20XX年、常日頃のヴァイオリン族の驕り高ぶった振る舞いに、
  業を煮やしたヴィオラ&チェロ連合は、ついに反旗を翻した。
  反乱軍は、現在のヴァイオリン族繁栄の原点となった人物を、
  過去に遡り、歴史から抹消せんと、その人物の選定を始める。
  「誰を消せばよいのだ?」
  「ヨーゼフ・ヨアヒムではないかと」
  「すぐさま、やれ」
  「御意!」
 
ヨアヒムって、だぁれ?
「知ってるよ、有名なヴァイオリニストだよね」
「あれ、教育者じゃなかった?」
「ブラームスのヴァイオリン協奏曲のカデンツ書いた人だろ」
「そうなの? なんとなく名前は聞いたことあるんだけど…」
 
ヴィオッティ以降、近代的奏法が確立されたヴァイオリンは、
その後の教育環境、指導法、技術書や指導書の充実も相俟って、
18世紀〜19世紀、華麗なるヴィルトゥオーゾの時代を迎える。
 
名ヴァイオリニストたちの存在にインスパイアされ、
作曲家たちは、挙ってヴァイオリン曲を書き、結果、
ヴァイオリンは、他の楽器が羨むほど多くの楽曲を得ることとなる。
有名なヴァイオリン曲の傍らには、大抵、ヴァイオリニストの姿がある。
 
作曲家と密な関係にあったヴァイオリニストたちは、
ときには技術的な助言をし、ときには初演を請け負い、
楽曲の、作曲家の、ヴァイオリンの魅力を、十二分に世間に伝えた。
 
麗しき、作曲家とヴァイオリニストとの友情。
例えば、ベートーヴェンとフランツ・クレメント、
例えば、メンデルスゾーンとフェルディナント・ダーフィト、
例えば、ブラームスとヨーゼフ・ヨアヒム、
 
そう、そのヨアヒム。ただものではない。
 
 
—ヨーゼフ・ヨアヒム Joseph Joachim(1831-1907)
1831年、ハンガリー王国領キトゥゼーという村で生まれる。
1833年、ブダペストへ移り、5歳でヴァイオリンを始める。
1839年、ウィーンに行き、G.ヘルメスベルガーに師事。
1841年、ボウイングを矯正するために、ウィーン音楽院ベーム門下に入る。
1843年、ライプツィヒに赴き、メンデルスゾーンのもとで学ぶ。同年8月、メンデル
スゾーンの伴奏でライプツィヒ・デビューを飾る。
1844年5月、ロンドン、フィルハーモニック・ソサエティのコンサートで、ベートー
ヴェンの《ヴァイオリン協奏曲》をメンデルスゾーン指揮で演奏。
1848年から二年間ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団に在籍、ゲヴァントハウ
ス弦楽四重奏団で第2ヴァイオリンも担当。
1850年、リストに招かれワイマールに移り、宮廷オーケストラのコンサートマスター
に就任。
1853年、ゲオルグ5世に招かれ、ハノーファーに移り、ここで15年間暮らす。
1859年、ブラームスの《ピアノ協奏曲第1番》をヨアヒム指揮、作曲者のピアノで初
演。
1863年、アマーリエ・ヴァイスと結婚。(1884年離婚)
1868年、ベルリン高等音楽学校初代校長として招聘される。
1869年、ヨアヒム弦楽四重奏団を結成。多彩なレパートリーを手に各地で演奏。
1882年、ベルリン・フィルハーモニーが創設され、その財産支援をする。
1907年、5月まで演奏活動を続けるが、その後体調を崩し8月15日にベルリンで死亡。
 
ヨアヒムの功績をまとめると、こうだ。
 
「高度に洗練された知的な演奏」(メンデルスゾーン評)をし、
名人芸を芸術的感覚と結び付け、その感覚を奏者達の演奏生活に組み込ませた。
 
それまで、コンサートでは演奏されることの少なかったバッハの、
《無伴奏ソナタとパルティータ》を演奏会のレパートリーに取り入れた。
同様に、タルティーニ、モーツァルト、ヴィオッティなども頻繁に演奏。
埋もれかけていたベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲を復活させた。
 
