時折、学生時代に受けた室内楽のレッスンのことを思い出す。
あれもこれもが、ゼロからの出発だった。
知識不足、経験不足、勉強不足から、恥ずかしい思いも随分した。
だからだろうか、忘れられない内容が多い。
多くの先生に見て頂いた。本当にいろいろなことを学んだ。
お顔は童顔で可愛らしいのに、きつい物言いで有名な、
あるヴィオリストの方に、弦楽四重奏を見て頂いたときのことだ。
「まあ、弾いてごらん」と言われ、一楽章を通す。
第一声、「ふうん」— ふうんって。凍てつく空気。
数秒の静けさが異常に長く感じられる。「もう一度、最初から」
弾き始めて、十秒もしないうちに止められる。
「何を考えて、弾いた?」
楽譜から目を上げると、先生とバチっと目が合う。
(わたしか…) すぅっと手が冷えてくる。
何を考えてって、ヴィオラはそこまで〈刻み〉しか弾いていない。
「き、きざみが、お、おくれないように…」
「へぇ。〈きざみ〉をどうするかは一応考えたんだ」
内声を教えて頂きたくて、ヴィオリストの方にお願いした。
ヴィオラ弾きが『捕まる』のは分かっていた。でも。
まだ2時間ある。涙が出そうだ。頑張れ!と自分を叱咤する。
「刻み、遅れてはいなかったよ。でも、音楽が止まってた」
先生の眉がクッと上がる。「なんでか、分かる?」
目を伏せ、ふるふると首を横に振る。「曲の構成が分かってないからだよ」
持っていたスコアをパタンと閉め、彼女は言う。「もう一度」
室内楽経験が豊かで、学内でも『理論派』と高く評価されていた。
口調こそ厳しいが、その説明は分かりやすく、
何が自分に足りないかを知るには、最高のレッスンだった。
つまり、けちょんけちょんだったということだ。ははは。
☆
「音楽にはいつも『終わり』がある。終わることに意味がある。だから、
終わり方が重要。なのに、どこが終わりか分かってないなんて、ねぇ」
先生の言う『終わり』は、曲の最後のことだけを意味する訳ではない。
—“終止”=音楽の段落の終わりのこと。
『楽節』と呼ばれるまとまりの終わりに“終止”が置かれる。
ちなみに、“終止形”を指す「カデンツ Kadenz(独)」という言葉は、
「落ちる」「終わる」を意味するラテン語のcadereに由来する。
人はそれを、『テンポの減速』や『終止する音を延ばす』ことで、
『導音進行』や『和音の連結』などで、得てきた。
そう、種々様々な規則や形式が確立する以前から、
多くの自由が許される「はじめ」や「途中」に対して、
終わり方には“ルール”があった。それは次第に形のあるものとなる。
完全な終結感のある“完全終止”。どこかスッキリしない“不完全終止”。
予想外な印象を与える“偽終止”。柔らかな感じのする“アーメン終止”。
読点の働きを持つ、終止感の全くない“半終止”。
弱い終止、強い終止、いろいろな『終止』があるが目的は一つ。
—音楽を「緩和状態」「静止(停止)状態」「安定状態」に導くこと。
それが破られることもあるが、これも規則あってこその違反である。
文章においての句読点がそうであるように、
“終止”は、いつ、どのように呼吸するべきかを教えてくれる。
それは、音色やテンポ、リズムなどを決定付ける要因の一つでもある。
“終止”がなければ、“フレーズ”の概念も生まれない。
“アーティキュレーション”についても、語れない。
必死で“終止音”を探し、意識して弾く。構成を考える。
それでも、容赦なく厳しい言葉が落ちてくる。
「終わればいいってものじゃないの。終わりが始まりだったりするんだから」
付け焼刃じゃ、どうにもならない。
☆
長年、レッスンを受けていると、師に止められた時点で、
注意されそうなことは、凡そ、予測がついてしまうものだ。
それが初めての曲でも。ああ、やっぱりそこか…と。
そんな中、何を言われているのかさえ、ピンとこなかったことがある。
初めてレッスンを受ける曲だった。誰かの協奏曲だった。
弾き始めようとした瞬間に、止められたのだ。
「そんなにすぐ弾き始めて、大丈夫?」…え?
「時間をあげるから、楽譜を最後まで見てから弾きなさい」
そう言えば、随分、無神経に弾き始めていたと思う。
レッスンだ。真剣は真剣なのだ。それこそ手が震えるほどに。
無神経には程遠い状況のはずなのだが、でも…。
弾き始める前、何を考えた? 曲のことを考えただろうか?
