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過去』の魅力

「演奏に要求される技術を完全に忘れるほど楽曲の音楽と叙情を、時間をかけて忍耐強く、かしこく、そして細かく勉強して吸収することが必須である。我を忘れて弾くのだ。言い換えれば、別の己(高められた存在)が弾き、神は私たちの中に入り、私たちを導き、私たちに我らの真の姿を啓示するのである。」※①
冒頭の言葉は、ベルギーの巨匠ヴァイオリニスト兼作曲家、ウジェーヌ・イザイ(Eugène Ysaÿe, 1858 – 1931)がユーリトミクス(eurhythmics)の産みの親であるジャック=ダルクローズ(Émile Jaques-Dalcroze, 1865 – 1950)に伝えた、音楽を解釈する演奏者としての信念を表した言葉である。
 
19世紀後期から20世紀初期にかけてヴァイオリン奏法に最も影響を及ぼしたと言っても過言ではないイザイはヴァイオリン奏者としてのみならず、作曲家として、そして音楽界のリーダーとして音楽の発展を包括的に促進させた芸術家だ。芸術運動などにも関わり、彼はヴァイオリンを相棒に音楽のみが伝えられる人間の特別な「何か」を訴え続けた吟遊詩人だった。
 

メッセージ:

 

11月15日(土)と16日(日)の11時と14時に、日本ヴァイオリンのアートサロンで、4回のレクチャーと演奏に分けてイザイの無伴奏ソナタ第4番のゼミナールを行ないます。

 

それに向けて今回はレクチャーに先駆けてソナタ第4番にまつわる要素や内容を一通り紹介し、ソナタ第4番が献呈されたクライスラーとイザイの関係について少し研究したいと思います。

 

2008年の秋から廃刊になった2012年11月号までイザイについての連載記事を執筆させて頂いた「ストリング」では無伴奏ソナタを順番通りにではなく、ソナタ第5番から始め、そこから第1番と第2番に入っていったことを少し不思議に思われた読者もいらっしゃいました。

 

その理由をここでお伝えします。連載を始めた時、私はイザイのソナタ全集を解説していくにあたって必要になってくる各ソナタの背景や内容を総合的に考えてみました。更に、連載という形で長期に亘って筋のあるお話にしていくためにはどのように解説を進めたらいいかに悩みました。

 

その結果、コンサートやコンクールでは最もポピュラーなソナタ第4番、第3番や第6番より、まずは美学的に、そして内容的に、最も解説の範囲がコンパクト、そしてなおかつイザイの促進させた音楽の基礎に最も近いといえる第5番から始めたのです。そこから第1番、第2番、と背景や分析の複雑さが増していく順番で進めてきたつもりです。

 

今回は人気の高いソナタ第4番のお話に辿り着けたことをとても嬉しく思います。レクチャーの準備をしながら、ソナタ第4番が秘めている内容の広さと深さ、そしてイザイの工夫の凄さに改めて圧倒されています。この感動と興奮を早く皆様にお伝えしたい気持ちでいっぱいです。

 

レイ・イワズミ

 

 

イザイのソナタ第4番にまつわる要素

 
イザイの無伴奏ソナタ第4番には数々のレイヤー(層)が融合されている。抽象的な面を取り上げると、象徴主義と新古典主義の「美学」やドイツ語圏の文化という芸術のコンセプト的なことからクライスラー(Fritz Kreisler, 1875 – 1962)のヴァイオリニスト兼作曲家のアイデンティティ、更に、イザイやクライスラーの生きていた時代の評論家が、一般的にヴァイオリニストが作曲する行為をどう捉えていたかの把握さえ関わってくるのだ。
 
残された楽譜を頼りに、これらの背景をイザイがどのように消化し、曲の中でまとめていったか、そして20世紀初期のバロック舞曲のアプローチがどのような影響をしているかを読み取っていく研究課題がある。そして、原典版でも伝えきれない楽譜の問題がいくつもある。それは音やリズムの校訂の問題のみならず、イザイの意図を解釈するヒントが譜面のどこに秘められているかを読み取っていく問題だ。前者は拍記号とリズムがかみ合わない所やテンポ指示に疑問が残る所等ある。後者は使われているモチーフや拍記号が何を伝えようとしているかの問題や付点リズムがどんな意味を含んでいるかの解釈の問題等がある。今までは資料と知識が不足していたために確かなソリューションを出すすべがなく、長年うやむやのままにされ、しょうがなく無視されてきた根本的な問題がいくつかある。これらの課題を今回は一つずつクリアしていきたい。
 

