少し寝坊をする。寒い。
障子から斜めに朝の陽が差してくる。
布団の中でもぞもぞしていると、
外から、パラパラ、パラパラと儚げな音がする。
 
日曜の朝、まだ人の気配も少ない。
よいしょと布団から抜け出し、窓を開けてみると、
枯れた葉が、微かな風を受け、舞い落ちる音だった。
いい朝だ。とても、いい朝だ。
 
ヒヨドリのキィキィ声も、起き抜けの音楽としては悪くない。
よく通る彼らの鳴き声の背後から、枯れ葉たちの立てる乾いた音が、
不思議なほど、よく耳に届く。
 
アースカラーの絨毯が、木漏れ日にキラキラ輝く。
遠目でも、一葉一葉の表情の違いがはっきり見える。
ゴワゴワの葉脈、欠けた縁、虫に喰われたであろう小さな孔。
「はよ、起きんさい」、そう言いながら布団を剥ぎ取り、 
元気にくしゃっと笑う、皺だらけの老女の顔が頭に浮かぶ。
 
少し前に見た、テレビのワンシーンを思い出す。
ニュース番組の何かのコーナーだった。
道行くお年寄りたちに、インタビュアーが、
「あなたの一番輝いていた時期はいつ?」と聞くのだ。
 
多くの人が、青春時代の一コマをあげる。そんな中、
意気軒昂なおじいちゃまが、こう言っていた。
「え?『輝いていた』って過去形? 俺は『今』だよ、『今』!」
 
最初から最後まで、隅から隅まで、一切、無意味なものがない、
そうして美しく老いた“音楽”と、ずっと向かい合ってきた。
生き残る強さを持ち、時間に磨かれ輝きを増した、愛すべき楽曲たち。
ときにそこにある、小さな瑕疵のように見えるものも、
一見冗長なフレーズも、布石で、伏線で、効果。
すべてが調和して輝く。—「宇宙は数的な調和に満ちている」
 
 
フィギュアスケーター高橋大輔選手の引退、いずれは、
と予想はしていたのだが、実際にそれを耳にすると寂しい。
アスリート人生を左右する怪我、心に巣食う闇と闘いながらの年月、
光の当たる位置にいるからこその苦しみも、同業者に見て知っているから、
あのどこかホッとした感じのある表情に、よかったと思う自分もいる。
 
フィギュア界トップアスリートの引退も惜しまれるが、
ヴァイオリン弾きとしては、『ヴォーカル解禁』のニュースが気になる。
これまで、氷上ではヴァイオリンの音が多く響いていた。
純粋なヴァイオリン曲だけではなく、アレンジ的にフューチャーされたものも。
 
ヴァイオリンを聞く頻度が高いように思い、調べたことがある。
そして、知った。=『ヴォーカル禁止』というルール。
「人間の声がNG」ということではなく、「歌詞」に問題があるのだと。
歌詞の意味が分かるか分からないかで、選手が表現しようとしている内容、
それについての評価が変わってしまう可能性があるという理由だったらしい。
 
だからといって、そこに強い因果関係がある訳でなし、実際、
割合としては、それほどヴァイオリン曲が採られている訳でもない。
でも、ヴァイオリンの音色は、フィギュアによく似合う。なにしろ、
華やかさ輝かしさ艶やかさ、すべて備えているのだから。うんうん。
 
ところが、今シーズン、その選曲を見れば!
「ジャパンオープンでは12選手中7選手がヴォーカル曲を使用」
例えば、アンドリュー・ロイド=ウェバー《オペラ座の怪人》
例えば、アンドレア・ボチェッリ《Io Ci Saro これからも僕はいるよ》
例えば、ベートーヴェンの『第九』(これをヴォーカル入りと言うのか?)
でもいい。町田樹選手GPシリーズ第1戦アメリカ大会、2連覇おめでとう!
 
「フィギュア‐ヴァイオリン」といって、印象に残っているのは、
ナイジェル・ヘスの《ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲》だ。
『ラヴェンダーの咲く庭で』(2004年英映画)で、ジョシュア・ベルが弾いた。
あまりにも王道に過ぎるかもしれない、シンプルだが胸に沁みる旋律。
そして、それを奏でるヴァイオリンの音色との組み合わせの妙。
負けるな、ヴァイオリン! 消えるな、ヴァイオリン曲!
 
