのか」と。
そればかりを考え、よかれと思う対処療法を提示してきた。
 
でも、投げ掛けられるこの問いの回数の多さに、
むくむくと、「そもそも」が出てくる。
―そもそも、こんなに耳の悪い人が多いのはなぜか?
 
いや、待て。
―そもそも、みんな、本当に耳が悪いのか?
 
調弦をしてもらう。完璧な調弦ができる。
平均律的音階と、美しく聞こえる音階を弾いてみる。
「ああ、違う」「綺麗!」=多くの人が、聴き分けられる。
大体、他人の音程が悪いのは分かったりもする。
「あいつ、音程悪いよな」「いつも上ずってるよね」
 
なあんだ、そうか。耳が悪い訳じゃないんだ!
とすると、なぜ、音程が悪いのか。耳のせいではない。
とすると、考えられる犯人はただ一人、『手指』である。
 
指が、下りるべきところに、下りていない。
指が、下ろしたいところに、下りていない。
 
例えば半音。隣り合った指が依存し合い、互いに邪魔をしている。
例えば全音。指の付け根から広がらず、広げ方が一定しない。
指が行きたいところに行ってしまう。
 
注意されると、指たちはこう言う。
「知~らない!」「俺たちのせいじゃないもん!」「ねーっ!」
最初は抵抗し、反論していた耳もやがて諦める。
トレーニングを怠り、独立心のかけらもない、わがままな指たち。
 
「ポジションチェンジが下手なんです」こういう相談もよく受ける。
「結構練習しているんですが、なかなか確率が上がらないんです」
 
見せてもらうと、例のあれが湧き上がってくる。
―そもそも、着地点は分かっているのか。
 
「シフトが上手くいかない」と訴える人の多くは、
距離感だけで取っていたり、耳で探って取っていることが多い。
「こんな感じ?」「あ、ここだ。止まらなきゃ」的な。
 
「シフトの動作なしで、到達音を取ってみて」
「音を出さないで、チェンジしてみて」
そう言って試してみてもらうと、意外にできないことが多い。
 
もちろん、距離感は大事だし、最終的な微調整は耳でする。だが、
まず把握すべきは、到達地点(のポジション)である。
それを身体に入れぬまま、跳び付く練習だけしても確率は上がらない。
他人に言うのは簡単だが…。
 
 
基礎練の課題、右手に関しては、
開放弦でのボウイング・ヴァリエーションがお薦めだ。
左手の心配が一切ない。耳は音に集中できる。
ただし、練習していて退屈に感じるときは、
身になっていないから、止めた方がいい。
 
左手の課題としては、
セヴィシックop.1-1(の最初の方)にあるようなものがいい。
見た目は鬱陶しいし、誌面を埋める音符に気も遠くなるが、
全部をやり切ることが目的ではない。
ただ弾くのではなく、ゆっくりじっくり、
自分の指の動きを確認しながら、指を自分のものにしていく。
 
そもそも、基礎練は自分のためのものである。
自分のことは、自分にしか分からない。
 
―そもそも、今の自分には何が一番必要なのか。
 

 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第95回「“そもそも”襲来っ!」「なにっ!」

© 2014 by アッコルド出版