小林道夫宅前から眺める由布岳。こんな風景を眺めながら、小林氏はチェンバロを練習している。

1983年、第9回音楽祭でブラームス弦楽六重奏第1番を演奏する福岡モーツァルトアンサンブル&元巌本真理Qの2人。この演奏の2楽章は「ゆふいん本」付録CDに収録。

2009年、第35回音楽祭の最後を飾ったのは、歴代音楽監督が弾くモーツァルトのピアノ三重奏だった。この演奏も付録CDに全曲収録される。

第7回ゆふいん音楽祭の頃の国鉄由布院駅前から眺めた由布岳。

同じく、JR九州由布院駅前から眺めた2014年の由布岳。

加藤宅にはかつて巌本真理Qが用いた弦楽四重奏の楽譜が大切に保管されている。

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先程、大分県は湯布院町内の出版委員会から連絡があり、『ゆふいん音楽祭 35年の夏』(木星舎 2014)の最初の数冊が持ち込まれたとのこと。構想から4年以上、2011年11月初旬に最初の取材を京都で始めてからまる3年、昨今の出版事情から考えればあり得ないほどゆったりしたペースで成された仕事が、やっとひとつの形を取ることになった。関係者の皆様には、この場をお借りし、あらためて感謝の気持ちをお伝えしたい。
 
21世紀初頭の現在、我々の前に流通する出版物には、大きく大別してふたつのタイプがある。ひとつは出版物そのものが商品である商業出版。どんな商品とも同じく、生産者たる出版社が諸経費を先行投資し、製品完成後の市場での売上で回収する。もうひとつは、資本主義下のシステムでは定価が付き商品として流通させられるものの、出版に至るまでのコストは事前に用意され、売上収益そのものは目的ではないタイプの出版。記念出版、自費出版、広報出版、等々、そんな出版物が世に出される理由は様々だ。
 
21世紀初頭の現在、ドキュメンタリー系の作文を独立した商業用単行本として企画するのは、純粋な商業出版としては極めて困難な状況になっている。取材や執筆に必要な時間及び経費に比べ見込める販売数が少ないため、限られた著名著者や別ルートから取材経費を調達可能な新聞や雑誌系記者を除けば、殆ど出版の可能性はない。
 
この「ゆふいん本」も、数多ある「地方イベントの広報目的の出版」と解されても仕方ないであろう。とはいえ、来年も開催されて各地からの聴衆を集める必要がある音楽祭ならともかく、既に5年前に幕を閉じたイベントについての出版物である。宣伝広報をする対象が存在しない過去のイベントのための広報宣伝出版など、あり得ようがない。
 
九州は大分、現由布市湯布院町で1975年に始まり、2009年まで35回開催された「ゆふいん音楽祭」の歴史を俯瞰し、記録を纏め、ライブで録音された演奏のいくつかを今に遺すための企画が書籍という形で現実となったのは、ひとえにひとりの人物の資金提供があったからこそなのだ。
 
 
ゆふいんという場所が日本中の、いや世界中の数多ある温泉観光地ともちょっと違っているところがあるとすれば、この場所とは何の関わりもないのにどういうわけか心を引き寄せられ、この場所のために何かをしたいと思う人を何人も創り出してきたことにあるだろう。そんな人々の中には、チェンバロ奏者の小林道夫氏のように、この場所に移り住んでしまった人すらいる。
 
木谷文弘という人物も、そんなゆふいんを愛する人のひとりだった。終戦直後に岡山で生まれた木谷氏は、大分県庁に就職し道路設置や都市計画に関わった。早期退職し木谷ムラマチ研究所を設立、ゆふいんの観光ブランドを作り上げた溝口薫平及び中谷健太郎両氏と深く交流し、『薫平さんと健太郎さんから教わったこと : 由布院まちづくり50の知恵』(自費出版 2001)、『由布院の小さな奇跡』(新潮社 2004)などの著作を発表。有名観光地由布院の第一世代の仕事を後世に伝える仕事をする。全国に流通する大手出版社の新書ということもあり、後者は現在「ゆふいんブランド」や「成功したまちおこしの事例としての由布院」について最も簡単に情報を入手し得る文献のひとつとなっている。
 
