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ずっと会いたくて、ずっと会えずにいたピアニストの友人が、
近隣の会場で演奏するというので、駆けつける。
五年ぶり? いや、十年近くになるだろうか?
その姿は、全然、変わらない。
不義理をしていたのに、向けられた笑顔も変わらない。
演奏は深みを増していて、会えなかったこの数年間、
彼女が、子育てに心砕きながらも、ピアニストとして、
大切に時間を生きていたことが分かる。ちょっと胸が熱くなる。
といっても、メインは北欧の国々のお話。演奏は彩り程度。
旅のレクチャーも楽しかったし、知っていて行ったので文句はないが、
でも、もう少し聞きたかった。できれば、ちゃんとした環境で。
なにしろ、会場は多目的室、なので音響は今ひとつふたつ。
取って付けたような台の上に乗せられていたのはアップライトピアノ、
それがまた、驚くほど、ひどい状態の楽器。
たまに、こうしたピアノに出会う。悲しくなるピアノに。
“調律”の個性や、良し悪しが分かるほどの耳ではないから、
厳しいことをいうつもりは、さらさらないのだが、
こういうボロボロになった飼い殺しのピアノに出会うと、
その所有者に、少しばかり文句を言いたくなる。
こんな会場の担当者に限って、言うのだ。
「“調律”どうしますか? 別料金ですが」なんて。
ピアニストが『自身の好みの調律』のために調律師を頼むor連れてくる、
そしてその料金を支払う、それはそういうものだろうと思う。だが、
ピアノがピアノらしくあるための最低のライン、それは、
ピアノの所有者がキープすべきものでは?と思うのだが、違うだろうか。
☆
それにしても、件の会場のピアノ、本当にひどかった。
良く言って古い壊れかけのオルゴール、悪く言えば場末のキャバレーのピアノ。
いや、もっと、ひどい?
あまりの凄まじさに、なぜかニヤニヤしてしまう自分がそこにいて。
耳にしたことない音程の「ピアノ風の音」に包まれ、
普段は現われることのない、形にならない不思議なものたちが、
次から次へと頭の中に浮かんでは消えして、段々楽しくなってくる。
度を過ぎると、「不快」は「快」になる?(笑)
歌の伴奏を弾き始めた彼女の後姿を見ながら、少し心配する。
小品数曲とはいえ、この後弾く曲はシベリウスだったりするのだ。
我々が「セットで1万円のヴァイオリン」で弾くような、最悪の状況。
彼女、大丈夫だろうか…。
それは杞憂だった。ちゃんと、シベリウスだった。
そう言うと、シベリウスは怒ってしまうかもしれないけれど。
でも、それはシベリウスだったし、素敵な演奏だった。
考える。どうして?
どう弾いても、出る“音”はボワンボワン。しかも“音程”はない。
ピアノ最大の武器である“音量(差)”もなく、コントロールも効いていない。
『音楽』から『音色』『音程』『音量』を引いて、
そこには、一体、“何”が残るのか?
両翼片脚をもぎ取られた彼女は、どんな魔法を使って、
かの曲を、シベリウスらしく弾き切ったのだろう?
我々聴き手を、笑顔にすることができたのだろう?