新古典主義

 
無数の力に押し引きされながら発展して変わっていくのが文化なのだが、一種の方向性を付ける役割を持つのが芸術運動と言えよう。歴史に残る芸術運動はその時代の風潮に合ったコンセプトと表現法を上手く提示している。すなわち、芸術運動は新しい表現の可能性を約束し、人々を興奮させる力のある美学を掲げている。
 
この無伴奏ソナタ第4番は少なくとも二種類の美学を融合し、とりわけ広くて深い文化の「台」の上に立っている。イザイにとって象徴主義の影響は常に重要だろう。しかし、このソナタ第4番では新古典主義の応用も一つの焦点と考えられる。
 
絵画や建築での新古典主義(Neoclassicism)は18世紀後期から19世紀初期にかけて大きく発展した主義で、簡略にするとそれは古代ギリシャやローマの美学の復刻を追究したものだ。古代ギリシャの芸術作品の持つ美しいラインやシンメトリー、そしてはっきりとした道徳の価値観がポイントで、その美学を取り戻すべく、その視覚的な明快さ、バランス、そして聡明な心を再現しようとするところから新古典主義は始まる。視覚芸術では題材も古代ギリシャの物が多い。視覚芸術で新古典主義が一風巻き起こしていた時代の音楽にもその思考が見られる例はある。大体モーツァルトが代表するこの時代の音楽はそういう「明快さ」や「バランス」が重要な美徳と言える。
 
しかし、音楽では新古典主義は更に深い意味を持つ。例えば1783年に書かれたモーツァルトの2台ピアノのためのフーガKV426は※1モーツァルトのバッハの音楽の再発見と勉強によって書かれたものと言える。勿論、モーツァルトは古代ギリシャの音楽に目を向けている訳ではないが、コンセプト的には視覚芸術の新古典主義と似た思考だ。ちなみに、モーツァルトはこの頃を境にバロック時代の音楽の影響が明らかに出てきて、勉強と苦労の末、次第に彼の音楽の根本レベルにまで見事吸収されていったのである。
 
これから見ても音楽での新古典主義は視覚芸術での意味よりも幅広い捉え方がされる。その理由はもしかしたら「古代ギリシャの音楽の例がはっきりと残っていないから」と言えるかもしれないが、西洋音楽の軸である「調性」との互換性の問題もあるので※2、それはきっと違う。
 
話は戻り、新古典主義の一つ重要な部分は「過去の芸から見習う」というコンセプトだ。ポイントは「過去」である。そしてそのアプローチはモーツァルトのように意図的に勉強した上で自身の本来のスタイルに融合させる方法から、古典のスタイルを一つの「借り物」の「題材」として利用する方法まである。後者は例えばストラヴィンスキー(Igor Stravinsky, 1882 – 1971)の『プルチネラ』のように、バロック時代や古典時代のスタイルを自由に再解釈したものがある。少し極端に捉えれば、前者は「過去の精神」の採択であるに対し、後者は「過去の象徴」を利用した風刺の一種である。
 
ここで、更に、新古典主義には精神的な面も見られることに着目したい。絵画の場合と同様、新古典主義は、「過去」と失われた物への恋しさ、すなわちノスタルジーの感覚と感情に強く訴える美学なのだ。人間の記憶は物事を美化する傾向にある。そこで過去の断片、あるいは象徴的な表現の仕方を取り入れることで美化された過去に現在のリアリティと興奮を融合することができるのだ。この側面を考えていきながらイザイのソナタ第4番を視野に入れ、クライスラーのアイデンティティと作品の全体を含めて研究していきたい。しかし、その前に、クライスラーとイザイの人間関係を見てみよう。
 

