最初に「可愛い!」と思ったのは、多分、テントウムシだ。
最初に「綺麗!」と思ったのが、確か、カナブンで、
最初に「ギョッ!」としたのが、ナナフシ、そして…。
 
まだ、昆虫標本制作キットなどない時代に、父が、
各種道具を取り揃え、(今思えば、かなり本格的なものだった)、
採取の仕方から標本の作り方まで、教えてくれたりしたものだから、
日常の中で、小さな虫たちは、自然に目に留まるものとなった。
虫採り網を手に野原を駆け回るほどの、昆虫大好き人間という訳ではないが、
動くものが視界に入れば、目で追う程度の愛好家ではある。
 
そんな小さな友人たち、家の中ではそう見掛けることもない。
幾つかの例外が、「G」と呼ばれ、悲惨な殺戮の対象となるゴキブリや、
家に棲みつく蜘蛛たちである。『家蜘蛛は殺すな』と教わり、彼らとは今でも、
お目に掛かれば「こんにちは」、邪魔なところにいれば「あっちへどうぞ」
といった感じの、至って友好的な関係性を保っている。
 
決して好きな訳ではない。見た目は気持ち悪いし、あの眼も怖い。
巨大タランチュラの映画を見た夜、夢を見て魘されたこともある。
それでも、美しい蜘蛛の巣が、太陽の光でキラキラ輝いていたりすると、
思わず見惚れてしまうし、その姿形や生態にもひどく興味をそそられる。
 
蜘蛛が昆虫ではないと知って、彼らはまた特別な存在になった。
なので、本屋や図書館などで居並ぶ背表紙に『蜘蛛(クモ)』の字を見ると、
思わず、手に取らずにはいられない。困ったものだ。
 
こればかりはヴァイオリンとは何の関係もないよなぁ、と思っていたら、
なんと、「クモの糸」でヴァイオリンの弦を作った人がいるという。
曰く、柔軟性があって強く、錆びない。音色もよい。ふむ。
この弦の演奏動画が公表された折の、巷の反応が面白かった。
 
「普通のヴァイオリンの音」「蜘蛛っぽくない」
「費用はどのくらい掛かるんだろう?-蜘蛛に支払う賃金位?」
「蜘蛛は人間の奴隷になってしまった」
蜘蛛っぽい音って?…笑。 確かに、羊腸より妖しい音色は出そうだけれど。
 
 
鋼鉄や炭素繊維よりも強く、軽く、伸縮性に富み、耐熱性も高い。
まさに“夢の繊維”だ。ちなみに、こんな実験結果も。
「クモの糸19万本で作った太さ約4 mmの紐に65 kgのヒトがぶら下がることに成功」
まるで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』だが…。
 
ボディアーマーや医療用の縫合糸などへの使用を念頭に、(弦も?)
このスーパー繊維、研究と実用化が進められているという。
そんな記事を読み漁っていたら、別のゾクゾクする記事にぶつかった。
「蚕にクモの遺伝子を導入し、クモの糸を量産できる〈モンスターシルクMonster Silk〉技術の商品化に近づいた。遺伝子組み換えを施された蚕がクモの糸とほぼ同じ性質を持った絹糸を産出するのだ」
人間って奴は。
 
それやこれやで、最近、図書館で手にした本がある。―『ガラス蜘蛛』
ミズグモ(水中生活をする蜘蛛)について書かれた本だったのだが、
その本文より、序に当たる部分の文の美しさにやられてしまう。
セキショウモという水草の“婚礼”についての一文だ。
この水草、非常に身近なもの。アクアリウム用に売られていたりもする。
 
愛する時がやって来ると、雌花は、自分が育った水底の泥からその花柄の長い螺旋を解き、川面に顔を出して花開く。すると、隣の株から、今度は、陽光の射す波を通して雌花の存在を察知した雄花が、いくつも、生まれ故郷の闇の遥か上方、不思議の世界で揺れながら、自分たちを待ち、自分たちを呼んでいる雌花の方へと、希望に溢れて上がってゆく。
 
そう言えば、この本、著者は誰だったろう?
見れば、「メーテルリンク」と書いてある。
え? メーテルリンクってあの? 『青い鳥』の作者の?
確認すれば、「あの」メーテルリンクだった。
“メーテルリンク”と言えば、その紹介が、
音楽辞典に載っているほど、わが音楽界とは密な存在である。
 
―メーテルリンク Maurice Maeterlinck(1862-1949)
ベルギーの劇作家、思想家。パリに出て象徴主義の詩人たちと交わる。劇作《マレーヌ姫》(1989)でシェイクスピアの再来と激賞され有名になった。若くして死や霊魂の問題に興味を持ち、彼の劇作品は神秘的な雰囲気のうちに終始するようになった。《ペレアスとメリザンド》(1892)や《青い鳥》(1908)などはその代表である。
 
 
メーテルリンクといえば、やはり《ペレアスとメリザンド》だろうか。
この戯曲には、多くの作曲家が曲を書いている。
フォーレ、ドビュッシー、シェーンベルク、シベリウス…、すごい!
 