指導者としては、(その能力に問題ありとする発言もあるが)、
ベルリン高等音楽学校初代校長として、レッスンに多くの時間を割き、
経済的援助も惜しまず、数多くの演奏家を育て上げた。
その中にはアウアー、フレッシュー、ブルメスターなどがいる。
 
四重奏団を結成して各地で演奏、“室内楽”を「聴衆を集めうるジャンル」にした。
作曲家としても力量を見せ、当時はそう世間に認知されていた。
指揮者としては、「ビューローと並ぶ」と評する者がいる位の腕前だった。
創設間もないベルリン・フィルを財政支援し、今日の地位に至る礎作りに参画。
 
 
閑話休題。ここでちょっと、馴染みのクイズ。
Q. 『三大ヴァイオリン協奏曲』は?
A. ベートーヴェン、メンデルスゾーン、ブラームス
 (チャイコフスキーを足して『四大ヴァイオリン協奏曲』)
 
これをどう考えるか、という問題はさておき、この
『三大ヴァイオリン協奏曲』すべてにヨアヒムが関わっているという事実がある。
 
—ベートーヴェン《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61》1806年
友人のクレメントの助言を容れて作曲され、草稿は彼に捧げられている。
1808年の出版に際しては、親友シュテファン・フォン・ブロイニングに献呈される。
クレメントの初演は、聴衆の大喝采で幕を閉じたのだが、
なぜか、その後、この曲の存在はひどく薄いものになる。
そんなこの曲の運命を変えたのが、12歳11ヶ月のヨアヒム少年。
1844年にメンデルスゾーンの指揮によりロンドンで演奏、この演奏によって、
ヨアヒム自身だけにではなく、曲にも圧倒的な地位と知名度を与えたのである。
 
—メンデルスゾーン《ヴァイオリン協奏曲 ホ短調 作品64》1844年
作曲者が常任指揮を務めていたライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団、
そのコンサートマスターで友人のダーフィトのため書いたヴァイオリン協奏曲。
技術的な助言をダーフィトから受けながら作曲は進められ、6年掛けて完成。
初演は1845年、もちろんダーフィトがソロを弾いた。
この協奏曲を書く直前に聴いた、ヨアヒムの演奏に感銘を受けた作曲者は、
自分の曲に「輝かしく響くE線の音をたくさん足した」と書き残している。
「16歳の時、幸運にも作曲家自身のピアノ伴奏で何度も演奏する機会があり、彼の考
えを身近で知ることができた。彼は時々、演奏にチェックを入れてくれた」(ヨアヒ
ム言)
 
—ブラームス《ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77》1878年
ブラームスとヨアヒムとの出会いは1853年に遡る。その後の、
二歳違いの二人の付き合いは中断こそあれ、長く、深いものとなった。
ブラームスは、この曲の作曲に際して、『ヴァイオリン奏者ヨアヒム』
そして、『作曲家ヨアヒム』にも批評を求め、アドバイスを受けた。
「その作業は『共作』に近いものだった」…そうかもしれない。
面白いのは、手がそれほど大きくなかったヨアヒムが、
10度などの重音の多用に懸念を示したのに対し、ブラームスが却下している点。
写真で見る、どちらも頑固そうで、気難しそうな風貌、
「こんなの弾けないよ」「いや、弾いてもらう」…その光景が目に浮かぶようだ。
もちろん、初演はヨアヒム。献呈もヨアヒムに。
 
 
驚くべきことに、
ヨアヒムの『ヴァイオリン協奏曲ジャンル』への寄与は、これだけではない。
 
—ブルッフ《ヴァイオリン協奏曲 第1番 ト短調 作品26》1866-1868年
ブルッフが書いた3曲のヴァイオリン協奏曲のうち、この最も有名な1番、
そして3番はヨアヒムに、2番はサラサーテに献呈されている。
1866年に完成した第1番は、ブルッフ指揮ケーニフィスレーヴの独奏により初演。
演奏は好評だったのだが、ブルッフは思うところがあったのか、
この後、友人ヨアヒムに多くの助言を求めて、大規模な改訂を始める。
1868年、ヨアヒムの独奏、作曲者の指揮によって最終版の初演が行なわれた。
 