2009年1月、木谷氏は病没する。その年の8月、ゆふいん音楽祭も最後の演奏会を終えた。両者の間には何の関わりもない。そもそも、音楽祭関係者の誰もがこの年で「ゆふいん音楽祭」が終わりになるとは思っていなかったのだ。そうなるかもしれない、と感じていた人は多かったかもしれないけれど。
 
元音楽祭実行委員長だった湯布院町在住の画家、加藤昌邦氏から筆者が最初の相談を受けたのがいつのことだったか、正直、記憶にない。翌年の春頃に、これはどうも第36回の音楽祭はやれそうにないという空気が九州方面から漂ってきた頃、上京してきた加藤氏と話をするなかで、音楽祭の歴史をなんらかの形で遺せないか、という話はしたような気がする。尤も筆者のような職業の人間と酒を飲めば、そういう話が出て来るのは珍しくもない。こちらも気楽に「赤字仕事でもやらせてください」などと、何度口にしたか分かりはしない。
 
加藤氏から通称「ゆふいん本」についてのより具体的な話があったのは、2010年の秋だった。極めて簡単なことだ。「大分の木谷さんという方の遺族から、ゆふいん音楽祭と由布院映画祭に資金の提供があった。故人の遺志による献金で、音楽祭のために使われねばならない」とのこと。現在も続く映画祭なら、寄付金として有り難く頂戴し、運営費に組み込めば良い。だが、音楽祭はもうない。「ゆふいん楽友協会」は存続し、いつでも音楽祭を再開しようとすれば出来るよう備えてあるものの、木谷さんを追悼するメモリアル音楽会を開催したところで、単発で終わるイベントである。となれば、ライブ録音をCD化するなり、本を作るなり、なにか形になる方向で考えていきたいのだけれど…
 
あれやこれや、議論を重ねるうちに、最終的に「音楽祭のライブ音源を付けた、音楽祭の歴史を記録する出版物を作成する」ことに決定。資金は公益財団法人人材育成ゆふいん財団が管理し、出版委員会を組織、具体的な制作作業を行なうことになった。「音楽祭のために使う」という資金提供者木谷氏の遺志を尊び、内容はあくまでも「音楽祭」がテーマ。木谷氏自身の著作を筆頭に、相当の数の出版物が世に出ている「まちづくりのお手本としての由布院」や「地方発プロデュースの成功例」を綴る類いの内容とは一線を画する、あくまでも音楽関係出版物として流通可能なものとする、という方針も固まった。
 
3.11大震災とその後の福島原発問題で落ち着かない社会情勢の中、加藤昌邦元実行委員長、現出版委員会委員長と、東京側で編集を手伝って頂いたプロの編集者齋藤健治氏を伴い、初代音楽監督岸邉百百雄氏の京都郊外のご自宅を訪れたのは、京都郊外に秋も深まる2011年11月のことだった。2日間に及ぶ長時間インタビュー取材を以て、「ゆふいん本」制作作業が始まった。
 
筆者の個人的な事情で数ヶ月の休止期間を挟みつつ、2012年の夏頃までにほぼ取材を終える。たまたま取材で訪れたボルドーで、コンクール審査員となっていたハット・バイエルレ氏に出会え、ヴィーン留学時代の岸邉百百雄初代監督を巡る話が出来たのは幸運だった。秋から取材テープの整理作業に入る。その後、新国立劇場のガイドブック『日本のオペラ』及び『戦後のオペラ』のための作業を挟みつつ、ゆふいんの地に赴き初稿を脱稿したのが2013年7月のことである。
 
今回の作業で個人的に最も興味深かったのは、この段階での「この初稿は半年寝かせましょう」という加藤実行委員長の提案である。通常の出版では考えられない、意図的な「冷まし」期間の設定だ。これだけの間この作業から離れることがなければ、初稿の大幅改定は不可能だったかもしれない。
 