ヴァイオリン弾き的には、フォーレのペレアスが一番近い?
《フォーレのシシリエンヌ》―「知ってる!」そう、この曲は、
フォーレが、ペレアスの劇付随音楽を管弦楽用組曲(op.80)にしたときに、
以前 (未完となった《町人貴族》のために) 書いた曲を差し込んだのだが、
チェロとピアノの作品(op.78)としても出版していて(ややこしい…)、
とにかく、ヴァイオリンでも演奏することが多い曲。
 
―《ペレアスとメリザンド Pelléas et Mélisande》
 テキストはフランス語。1892年にブリュッセルで出版。1893年パリ初演。
 主な登場人物は、アルモンド国王アルケル、その孫ゴローとペレアス、
 ゴローの后となったメリザンド。筋としては、よくある不義密通の話である。
 
フォーレ《Pelléas et Mélisande》1898
 劇付随音楽は、ロンドン公演のために書かれたもの。その中から、
 『前奏曲』『糸を紡ぐ女』『メリザンドの死』を選んで管弦楽用の組曲とした。
 その後、さらに『シシリエンヌ』『メリザンドの歌』の2曲を加える。
 
ドビュッシー《Pelléas et Mélisande》1893-1902
 ドビュッシーが自身で完成させた唯一のオペラ。
 1893年に着手されるが、初演まで10年掛かっている。後に、
 「この曲によって音楽における世紀末様式が確立された」と評される。
 
シェーンベルク 交響詩《Pelleas und Melisande》op.5 1902-03
 シェーンベルクが作曲した、唯一の交響詩。
 無調時代に入る以前の作品で、後期ロマン派風。
 
シベリウス《Pelléas et Mélisande》1905
 劇付随音楽がヘルシンキでの上演のために書かれた。今日では、
 上演後に書かれた《管弦楽組曲op.46》の方が演奏されることが多い。
 
どの曲も、幻想的で美しい。
同じ題材、どこか似ていて、でも違う、そこも面白い。
でも、個人的には、ドビュッシーかなぁ。
 
 
ドビュッシーのオペラ《ペレアスとメリザンド》
 
(第一幕)男寡の王太子ゴローは、日暮れの森の中で道に迷ううちに、泉のほとりで長い髪の美しい女性が泣いているのを見つける。名はメリザンド、遠くから来たこと、冠を水の中に落としたこと、それ以外は分からない。6ヶ月後、メリザンドを妻としたことを認めてほしいと城に手紙を送り、それを許されたゴローは、彼女を連れて城に戻る。そこで、メリザンドはゴローの異父弟で若き王子ペレアスと知り合う。
 
(第二幕)ペレアスがメリザンドを〈盲目の泉〉に案内する。彼女は話しながら夫から貰った結婚指輪を弄び、そのうち、それを泉の底へ落としてしまう。その晩、落馬して負傷したゴローを看病するメリザンドは、急に「ここにいたくない」と泣き出す。慰めるゴローは、その手に結婚指輪が無い事に気付き、激怒。「洞窟に落とした」と嘘をつく彼女に、ペレアスを連れて探しに行けと命令する。
 
(第三幕)星明りの夜、塔の上の部屋でメリザンドが《三人の盲いた王女》を歌いながら髪を梳かしているとペレアスがやってくる。ペレアスに請われ、彼女が身を乗り出すと、長く美しい金髪が塔の下まで垂れ下がる。彼はその髪と戯れ、愛の言葉を囁く。そこにゴローが現れ、子どもじみたことをするなと二人を叱る。ゴローは、ペレアスを城の地下の深い洞窟に連れて行き、メリザンドは母になるのだから、もう彼女にかまうなと忠告する。
 
(第四幕)アルケル王がメリザンドと話していると、嫉妬に駆られたゴローが現れ、髪を引きずり回して彼女を激しく罵る。ゴローは部屋を出て行くが、メリザンドは「私はもう愛されていない」と王に言う。その夜、「明日旅に出るから会ってほしい」とのペレアス頼みに応え、メリザンドは〈盲目の泉〉に向かう。メリザンドに「愛している」と告げるペレアス、「私も好き」と答えるメリザンド。そこに忍び寄ったゴローがペレアスを刺す。ペレアスは泉の縁に倒れ、メリザンドは逃げて行く。
 
(第五幕)メリザンドは小さな赤子を産み、瀕死の状態である。ゴローは後悔しつつも、ペレアスとの関係を重ねて問わずにはいられない。否定するメリザンド。やがて彼女は静かに息を引き取る。慟哭するゴローにアルケル王は言う「そなたが悪いのではない…あれは、ほんとに物静かで、控えめで、無口な、はかない生きものだった…みんなと同様に謎めいた、あわれなはかない生きものだった(中略)…今度は、このかわいそうな小さなものの生きてゆく番なのだよ…」(一同無言のまま退場) 
 
