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2015年も明けた松の内の1月4日、それなりに寒さは厳しいもののスッキリと晴れ上がった空の下、上野恩賜公園は年末年始休暇最後の日曜日の午後をノンビリ楽しむ家族連れやカップルでごった返す。そんな中、かなりの数の人々が、公園奥の東京藝術大学方向へと流れていく。まだ休みの筈の学校で、藝大音楽部長澤和樹教授の還暦記念イベントが開催されるのである。
 
…などと記すと、たいそう堅苦しい記念行事が開催されたように感じられよう。常識的に考えれば、肩書といい経歴といい、はたまた実力といい、いかにも年頭の学校講堂で開催されるに相応しい公式な祝賀会となってもおかしくない。ところが、現場に居合わせた数百人はよくご存知のように、実際はそうではなかった。それどころか、公園の反対側の東京文化会館を筆頭に同じ時間に日本全国津々浦々で開催されていたどの「ニューイヤー・コンサート」よりも、音楽的にもそれ以外の部分でも、遥かに楽しい演奏会だったかもしれない。
 
それもこれも、ひとえに澤和樹という音楽家の人柄ゆえだろう。なにしろ、開演を前に藝大奏楽堂前に列を成した人々を迎えたのは、ニッコリ微笑む御本人の等身大パネルだったのだから。
 
 
開演時間、広い新奏楽堂が真っ暗になる。バッハの無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番のアダージョが暗闇に響き始める。巨大オルガン下の舞台上にスポットライトが当てられると、そこにいるのは、グァルネリ・デル・ジェスを肩に当てた本日の主役、澤和樹だ。なによりも前に、藝大音楽学部長であるよりも、無数の演奏家の師匠であるよりも、まずはただひとりのヴァイオリニストである己を再確認し、堂々と宣言する、この演奏会で最もシリアスな還暦の所信表明演説である。音楽がなければ何もなかった60年を、わずか数分で語り尽くす、雄弁な時間。
 
楽器を肩から降ろした本日の主人公は、文字通り肩の荷を下ろしたかのように、スポットライトの中で、言葉で語り出す。この日が自分の還暦の誕生日であること、この日に向けて数年前から弟子らが演奏会を企画してくれたこと。なによりも大事で、いかにも澤和樹らしいのは、せっかくそういう演奏会をするのならば法人化されて10年になる大学のためのファンディングのコンサートにすべきである、と考えたこと。自分の還暦コンサートを意味のあるイベントに出来ないかと自然と考えてしまう演奏家など、少なくとも日本の文化圏には、そうはいなかろう。偉いのは自分ではない、もしも自分が偉いのならば、それを利用して何かをしない手はない…そう考えてイヤミに思われないキャラクターは、それ自身が大事な才能なのである。
 
文字通りの人生の伴侶たる蓼沼恵美子とのヤナーチェクのソナタ(「ミュンヘンARDコンクール1983年ピアノとヴァイオリン二重奏部門第3位」などというアナウンスはどこにもない)、お嬢さんとのバルトークのデュオ(ジョルジュ・パウクとの名録音を思い出すなという方が無理だ)、そしてある時期は夫人や娘さんより多くの時間を過ごしていた盟友澤クァルテットと奏でる「カヴァティーナ」(澤和樹は澤和樹であり、決してノーバート・ブレイニンではないのだ)。己の60年の歴史を音に綴る演奏が繰り広げられる。客席の聴衆達も、それぞれの人がそれぞれなりに、「澤和樹」という人物との関わりとの仲で、これらの音楽に触れていたことであろう。なにしろ音楽とは、時間を封印してしまうタイムカプセルのような芸術形態なのだから。
 
休息を挟んだ後半は、一気にお祭り気分が盛り上がる。演奏を終え、ホール天井桟敷にカメラを抱えて陣取る筆者の隣にやってきた澤Qのチェロ奏者林俊昭も、「このあとは面白いよ」と微笑んでいる。舞台上に沢山の椅子が並べられ、弟子らによる弦楽合奏の登場だ。まずは弟子ら26名をバックに、現役の弟子たる岡本誠司と独奏を分け合うバッハの2つのヴァイオリンのための協奏曲。若く瑞々しい音色と、それを見守る師匠、という現在の澤和樹の役回りを音で確認する(本日の主人公とすれば、少しは先生らしい顔もしないわけにはいかないし、というところだったかしら)。
 
そこから先は、もう先生も生徒もない年齢を超えた音楽仲間の無礼講である。どんどんと増えていく舞台上の椅子を並べるための転換時間に、澤と共に登場したのは葉加瀬太郎。まだ若き澤先生の弟子のひとりだった葉加瀬とのお喋りは、まるで漫談である(無論、澤の役回りは悠然と構えるツッコミだ)。この辺りから、和歌山出身関西人の澤の本領(?)が発揮され始め、「こういう音楽には憧れがあるんです」と、いつかやってみたかったというグラッペリがオリジナルのバッハ二重協奏曲のテーマによるSwingin' Bachへと雪崩れ込んだ。スイングする澤先生に、聴衆も、何よりも弟子らによるオーケストラも、拍手喝采。
 
これでオシマイかと思ったら、お楽しみはこれからだった。まだまだ増えるオーケストラのために椅子を増やす間、今度はNAOTOを加えた関西3人組の漫談混じりで、澤和樹の生涯が写真パネルで披露される。先程のジャズ風バッハですっかり会場の空気も出来上がり、まるで還暦の主人公弄りになってきた。率先して弄られる澤和樹って、もしや大人物なのではあるまいか。サービス精神旺盛の関西人気質、だけでは済むまいに。楽器を抱えるためにいちど舞台に引っ込んだ3人が、この演奏会のために特別にアレンジされた弦楽合奏と3人のヴァイオリンのための《情熱大陸》を披露すべく出て来ると、葉加瀬の長いジャケット、NAOTOの真っ白なコスチューム、そして本日の主役は真っ赤なちゃんちゃんこで、会場は爆笑寸前だ(藝大学部長の姿を笑って良いのか、怯む人も多かったかも)。
 
ある意味で最も出世した弟子達を引き連れた大パフォーマンスの後は、現在の音楽家澤和樹が最も本気で取り組む新境地が示される。ちゃんちゃんこを脱ぎ、あらためていつもの姿に戻った澤和樹は、指揮棒を持たずに門下生120名の巨大合奏のポディウムに立つ。レスピーギ《リュートのための古代舞曲とアリア第3組曲》は、巨大な響きがマスにはならず、次第にニュアンスに富んだ音楽へと変貌していく。
 
「カズキはとっても良い指揮者よ」と、ヘンシェルQのモニカが盛んに繰り返していたのはお世辞ではない。もしかしたら、この先の新しい人生で、澤和樹という音楽家が目指しているのはこちらの道なのかも、それならそれで良いではないか、と思える響きがそこにあった。そして、妻に捧げるエルガー《弦楽セレナーデ》の緩徐楽章をアンコールに、3時間に及ぶ音楽による還暦祝いは終わった。
 
音楽は人なり――そんな当たり前のことを、還暦コンサートという場所で今更ながらに実感させてくれるなんて、これこそが「澤和樹」という人なのであろう。
 
演奏会について淡々と記しただけで随分と長くなってしまった。筆者にとっても極めて個人的に大事な人物である澤和樹氏については、次回に記すこととしよう。なにはともあれ、澤和樹さん、還暦、御目出度う御座います。

お正月の空気が漂う上野の杜、藝大音楽部正門前には、

澤和樹還暦コンサートのポスターが貼られる。

第76回

澤和樹讃その1:還暦記念演奏会

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版

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