クライスラーとイザイ

 
クライスラーとイザイは特別な友人関係にあった。そしてその関係はクライスラーがまだ駆け出しだった頃にまでさかのぼる。1899年の12月1日、同じベルリンで前日にコンサートを終えたばかりのイザイは当時24歳だったクライスラーのコンサートを聴きに行った。クライスラーの弾いたメンデルスゾーン協奏曲に感銘受けたイザイはスタンディング・オーベーションを送った。当時世界一のヴァイオリニストとして崇められていたイザイが他者のヴァイオリニストをそのような形で絶賛したということでクライスラーは大ブレイクすることができた。それまでなかなかブレイクできなかったクライスラーはその恩を一生忘れないと言う。イザイもその運命的な出会いを後にクライスラーと同世代のジャック・ティボー(Jacques Thibaud, 1880 – 1953)にこう伝えた。「クライスラーという若いヴァイオリニストがベルリンにいる。絶対に聴きに行くといい。素晴らしいんだ。自分のコンサートでベルリンに居た時に私は聴いたんだ!」※4
 
このきっかけでイザイとクライスラーは友人になった。しかし、以前からクライスラーにとってイザイは英雄だった。正式な師弟関係にはならなかったものの、クライスラーはイザイに対する特別な尊敬について何度も触れている。「私にとってのヴァイオリニストの模範はヨアヒムではなく、イザイでした。」※5とまで言った。またある時は、クライスラーのことを褒めちぎる後輩のミルシュティン(Nathan Milstein, 1904 – 1992)の意見を正すように、「私はイザイから本当に沢山のことを学んだ。」※6と残している。更に、何故イザイがそれほど特別なアーティストなのかについても意見を述べている。「イザイはメッセージを持っている。尊いメッセージだ。ただ、毎回弾く度に発するとは限らないのでよく注意していなければそれを逃してしまう。しかし、そのメッセージが放たれる時は実に素晴らしいのだ!ある水準を安定的に達し、いつどこでも変わらずに弾く芸術家は二流である。特別な一時を作れるのが巨匠だ。その瞬間を待つ価値は大いにある。」とクライスラーは語った。※7
 
この時代の世界観を私たちが肌で理解することはもう不可能だろう。ただ、当時の欧米のクラシック音楽界は演奏機会が多く、文化的なニーズが高かった。更に、演奏家が数週間から数ヶ月の時間枠である町に移り住み、そこのコミュニティーの中に入って活動したり、時間をかけて交流するのも普通のことであった。勿論、昨今では当たり前な慌ただしい旅とコンサートの連日を送ることもあったわけだが、今に比べれば20世紀初期のペースは明らかにゆったりだ。「電気」の普及と第二次産業革命でめまぐるしくペースが上がっていった時代ではあるが、それでも、それはインターネット時代に慣れてしまっている我々にとっては想像を絶するほどゆるやかな生活リズムだと考えて間違いないだろう。と同時に、特に第一次世界大戦前は音楽家の社会的地位は比較的に高く、ヨーロッパ中の皇族や貴族の影響力もまだ根強く残っていて、芸術家は言語、そして社会状勢や芸術問題に対する教養や配慮も問われる場面が多かった。
 
そういう時代背景を理解した上で、クライスラーとイザイは、本拠地は違ってもツアーなどで滞在する町が重なった時はゆったりと会う時間が作れる機会に恵まれていたと想像できる。特にクライスラーがベルギーに居る間は頻繁にイザイに会っていたそうだ。そういう時によく室内楽も楽しみ、例えば、イザイのゴディンヌ(Godinne)にあった夏の別荘では※8クライスラーやティボーを初め、チェリストのカザルス(Pablo Casals, 1876 – 1973)、ピアニストのプーニョ(Raoul Pugno, 1852 – 1914)やブゾーニ(Ferruccio Busoni, 1866 – 1924)が娯楽目的で室内楽を弾きに集まったりした。※9
 
そのような時だったのだろうか。クライスラー夫人は人間味溢れるイザイとの交友の一場面をこう語る。
 
「ウジェーヌと妻のルイーズはブリュッセルに近いムーズ川沿いのゴディンヌに夏の別荘を持っていたのです。ちょうどベルギーに滞在していたある日、私たちはイザイさんたちに会おうと思い、電報で伺う日程を送りました。
 
その小さな駅では誰も迎えに来ませんでした。きっと電報がちゃんと届かなかったのでしょう。私たちは仕方なく宿泊用の小さな荷物を担ぎながらほこりっぽい道を歩いていき、イザイ邸に付くと、ウジェーヌは釣りに出かけていることを知り、どこに行けば会えるかを教えてもらいました。
 