筋だけ書き出せば、ただの三角関係の恋愛ものと言える。
でも、なぜだろう? 読後感はまったく違う。
それぞれが、それぞれの思いを、それぞれの言い回しで、ちゃんと口にしているのに、
「ここにない」ものばかり気になって、まったく頭の中に入ってこない。
戯曲を、台本を読み終え、胸の内に残るのはモヤモヤばかりである。
 
 
メリザンドって何者なのだろう? なんというか、そこからだ。
男性を翻弄するも、本人の心ここに在らず。振り回すだけ振り回して、
最後は「好いとこ取り」なのかと思えば、自分の命も失ってしまう。
 
ドビュッシーが削除したことで一部に不評を買った、戯曲の第一幕第一場、
〈城の門〉の場面にヒントがあるのかもしれない。思わせ振りなその場面では、
日の昇る頃、祝宴の準備にと女中たちが門の敷居を洗っている。
「水を運んで!水を運んで!」「さあ、水を流せ、ありったけの水を!」
それじゃあ、門はビチャビチャ、足元はぐっしょりだ。
 
彼女を、「水の精あるいはそれに類するもの」とする説がある。
なるほど。そう言われれば、いつも、そこに“水”がある。
冠は森の泉で無くし、指輪も盲目の泉で落とし、ペレアスも泉のそばで失う。
メリザンドの持つ水の属性…浄化、純粋性、非現実性、官能性、
そして死と再生を司る母性(=物語は夜明けで始まり、落日で終わる)。うむ。
 
それにしても、スッキリしない。これが、G.モローの言う、
「物質的な、明確な現実世界を越えて、煙のように霞む夢想の世界を求め、現実世界の周囲に思索の香を焚き、現実を薄明の光に溶け込ませようとする欲求」から来るものなのだろうか?
 
改めて『青い鳥』の原作も読み直してみるが、幼少時のイメージとは違って、
「青い鳥は君のそばにいるよ」的な、分かり易い話ではない。
 
彼の作品には盲いた者もよく登場する。
…見えないこと。…見えないもの。
 
そんなメーテルリンクの世界を、ドビュッシーはどう表現したのか。
「フランス語の抑揚の変化がそのままピッチとリズムの変化に置き換えられているため、歌うというより語るような旋律となっており、伝統的な意味での旋律的な要素は目立たなくなっている」
切れ目なく続くメロディ、強烈な印象を残すアリアもレチタティーヴォもなく、
場面場面は〈間奏曲〉で結ばれ、まるでそこは音で充たされた深い泉、
聴き手はその中で揺蕩っているような、そんな感覚に陥る。
 
R.シュトラウス―「そこには何もない…音楽がない…脈絡がないのだ…音楽的なフレーズもなければ展開もないのだ」
ポール・デュカス―「ベテランの批評家たちは、そこになんら音楽がなかったなどと言及しているが、実は反対にそこには音楽しかなかったのだ」
 
 
さて、セキショウモに話を戻そう。
この地味な水草の婚礼は、その後、どうなったのだろう?
 
しかし、途半ば、のんきな許嫁のもとにまだ到達できないうちに、その短すぎる茎が、突然雄花を引きとめる。雄花は生命の糧を与えてくれていた絆を敢然と断ち切り、花柄から身を引き離し、比類なき躍動を持って、水の面を突き破るのである。死ぬほど傷ついて、しかし、晴れやかに輝き、自由になって、雄花は愛するものの傍らに一瞬漂い、花粉を投げかける。受粉が成し遂げられると、その後は、身を犠牲にしたものたちはすっかり気力も失せて、ただ死に赴くばかりであるが、すでに母となった結婚相手の方は、犠牲者の最後の吐息の息づく花冠を閉じ、螺旋を巻いてふたたび深みに下りてゆき、そこで命を懸けた結合の実りを成熟させるのである。~メーテルリンク著『ガラス蜘蛛』高尾歩訳 工作舎
 
螺旋を解き、水中を上りゆく雌花の姿は、妖しい誘いのようにも見えなくはない。
でも、雌花が見ているのは“光”だ。悲しいことに、雄花ではない。
その姿に恋い焦がれ、追わずにはいられない雄花。それにしても、
「丈が足りない」って、進化の仕方、間違えたとしか思えない。
自らを、その生命の源から切り離し、後は漂って消えてゆくのみ、なんて。
 
しかし。あれ? これはまさに、ペレアスとメリザンド?
 
ところで、日本では、その昔、 
蜘蛛は水界の霊、水上の使者と信じられていたそうだ。
水蜘蛛伝説・民話も全国にあるとか。その多くが、
蜘蛛(ときに美女)によって、男の人が淵や滝に引き込まれそうになる話。
男性諸君、水辺で美女に出会ったら、どうか、お気を付けて。
 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第91回あれも愛、これも愛、たぶん愛、きっと愛、

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