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「クラシック音楽」として括られるジャンルに、日本ではどのくらいの「賞」があるのだろうか。
 
世間的な意味での「有り難さ」でいえば、やはり国が授ける賞であろう。立憲君主国として些か特殊な状況にある戦後の日本では、天皇家は文化の最高パトロンとしての機能を果たすだけの独立した財政基盤を有していないので、頂点は天皇の名で授与される文化勲章になる。
 
以下、芸術祭文部科学大臣賞、芸術選奨、文化庁長官賞、恩賜賞、日本藝術院賞、等々。特定自治体の文化功労者に与える県民文化賞や、大阪市の咲やこの花賞のような地域の新人演奏家を奨励する賞など、地方自治体が与える賞もほぼ各都道府県が準備しており、意外に少なくはない。
 
もうひとつは民間の賞だ。企業グループ財団、学校法人、宗教法人、新聞社、はたまた個人などが、文化活動を対象に賞を出すケースは規模を問わねば無数にある。クラシック音楽関係にもそれなりの門戸が開かれており、破格の賞金額を誇る京都賞や、各国元首クラスを名誉顧問に並べ「文化のノーベル賞」を目指すフジサンケイグループの高松宮殿下記念世界文化賞がその筆頭。
 
思いつくままに並べてみても、サントリー音楽賞、佐治敬三賞、新日鉄住金音楽賞、ホテルオークラ音楽賞、バロックザール青山音楽賞、松方ホール音楽賞、出光音楽賞、東燃ゼネラル音楽賞、三菱UFJ信託音楽賞、毎日芸術賞、渡邉暁雄音楽基金音楽賞、吉田秀和賞、等々、演奏家から舞台裏方、音楽評論に至るまで多岐に亘る。アリオン賞、ジロー・オペラ賞、秋吉台国際作曲家賞や中島健蔵音楽賞のように、活動を休止した賞もある。
 
これだけ様々な賞があるのだ。ある程度以上に個性的な選考基準を謳う賞があっても、それはそれで悪くなかろう。
 
筆者は、今年からたまたま齋藤秀雄メモリアル基金賞の任期制選考委員を勤めさせていただくことになった。音楽ジャーナリストという商売柄、賞の発表会見には出向くことがあるにしても、自分が賞を与える側に関わることがあろうなど考えたこともなかったので、お話を頂いたとき、正直、大いに躊躇ったことは事実である。だが、敢えて受けさせていただいた。理由は、「齋藤秀雄」という人物を顕彰する賞であるが故である。特定の個人の名前が付いた賞でなければ、決して引き受けなかっただろう。
 
公益財団法人ソニー音楽財団の公式ホームページをご覧いただけばお判りのように、この賞が受賞対象者とするのは「音楽芸術文化の発展に貢献し、将来一層の活躍が期待される、若手チェリスト、指揮者」である。
http://www.smf.or.jp/saitohideo/
 
だが、どこにも書かれていないものの、齋藤秀雄という音楽家の目指したところを実現すべく音楽活動を行なっている人物こそに賞を与えられるべきであることは、言うまでもない。
 
そもそもこの賞、堤剛と小澤征爾というチェリスト及び指揮者としての齋藤秀雄を誰よりもよく知る個人が選び、授与する賞として始まった。現在は任期3年の選考委員が補佐する形を取るようになったとはいえ、極めて個人的な賞という性格は変わっていない(と、筆者は信じる)。要は、「齋藤秀雄先生だったらどう思うか」を第一に考えねばならないのである。
 
 
齋藤秀雄という音楽家の21世紀初頭の日本での評価は、まずなによりも教育者としてであろう。弟子らを中心にその名を顕彰するオーケストラが組織され、大規模な音楽祭も開催され、「偉い先生」としての認識は世界中に広まっている。指揮法としての「サイトウ・メソッド」に関しては、1970年代から80年代に批判的な意見を含めて盛んに語られたものの、ピリオド楽器や歴史的情報に基づく演奏が大きな勢力を占めるようになった今は、かつてほど議論されることはなくなっているようだ。
 
もうひとつは、ユリウス・クレンゲル及びエマニュエル・フォイアマン門下のチェリストとしての齋藤秀雄に対する評価である。齋藤秀雄のチェリストとしての資質に関しては、同世代の吉田秀和や遠山一行らの言葉も数多く残されている。演奏家と評論家の関係が今とはまるで違う時代の証言とはいえ、評価には常に歯切れの悪さと保留があったことは否めない。恐らく、カザルスやクレンゲル、フォイアマン、ピアティゴルスキーなどを評論家らが賞讃したのと同じようには、チェリスト齋藤秀雄は評価されてはいまい。だが、チェロ教育者としては、ほぼ無条件の高評価を受けているのは事実である。
 
そしてもうひとつ、齋藤秀雄に関してあまり語られない事実がある。室内楽奏者、よりはっきり言えば、室内楽プロデューサーとしての顔である。音楽ジャーナリストとして室内楽を自分の専門分野(?)とする筆者とすれば、齋藤秀雄とは「現在の日本室内楽のひとつの流れを作った偉大なプロデューサー」なのだ。
 