 
この頃、アマチュアの方からよく受ける相談のひとつがこれ。
「『○○で演奏して』って頼まれたのですが…」
結婚式の披露宴だったり、何かのお祝いだったり、パーティだったり。
もちろん、当人も弾くことに異存はない。気持ちは十分にある。
相談は「何を弾けばいいのか」というところにある。
 
もちろん、曲がない訳ではない。昨今、愛好家向けの、
「結婚式で使える」的な楽譜の出版もなされているから、例え、
初心者であっても、そういう要望に応えられる状況にはなってきている。
最大の問題は、大概の曲が“伴奏”を有するということだ。
先の言葉の語尾の「…」=「伴奏どうしましょう?」。
 
必ずしも、身近にピアニストの友人知人がいる訳ではない。
かといって、プロのピアニストに依頼するのは気が引ける。
大体、会場にピアノがないことも多い。
 
だから、つい数年前までは、誰かピアニストを紹介するか、
『Amazing Grace』的な、ヴァイオリンだけでも「聞ける」曲、
そんな曲を選んで、一人で弾いてもらうしかなかった。
 
最近になって、CD付の楽譜が販売されるようになった。
模範演奏のCD(だけ)ではなく、「伴奏CD」が付いているのである。
ある楽譜の表紙にはこう書いてある=『カラオケCD付』
来るだろうとは思っていた。ヴァイオリンをカラオケで弾く時代。
確かにこれなら、音響機器さえあれば、どこでも演奏できる。
 
カラオケ全盛の時代を迎えたとき、友人たちと笑って言っていた。
「そのうち、『ヴァイオリン・カラオケボックス』ができたりして…」
今や、カラオケボックスを練習場所として使っている人もいる。
それはもう、まったく笑い話ではない。商売になるかどうかは別だけど。
 
「今日は、何をリクエストする?」
「ボクはアルゲリッチでベートーヴェンの《クロイツェルソナタ》かな」
「すっげぇ、まじ? 俺はオケ伴で《タイスの瞑想曲》にしよ」
「いいねいいね。私はイケメンのピアニストに伴奏してもらうんだ!」
「で、ドリンクは?」「とりあえずチューハイ!」
 
 
カラオケCDの話をしたとき、「邪道」と吐き捨てた友人がいる。
その発言、その気持ち、分からなくもない。
でも、そう簡単に切り捨てていいのか、今、悩んでいる。
 
教室や先生の増加、手に入れやすくなった楽器&楽譜、
ちょっと頑張れば、誰もが“ヴァイオリン弾き”になれる時代になった。
ヴァイオリン業界、いや、音楽界全体にとっても、
この状況は、ちょっとしたチャンスである。
 
しかし、実際に、ヴァイオリンを始めた人たちに聞くと、
少し弾けるようになった段階で、何か物足りなさを感じるらしい。
そう、一般的に愛奏される『ヴァイオリン曲』のほとんどが、
元が合奏曲だったり、伴奏を必要とするものだったりするから、
ヴァイオリン一人で弾いていても、完全には充たされないのである。
 
そう、アマチュアの方々のレッスンで一番悩むのが“選曲”である。
基礎の基礎をやっている間は、まだいい。
レッスンが進み、いろいろな曲に挑戦できるようになり、ある日、
「モーツァルトのヴァイオリンソナタを弾いてみたいのですが」
なんて言われようものなら、うぅんとしばし悩んでしまう。
 
ソナタのレッスン…伝授できることは山ほどあるのに、
ヴァイオリンパートだけのレッスンとなると、妙な余白が生まれ、
どうも、レッスンらしいレッスンにならない。
 
理想が同じであっても、音楽家の卵たち相手のレッスンとは、
レッスンの目的も意味も手段も方法も違う。いや、違わなければならない。
お弟子さん一人一人の希望に沿うのが務めだ。そういう意味では、
「ヴァイオリニストになりたい」と言ってもらう方が、ずっと楽だったりする。
 
ソナタに限らない。小品も。協奏曲も。
ヴァイオリンの先生が皆、ピアノが弾ける訳ではない。
年に一~二度の発表会の際に体験する、数回だけの「生ピアノ」との演奏、
そこでようやく完成形を見るという状況。それでいいのだろうか?
彼らの充たされない心を、そのまま放っておいてもいいのだろうか?
 