彼女は演奏する姿も美しい。腕や身体の動きそのものが音楽だ。
視覚? それに惑わされているのではと目を瞑って聴いてみるが、
…違う。やはり、音楽そのものに何かある。
気付く。ああ、“アゴーギク”だ。
それが、彼女にわずかに残された武器。
演奏家の“凄さ”を見た。「演奏者魂」が刺激される。
我が家にある『通販ヴァイオリン』を、引っ張り出す。
この楽器で、自分は何ができるだろう? さあ、挑戦だ。
☆
ヴァイオリンを持って間もない人たちに、〈アゴーギク〉の話をすると、
「〈アゴーギク〉って何ですか?」と聞き返されることが少なくない。
「〈デュナーミク〉って何ですか?」と聞かれることはまずないから、
ちょっと、〈アゴーギク〉が可哀想になる。
― Agogik(独) agogics(英) agogique(仏) agogica(伊)
緩急法。速度法。微妙な速度変化によって表情を与える方法。
1884年、フーゴー・リーマンによって導入されたデュナーミク(強弱法)と対をなす概念。
〈Agogik〉という語は、リーマンによる造語。
「アゴーギグ」と書かれることもあるが原語の語尾はkなので「グ」とするのは誤り。
ちなみに、リーマンはドイツの音楽理論家である。
―フーゴー・リーマン(Karl Wilhelm Julius Hugo Riemann 1849-1919)
19世紀における最も優れた音楽学者の一人。ベルリンで法律や哲学、歴史を学び、その後ライプツィヒで和声や作曲、ピアノを学んだ。指揮者として数年活動した後、ドイツ各地の音楽大学や音楽院で教師を務める。音楽に関する著書、『音楽事典 Musik-Lexikon』『和声学の手引き Handbuch der Harmonielehre』『対位法教本 Lehrbuch des Contrapunkts』などによって世界的な名声を得る。彼の生徒には作曲家のマックス・レーガー、同じく作曲家で音楽ジャーナリストのワルター・ニーマンらがいる。
つまり、〈アゴーギク〉という言葉自体は、比較的新しいものだと。
「〈アゴーギク〉が演奏や作曲で重要な意味を持つようになったのはベートーヴェン以降のことで、ロマン派の音楽では非常に重要なものとなった」…こんな記述もあるが、
音楽とその演奏における“速さの変化”そのものは、
音楽が生まれたときから、自然に、共にあったものだ。
『アゴーギクに関連する楽語』として紹介されるものを見れば、
我々ヴァイオリン弾きにも、なじみ深いものばかりである。
例えば、「meno mosso」「più animato」の「meno」や「più」。
例えば、「accelerando」「stringendo」「ritardando」「rallentando」。
例えば、デュナーミク変化を伴っての「calando」「morendo」「smorzando」。
拍子の動きを一時的に停止する「フェルマータfermata」もこれに含まれる。
「なぁんだ、そういうことか」「それなら知ってる!」
でしょう? 〈アゴーギク〉覚えてあげてね!
☆
指定されずとも、人ならば誰でも自然にそうなる『揺れ』がある。
指定されずとも、人ならば誰でもそうしたくなる『伸び縮み』もある。
カラオケで歌っていて、カラオケに「置いて行かれた」と感じたこと、ない?
(「リズム音痴は別だよね?」…ごめんなさい。別です。)
演奏家≠作曲家の時代になれば、意に沿わない演奏をされたくない作曲家が、
自分の意図をより厳密に演奏に反映させたいと思う作曲家が、
まめに、アゴーギク関連用語を書き込むようになったという事実はある。
〈アゴーギク〉は、〈ディナーミク〉と同じく、
どうするかの指定はあっても、その度合いは大抵、演奏者の裁量に任されている。
ただ、〈デュナーミク〉と違うのは、その変化の付け方次第で、
大きく音価を損ねることもあり、パルスや拍、テンポやリズム、
ひいては、音楽そのものを崩してしまう可能性があるということだ。
そういう意味では、〈アゴーギク〉は〈デュナーミク〉に比べ、
薬効高くとも毒素が強い手法、と言えるかもしれない。
濫用はもちろん、「揺らぎ」や「伸び縮み」の幅にも十分な注意が必要だと。
指定はしないから自由に弾いて、という“指定”もある。
senza tempo:「自由なテンポで(等速でなく)」
tempo rubato:「(音符の歴時を短くしたり伸ばしたり)自由に」
ad libitum(ad lib.):「自由に」「随意に」
この三つの楽語は、微妙に意味が違う。
『senza tempo』は、「テンポ」を自由にしていいという意。
『ad lib.』は、「奏法や表現の一切」を演奏者の自由な発想に任せるときに使う。