—シューマン《ヴァイオリン協奏曲 ニ短調》1853年
ヨアヒムと親交があったシューマンは、彼の求めに応じて、
《(ヴァイオリンと管弦楽のための)幻想曲 ハ長調 作品131》を作曲。
ヨアヒムのベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の演奏に感動したこと、
先の曲が好評だったことなどが、引き金になって、シューマンは、
心身とも厳しい状況の中、本格的なヴァイオリン協奏曲の作曲を決意、
僅かな期間で書き上げ、ヨアヒムに曲を送って助言を請う。
シューマンが、ライン川に身投げをする前年の話である。
 
ヨアヒムがその草稿を手にしたにもかかわらず、曲は公の場に出ることなく、
何十年も、ベルリンのプロイセン国立図書館で眠り続けることとなる。
クララとヨアヒムがこの曲を封印したと言われる、その理由については、
病んだ精神が投影されているからとか、身投げ直前に書かれたピアノ曲『天使の主題
による変奏曲』と部分的に酷似しているからとか、ソロ・ヴァイオリンが大変な割に
は演奏効果が上がらない曲だからとか、
様々な憶測が為されている。実際に聞く限りでは…。
 
ちなみに、初演は、作曲されて84年後の1937年。
ヨアヒムの親戚筋に当たるヴァイオリニスト、イェリー・ダラーニ(1893-1966)が、
降霊術でこの曲の存在を知り、探し当てたのだという話もあり、また、
初演に際しては、ナチス政権下の時代にあって、
楽譜を手に入れたメニューインがアメリカで初演をする、と報じられると、
「ドイツ人作曲家の初演演奏はドイツ人によってされるべき」とナチ政府がこれを妨害、
11月26日、クーレンカンプのヴァイオリン、ベーム指揮ベルリン・フィルハーモニー
管弦楽団でコンサートが行なわれ世界に短波放送で流したという経緯もあり、またまた、
このときクーレンカンプが、ソロの一部を書き換えたり、カットしたりして演奏した
ため、その後アメリカで完全版を演奏したメニューヒンが「この演奏こそが、真の意
味での世界初演である」と宣言したという話もあり、…それやこれやで、
艱難辛苦を乗り越え世に出た、シューマンの《ヴァイオリン協奏曲》なのである。
 
—ドヴォルザーク《ヴァイオリン協奏曲 イ短調 作品53 B.108》1879年
ドヴォルザークの室内楽を高く評価したヨアヒムは、
ヴァイオリン協奏曲の作曲を、ドヴォルザークに勧める。
1879年、故郷のチェコですぐさま作曲に着手したドヴォルザークは、
2ヶ月あまりで第1稿を書き上げ、すぐさまヨアヒムの意見を求める。
翌年5月に第2稿完成。ヨアヒムに献呈された。
「心からの尊敬の念を持って、偉大な巨匠ヨーゼフ・ヨアヒムへ」の献辞と共に。
11月にはベルリンで、ヨアヒムのヴァイオリンによってリハーサルが行なわれる。
しかし、ヨアヒムがこの曲を公の場で演奏することはなく、
初演は1883年、ドヴォルザークを崇拝するチェコのヴァイオリニスト、
オンドジーチェク(1857-1922)により、プラハで行なわれた。
ヨアヒムはこの作品を一度も演奏しなかったという。なぜ?
 
 
ときに、つれない仕打ちもしているが、
こうして見てくると、ヨアヒム、
クラシック界の発展全般に貢献していると言って、過言ではない。
彼を抹殺して消え去るのは、『ヴァイオリン族』だけではないのだ。
 
今、手元にあるヨアヒムの演奏を聴けば、
後の素晴らしき名ヴァイオリニスト達の演奏を知っている耳には、
「その中の一人」にしか、聞こえない。(ごめんなさい…)
 
しかし。
 
「ちっ。そうか。ヨアヒムの存在さえなければ、
 あの曲も、この曲も、その曲も生まれなかったんだ。
 あいつさえ、いなければ、俺の曲が、俺の曲が、
 もっともっとコンサートで演奏されていたはずなんだ。畜生っ」
 
草葉の陰から、こんな声が聞こえてくる。
 
やはり、ヨアヒムの生命が危ない。
 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第89回 ヨアヒムを救え!

© 2014 by アッコルド出版