案の定、じりじりとした日差しの下で大きな帽子をかぶり、まどろんでいる様子のイザイがそこにいました。私たちはしばらくじっと観察しました。その間、魚は一匹も釣れていないのにも関わらず、時には糸を引き上げているのです。釣っているのは魚ではなく、川の底で冷やす目的に釣り糸で結んであったビールビンでした。」※10
 
そんな無防備な一面と時間を笑いながら共有する大事な友人にイザイは無伴奏ソナタ第4番を丹精込めて書き上げたのです。
※②
ウジェーヌと弟のテオフィール(Théophile)のカリカチュア、ベルギー王立図書館より MusMs 161-II-148
※②
 
※①
 «Il faut être si entièrement imprégné de l’idée et de l’émotion musicale d’une œuvre longtemps, patiemment, intelligemment et méticuleusement étudiée, qu’en l’interprétant on oublie complètement la technique que l’on s’est imposée. . .[sic.] On joue sans savoir ce qu’on fait. Autrement dit, c’est un autre moi (un moi supérieur) qui joue et c’est l’être universel qui nous pénètre, nous dirige et nous révèle à nous-mêmes.»
Émile Jaques-Dalcroze, Souvenirs: Notes et Critiques (Paris: Editions Victor Attinger, 1942), 51.
訳:レイ・イワズミ
※1
1788年にアダージオの楽章が付き、弦楽オーケストラのためのアダージオとフーガKV546にもなった。
 
※4
 
 “When Fritz reached Philharmonic Hall on the night of December 1, he noticed to his happy surprise that Eugène Ysaÿe, who had given a recital the day before, was in attendance. Ysaÿe was then the uncrowned king of violinists. ‘When I finished the last cadenza to the Mendelssohn Concerto,’ Kreisler reports, ‘Ysaÿe ostentatiously got up and applauded. That generous gesture put me over. I shall never forget it. Some papers then devoted three-quarter of a column to my appearance.’ Ysaÿe’s gesture was not an empty one. He really meant it. Jacques Thibaud remarked: ‘I was about eighteen years old when Ysaÿe said to me in Paris: There’s a young fiddler named Kreisler up in Berlin. You must hear him. He is marvelous. I heard him when I concertized in Berlin!’”
Louis P. Lochner, Fritz Kreisler (New York: The Macmillan Company, 1950) 60.
 
「12月1日の夜、会場に着いたクライスラーは前日にリサイタルを終えたイザイが聴衆の中にいることに気付き、嬉しく驚いた。当時、イザイは、王冠は無かったものの、ヴァイオリニストの王様だった。 『メンデルスゾーンの協奏曲の最後の終止を弾き終わった時、イザイはこれ見よがしに立ち上がり、拍手してくれた。彼の寛大な応援で私はブレイクすることができたのだ。このことは絶対に忘れない。そのお陰でいくつかの新聞は私のコンサートを後日大きく取り上げてくれた。』とクライスラーは語る。 イザイの応援の誠意は本物だった。ジャック・ティボーはこのように言う。『18歳ぐらいの頃、パリでイザイが私にこう言った。〈クライスラーという若いヴァイオリニストがベルリンにいる。絶対に聴きに行くといい。素晴らしいんだ。自分のコンサートでベルリンに居た時に聴いたんだ!〉』」 訳:レイ・イワズミ
 
※5
 
“He [Joachim] begged me to come to his classes. Maybe he wanted to win me over to his style of playing, which was so different from the French school in which I had been brought up. Even though I never became his pupil, our relations were very cordial, and I never failed, when going to Berlin, to look him up. It was Eugène Ysaÿe, however, and not Joseph Joachim, who was my idol among violinists.”
Lochner, Fritz Kreisler, 53.
 
「ヨアヒムは何度も私にレッスン参観を薦めてきました。もしかしたら、私が勉強してきたフランス流奏法とはずいぶんと違う彼の奏法に勧誘したかったのかもしれません。彼の弟子にはなりませんでしたが、良い関係を築き、ベルリンを訪れた際には必ず会うようにしていました。しかしながら、私にとってのヴァイオリニストの模範はヨアヒムではなく、イザイでした。」 訳:レイ・イワズミ
※6
 
“All artists have advanced their instrument,” Fritz Kreisler insisted. “I learned an enormous lot from Ysaÿe. We also all learned from Wieniawski and Vieuxtemps. And then there was Joachim. He must be credited with colossal advancement of the violin. He dug up things by Mozart and Bach that we would never have heard of except for him.”
Lochner, Fritz Kreisler, 368.
 