 
カラオケCDを使って人前で演奏することになったお弟子さん、
本番を控えて、レッスンをすることになった。これが、なんとも。
譜読み以降のレッスン内容を、大幅に変えなければならない。
 
ご想像通り。音源に「合わせる」のが、非常に難しい。
しかも、そのとき、彼女が弾く曲は《ユーモレスク》だった。
付いていたCDは演奏家による演奏、当然、自然なアゴーギクがある。
 
そのレッスンのために、事前にカラオケCDに合わせて弾いてみた。
ううむ。演奏(伴奏)は、オーソドックスなものなのだが、
だからといって、姿形のないピアニストに合わせるのは至難の業。
演奏が、いかに相互理解で成り立っているかを実感する。
必死でタイミングをはかりながら、悩む。
これは“音楽”なのか?
 
『弾く愛好家』も、様々だ。
アンサンブルを楽しむ人。オーケストラを楽しむ人。
一人で楽しむ人。(こういう人が増えている気がする)
「一人で楽しむ人」の世界は、基本、“自宅”と“レッスン”だけ。
 
そう考えると、「ソロで」あるいは「デュオで」楽しめる曲が、
もっと、あってもいいのかもしれない。
デュオについては、曲がない訳ではないのだが、それらは、
世の“ヴァイオリン弾き”たちが弾きたい曲ではなかったりもする。
 
できることなら、作曲してみたい。アレンジしてみたい。
でも、分化の申し子、な~んにも書けない。
誰かそういう人たちのために、作曲&アレンジしてくれないかなぁ。
一人で楽しめる曲。愛好家vn×愛好家vnでも楽しめる曲。
 
お弟子さんは無事本番を終え、「喜んでもらえました!」と、
キラキラした瞳で報告してくれた。弾んだ声で。本当に嬉しそうに。
 
カラオケCDは、生まれるべくして生まれたのだろう。
こういうヴァイオリンの新しい立ち位置が、主流になるとは思わない。
でも、『カラオケCD』という発想が、愛好家たちの楽しみを増やし、
演奏の場を広げていくかもしれない、その可能性を無視することもできない。
カラオケCDが生まれた理由を、もっとしっかり考えるべきかもしれない。
 
 
秋は果物が美味しいね、そんなありきたりな会話から出た、
「しかし、洋梨ってブサイクだよねぇ」という友人の言葉に、
セザンヌの果物の絵を思い出す。圧倒的な存在感を持つ果物たち。
でも、彼の描く果物は、正直あまり美味しそうには見えない。
 
どちらかというと、セザンヌは水彩画の方が好きだ。
果物も、人物も、あのサント=ヴィクトワール山も。
『近代絵画の父』と呼ばれ、20世紀絵画の扉を開いたポール・セザンヌ。
遠近法を無視したり、多角的な視点を採り入れたり、「塗り残し」たり。
 
神経質で気難しい性格だった、留学先に馴染めなかった、
対人関係が苦手だった、親しい友人と訣別した、
正当に評価されなかった、しかし、後世の画家たちに多大な影響を与えた、
セザンヌの人生を繙いていると、どうもドビュッシーを思い出してしまう。
最晩年に至ってようやく絵画の価値は上がるが、健康状態が悪化、
精神的にも不安定になり、故郷のアパートで死去。
 
「好きな仕事は何ですか?」という質問に、
セザンヌはこう答えたという。—「描くこと」 
「好きな色は?」という問いには — 「ハーモニー」
 
ターナーの描く風景には時間があると、どこかに書いてあった。
セザンヌはそこに更なる持続を、永遠性を求めたのだとも。
印象派を通り抜け、光を崇拝することをやめたというセザンヌ、でも、
彼の『塗り残し』による空白は、他の部分と調和して光輝いている。
 
庭に出て、手一杯に落ち葉を拾う。
音を立てて砕けた葉が、掌の上に紅葉色の万華鏡を作る。
 
考えてみれば、「あなたが一番輝いていた時期は?」なんて、
随分失礼な質問だ。ええい、見てろ。最後まで輝いてやる!
 
今日の目標 —キラキラすること。…ダラダラじゃなくて。無理かなぁ。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第85回 そして輝くウルトラソウル♪

N.ヘス / ラヴェンダーの咲く庭で

(Solo Vn. 古澤 巌) 洗足学園音楽大学

© 2014 by アッコルド出版