『tempo rubato』は、主に「音価(歴時)」を自由に変化させて表情を付けることを言う。
「rubatoには『盗まれた』の意があり…」という文言をよく見る。
ん?と思うのだが、“tempo=時間”だと知れば、何となく分かる。
こんな文もあった。「テンポ・ルバートとは『時間の貸し借りのこと』」
なるほど。我々が学んだ“±0(プラスマイナスゼロ)の法則”を思い出す。
=一定の時間内で(その時間枠を伸び縮みさせることなく)自由に揺り動かす。
盗まれた時間は取り戻せ、盗んだ時間は返せ、ということだろう。
☆
こんな楽語もある。
a piacere:「自由に」「気ままに」(piacereは「意志」)
a capriccio:「自由に」「気ままに」(capriccioは「気まぐれ」)
どれだけ勝手に弾きたいんだ!という気もするが、
奏者の我儘気儘に対する予防策も、ちゃんと為されている。
tempo giusto:「正確な速さで」「テンポを揺らさずに」
in tempo:「(正確な)テンポで」=(テンポを変化させたくなる部分で)テンポを変えないように注意喚起する指示語。
a tempo:「もとの速さで」「前の速さで」=tempo rubato などで部分的に変化させていたテンポを、その直前の(正確な)テンポに戻すこと。曲頭のテンポと一致しないことも多い。
tempo primo(tempoⅠ):「はじめ(曲頭)と同じテンポで」
ただただ楽譜再生にばかり腐心し、“遊び心”どころか、
自然な緩急すら付けられず苦労していた時代にあっては、
「自由に」「好きなように」と言われることが、一番怖かった。
部分的なものは、小手先の技術で一瞬誤魔化せたとしても、
《タイスの瞑想曲》や《美しきロスマリン》《ユーモレスク》《亜麻色の髪の乙女》…
情緒たっぷり、遊び心満載の楽曲たちを弾く段になると、もうどうにもならない。
自由って何なんだぁっ! 何度、心の内で叫んだことか。
自分の感情を素直に認める。心の声にじっと耳を傾ける。
内側から湧き出てくるものに蓋をしない。心を閉ざさない。
どうしてだろう…自身のことなのに、意外に難しい。
その上、それを“表現”しなければならない。
楽器という道具と一体化して。そして、
自身の「身の拡がり」のうちに、聴き手を迎え入れねばならない。
ううむ。
☆
オーケストラにおいては、アゴーギクの大筋は指揮者に任される。
文字通り、他人の思いに「振り」回される訳だが、
これが、実は、かなり面白い。
オーケストラプレーヤーの醍醐味とも言えるかもしれない。
ときに、アマチュアオーケストラで、信頼を勝ち得た指揮者が、
非常に挑発的な、強引とも思えるアゴーギクを要求することがある。
それは、その場でしかできない無謀なものでもあったりもするが、
試しにと一緒に弾いてみれば、それはまるで絶叫マシンに乗っているかのよう、
これってどう?!いいの?!大丈夫なの!と思いつつも、なんだか楽しく、
かなりのラインまで許容できる自分を発見して、驚いたりもする。
若手指揮者たちの挑戦も悪くない。
考えてみれば、ピアニストは、
ヴァイオリン弾きが思う“両翼”を持っていない。
例えば、ヴァイオリンは、同じ音高の「A(アー)」を、
A線&D線&G線で出すことができる=“違う音色”の音を持っている。
ピアノは持っていない。
例えば、ヴァイオリンは、同じ「A(アー)」の音に、
聴き手が「A」だと認識する限りの“音高の幅”を持っている。
ピアノは持っていない。
“音色”と“音程”作りをするのは“調律師”。
それは、自身ではどうにもしようがない。そして、
いつも、「そこ」にあるピアノで弾かなければならない。
そういう楽器を選び、自ら宿命を背負った“ピアニスト”
ピアノが気に入らないと演奏会を止めて帰る。
業者に頼んで自分のピアノを持ち運ぶ。
自分だけの調律師を連れ歩く。
…そんなピアニストの気持ちが、少しだけ分かるような気がする。
簡単に持ち運べるピアノを自分で作るか。
調律を自身でできるようにするか。
会場に入ると、まずピアノに向かい、
挨拶をするようにそっと鍵盤に触れ、何か語り合っている、
声を掛けることも躊躇うような、そんなピアニストの背中を見ながら、
申し訳なくも、つい、
無理な二択で迫りたくなる、性悪なヴァイオリン弾きである。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第88回 ピアノは哭き、ピアニストは戦う。
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