「[音楽の]芸術家は皆それぞれの楽器の進化に貢献している。」とクライスラーは念を押した。「私はイザイから本当に沢山のことを学んだ。そして私たちはヴィエニャフスキーとヴュータンからも学んでいる。それにヨアヒムもいた。ヴァイオリンの進化では彼の貢献は非常に大きい。彼がモーツァルトやバッハの作品を発掘していかなければそれらの作品に私たちは巡り会えなかっただろう。」 訳:レイ・イワズミ
※7
 
“Ysaÿe bears a message, a great message, and you must follow closely to receive it. He does not deliver it every time he plays, but when he does, it is wonderful! It is only the mediocre artist who plays the same on all occasions, striking a certain level to which he adheres without fluctuation. But the great artists have their moments. They are worth waiting for.”
Lochner, Fritz Kreisler, 61-62.
 
和訳:レイ・イワズミ
イザイ演奏と研究の権威として、
世界的に認められているヴァイオリニスト、
レイ・イワズミさんが、
11月15日(土)、16日(日)の
二日間に亘って、
イザイの無伴奏ソナタ第4番
ゼミナールを東京で行なう。
詳細はこちらから
お申し込みは、こちらから
 
このゼミナールでは、ソナタ第4番の神秘と謎を解明し、演奏と質問を交えて解説されるのであるが、それに先立ち、レイ・イワズミさんのライフ・ワークの一つであるイザイ研究の紹介を綴っていただいた。
 
世界的イザイ研究の一端を垣間見ることができよう。
(アッコルド編集部 青木日出男)

ヴァイオリニスト

レイ・イワズミ

この記事の書誌情報は以下のようにお願いします:

レイ・イワズミ(2014年11月9日)「『過去』の魅力」.アッコルド出版. [http://www.a-cordes.com/#!20141109iwazumi/c1qjq]. 20XX年XX月XX日閲覧.

あるいは

Ray Iwazumi, "'Kako' no Miryoku," à cordes, 2014-11-09 [http://www.a-cordes.com/#!20141109iwazumi/c1qjq], accessed 20XX-XX-XX.

photo: Hirohisa KOIKE

※2
もちろん、「調性」を避けた西洋音楽の楽曲もある。しかし、それらの楽曲は、「調性」を意識するがゆえ、あるいは調性の極限を探った末に「無調」に辿り着いている楽曲が殆どだろう。西洋音楽の調性の引力の強さ一つの理由は西洋音楽の音の記載方法そのものが調性を意識して作られているからと考えられる。
 
※3
 
1904年、ベルギーのヴァイオリニスト、エドゥワール・デル(Edouard Deru, 1875 – 1928)の家での集い。カメラに目を向けているクライスラーと右端にイザイ夫妻。ベルギー王立図書館より MusMs 161/42.
※3
※8
 
詳しくは「ストリング」2010年10月号『イザイの別荘(ゴディンヌ編)』を参照。
※9
 
Antoine Ysaÿe, Eugène Ysaÿe: sa vie, son œuvre, son influence (Bruxelles: Éditions L’Écran du monde, 1947) 167.
※10
 
“Eugène and his wife Louis had a summer home at Godines [sic.] on the Meuse River, near Brussels. One day when we happened to be in Belgium, we decided to look the Ysaÿes up and sent them a telegram, telling them when we’d arrive. ‘There was nobody to meet us at the little station; our telegram had somehow gone astray. So we trudged along the dusty road with our little overnight bags. At the Ysaÿe home we learned that Eugène had gone fishing; we were told where we would be likely to find him. ‘Sure enough, there he sat in the broiling sun, with a large sombrero on his head, seemingly half asleep. We watched him for quite a while. He did not catch a single fish during that time. Now and then, nevertheless, he pulled in one of his lines. It wasn’t a fish that he was hauling in – he had fastened beer bottles to this line which he kept on the bottom of the river for cooling purposes.”
Lochner, Fritz Kreisler, 62.
 
和訳:レイ・イワズミ
※11
※11
 
1911年、ゴディンヌのムーズ川の上で結婚25周年を祝うイザイ夫妻。(もしかしたら、クライスラー夫人のお話に出てくる「大きな帽子」をかぶっているのでは?)ベルギー王立図書館より MusMs 161/59.

© 2014 by アッコルド出版

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