その間にも付録として書籍に封入することになった過去の音楽祭ライブ録音(あくまでも資料用に録音されたもので、商業用の使用は考えていなかった)から収録曲の選定など、出版委員会の作業は進んでいた。音楽祭史記述の間にコラムのような形で関係者諸氏のエッセイを挟む構成は、初稿を精読した結果の加藤実行委員長のアイデアである。最終的に出版を博多の出版社に託すと決まったのも、ペンディング期間中のことであった。
 
2014年冬から作業を再開、決定稿を作成する。この段階で、初稿の冒頭に置かれた音楽家たちを受け入れる湯布院町側の記述を大幅にカット、より「音楽書」としての性格が前面に出ることとなる。続いて巻末付録「ゆふいん音楽祭全データ」の作成、半年に渡り総計6回やり取りのあった校正作業を経て、やっと今日に至った次第。
 
 
あとがきと重ならない内容を記そうとしたら、なんとも味気ない報告書のような文章になってしまった。音楽祭の歴史記述部分について、少しだけ述べておこう。
 
年に数日行なわれるだけの音楽祭を記述していくなど、放っておけば曲目と演奏者の名前が並ぶだけのデータ集になってしまう。たかだか新書一冊分程度の量の記述といえ、それではとても普通の読書に耐え得るものにはならない。本書で行ったのは、初代岸邉百百雄、第2代黒沼俊夫、第3代河野文昭、そして総合アドヴァイザーという形で最後の実質上の監督となった小林道夫、それら4人の音楽家達が、どのように「ゆふいん」という場所と付き合っていったかの記述である。
 
音楽を演奏する事を生業とする4人のプロが、その音楽家人生の四様のタイミングで、湯布院町という場所やそこに生きる人々、そこを訪れる人々と出会うことになる。そこに至るまでの4人がどんな音楽家人生を送ったか、この温泉町で何をしようとしたか、そして何をし、どのように去って行ったか(若しくは、留まることになったか)。時間と空間を「湯布院町」に限定した、4人の音楽家の評伝を並べたようなものだ。
 
こんなやり方で本当に「ゆふいん音楽祭」の35年が記述出来たのか、正直、筆者には判りかねる。ただ、はっきりしていることもある。イベントとしてのゆふいん音楽祭がどのように行なわれ、どれほどの聴衆を集め、どれほどの収益を上げたり、若しくは損益を出していたのか?――この書物を読んだところで、そんなことは全く判らない。この書物は、「アートマネージメント関連書籍」やら「まちおこし指南書」ではない。ましてや、「ローカルイベントの成功譚」ではない。筆者とすれば、資金提供者としての木谷氏はこんなやり方を納得してくれると思いたい。
 
言葉はどうやっても音楽そのそのものを語ることは不可能だ。それでも、音楽祭を巡る音楽家の姿を描こうとした『ゆふいん音楽祭 35年の夏』が、音楽書たり得ていると読者諸氏に思っていただければ、筆者としては幸いである。
 
 
かつての音楽祭実行委員長加藤氏宅には、ひとつの大きな遺産が未整理のまま存在する。第2代音楽監督黒沼俊夫氏の没後、旧ゆふいん音楽祭実行委員会が管理を託された巌本真理弦楽四重奏団が使用していた弦楽四重奏の楽譜達である。当然ながら、巌本真理や黒沼俊夫の書き込みが多数ある、弦楽四重奏弾きにはとてつもないお宝だ。
 
この楽譜が収めるべき所に収められたとき、やっと筆者は由布岳を気兼ねなく素直に愛でられるようになるのだろう。さて、もう一仕事。思えばもう20数年を数えることになってしまったゆふいんとの付き合いは、まだ終えるわけにいかない。

加藤元音楽祭実行委員長宅に並ぶ「ゆふいん本」テスト刷、収録CD表面デザイン、それに原稿。なお、表紙とCDデザインは画家の加藤氏が担当している。

第70回

「ゆふいん本」は

どのように生まれたか

 

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版