日中戦争が太平洋戦争と拡大していく20世紀前半、日本洋楽ファンのアイドルとなった美人音楽家が何人かいた。今なら「セクハラ」と非難を浴びること必至の表現だが、時代のコンテクストの中ではそう言わざるを得ないのでお許し願いたい。諏訪根自子や原智恵子と並び究極の美少女ヴァイオリニストとして大いに人気を博したのが、巖本メリー・エステルである。
 
独奏者として華々しい活動をする巌本メリー・エステル改め(戦時下の不適切語として改名させられた)巌本真理だが、演奏家としての本当の関心は室内楽にあった。真理が本音を打ち明け、指導者として頼ったのが、齋藤秀雄だった。太平洋戦争も始まり、そろそろ音楽どころではない空気が流れ出した頃、巌本真理は東京は築地の聖路加病院で弦楽四重奏を演奏している。第1ヴァイオリンは真理、第2ヴァイオリンは渡邉暁雄、ヴィオラは松浦君代、そしてチェロを担当したのは齋藤秀雄であった。この演奏会に、前年に上野の音楽大学を卒業し、山形の陸軍に徴兵されていたチェリストが聴衆として座っていた。翌日に北方に出陣となる直前の最後の休暇だったという。そのチェリスト、黒沼俊夫は、人気者の巌本の第1ヴァイオリンを聴き、なんとヘタなヴァイオリニストだ、と呆れたという。
 
黒沼は北端に配属され、玉砕は免れたが、戦後はシベリアに抑留される。ようやく帰国し音楽界に復帰、設立された日本フィルの首席奏者を務める傍ら、渡邉暁雄やヴィオラの河野俊達らと室内楽を行なう。やがて、日本フィルのコンサートマスターとして来日していたブロダス・アールも室内楽の輪に加わるようになる。20世紀半ば、世界で最も先端的な室内楽を展開していたニュー・ミュージック弦楽四重奏団を諸事情で解散、失意で日本に渡っていたアールは、ここに新たな室内楽仲間を発見した。
 
その頃、齋藤秀雄と巌本真理は井口基成を加えたピアノ三重奏を結成、齋藤は室内楽奏者としての巌本真理を育て続けている。だが、子供のための音楽教室が成功し教育者として割かれる時間が増え、室内楽活動を満足に行なえない。そこで白羽の矢が立ったのが、黒沼俊夫である。黒沼をチェロ、伊達純をピアノに迎えた巌本真理トリオは、数多くの演奏会を行ない、巌本真理は室内楽奏者として大きく成長する。アールに学びたいと繰り返してた巌本の最終目標は弦楽四重奏であった。黒沼と巌本が核となり、ユニットは伝説の巌本真理弦楽四重奏団へと発展していくこととなる。
 
筆者の旧著『黒沼俊夫と日本の弦楽四重奏団』(柏の森書房1994)から必要事項を抜粋した極めて乱暴な記述ながら、巌本真理Qが結成されるまでの動きの陰日向に常に存在していたのが齋藤秀雄であることは、お判りいただけよう。
 
もうひとつ、齋藤秀雄の日本の室内楽に対する功績として忘れてならないのは、1965年夏に日光金谷ホテルで開催されたジュリアードQによるセミナーでる。齋藤秀雄とロバート・マンやラファエル・ヒリアーとの個人的な関係で開催に至ったこのセミナー、日本で初の現役弦楽四重奏団が学生団体をコーチングするセッションだった。今でこそ珍しくもなんともないイベントだろうが、それまで学生が現役バリバリのプロから直接指導を受けるチャンスなど皆無だったのである。このセミナーをきっかけに、原田禎夫と原田幸一郎が弦楽四重奏への夢を抱き、やがて東京カルテットへと突き進むことになるのは、万人の知るところであろう。
 
 
去る12月17日に行われた「齋藤秀雄メモリアル基金賞」授賞式で、本年度のチェロ部門受賞者となった大友肇が受賞スピーチで漏らした「齋藤秀雄先生が大切にされた一つに室内楽を学ぶことがあったわけですが…」という言葉の裏には、少なくともこれだけの意味が込められている。大阪国際コンクールで審査員として出会ったラファエル・ヒリアーの「君たちはなんとしてもクァルテットを続けてください」という言葉を真っ正面から捉え、巌本真理Qの活動を遙かな目標として「常設弦楽四重奏団」という勝算のない小規模ヴェンチャー・ビジネスに邁進するひとりのチェリストを讃えるのに、「齋藤秀雄」という名前の賞以上に相応しいものはない。少なくとも筆者は、そう考える。
 
こういう賞が、あっても良い。

審査委員堤剛氏らと共に、受賞記念撮影に収まる大友肇氏ら。指揮部門の受賞者はドイツで叩き上げのキャリアを積みヴッパタール市歌劇場のインテンダントにまで出世した上岡敏之氏。興味深いことに、今年の受賞者は共に個人としてのコンクール受賞歴などとは無縁な経歴である。

第76回

「齋藤秀雄」を讃える賞について

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版

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