そのストーリーを。そこにある作曲者の思いを、感情を。
間違えないようにとか、止まらないようにとか、
そんなことばかり、考えていなかっただろうか?
最近交わした、小さなお弟子さんとの会話を思い出す。
「この曲、どんな風に弾きたい?」「上手に弾きたい!」
楽譜をただ追って弾いているときは、大抵、終わりが見えていない。
一つずつ、刹那的に音を再現するだけでは、曲にはならない。
聴き手は、「この曲の構成は」なんて考えながら聞いている訳ではない。
だからといって、弾き手がそれを分かっていなくてもいい訳ではない。
弾き手が分からず弾いていれば、聞き手に分かろうはずもない。
弾き手は、聴き手の側でなく、書き手の側にいる。
ということは、書き手の技法は手に入れられないまでも、
書き手が持つ知識は、演者として共有すべきということになる。
音大生が、まがりなりにも音大生なのは、そうした、
演奏するに必要な学問を、その気になれば習得できる環境にあって、
具体的に伝授してくれるよき師、よき先輩がいて、
大なり小なり、それを身に付けているからだろう。
☆
終わりの見えないレッスンも、時間が来れば終わる。
厳しく辛いレッスンがもたらすものは、充実感と幸福感。
いざ終われば、終わらなければよいのにと思ったりもする。
モーツァルトの楽曲の癒し効果、その研究は専門外で語ることはできないが、
彼の音楽が、そう位置付けられる理由はなんとなく分かる気がする。
濁りのない響きは調和的で、包み込む優しさや豊かさを持つし、
何と言っても、モーツァルトの楽曲は、
基本的に、「安全・安心」の音楽だ。(官公庁的ワード…笑)
水戸黄門や浅見光彦シリーズにあるような予定調和。
ましてや、モーツァルトの器楽曲においては、その道中、
事件らしい事件すら起きないし、危険も危機感もない。
ときに悲しくなったり、切なくなったりするけれど、
喚いたり、怒鳴ったり、キレたりすることも、まずない。
至って平和に旅は始まり、ただいま~と家に帰り着く。
実は、モーツァルトは安心立命の境地に至っていた?
しかし、それじゃぁ物足りない、そういう書き手&聞き手がいて、
ハラハラドキドキ感満載の楽曲もどんどん生まれる。(説明、適当過ぎる?)
不安が大きいほど、それが解消されたときの安堵は深い。
小さい頃、迷路に入って出られなくなり、ひどく泣いた記憶がある。
未だに、その夢を見て、不安に捉われたまま、目覚めることがある。
今に至っては、迷路で迷ったこと自体が夢のような気もしている。
目的地が見えているのに、辿りつかないのでは?という不安。
出口が見えているのに、出られないのでは?という不安。
それでも、「終わらないもの」「終わりそうにないもの」が好きだ。
小説、ドラマ、映画…物語の最後の最後にそっと差し出される謎にゾクゾクする。
死んだはずの犯人が実は生きていたとか、怪物の遺伝子が残っていたとか。
☆
映画《薔薇の名前》を観たとき、あの迷宮図書館に心を奪われた。
思わず迷宮に関する本を繙けば、『迷宮』と『迷路』は違うと書いてある。
“迷宮の定義”を、引用してみる。
○通路が交差しない
○どちらの道に行くかという選択肢がない
○常に振り子状に方向転換する
○迷宮を歩く者は、内部空間全体をあますところなく歩かなければならない
○迷宮を歩む者は中心のそばを繰り返し通る
○通路は一本道であり、強制的に中心に通じている
○よって、内部を歩く者が道に迷う可能性はない
『混乱と錯綜の極致』というイメージの“迷宮”だが、
「迷宮を支配するのは高度な計算と理性と秩序」だと著者は述べる。
どことなく、我々の世界の楽曲に通じるものがないか?
作者の意図をちゃんと伝えられず、
秩序整然たる小迷宮を、出口のない迷路にしてしまう、それは、
演奏家が絶対にしてはいけないことなのかもしれない。
中世ヨーロッパの教会の床にある迷宮図。
罪に穢れた現世の象徴であり、信者たちはその迷宮を通りながら、
現世で犯した罪を省み、霊的な死と再生を体験するのだという。
そうして、魂は浄化され、救済されるのだと。
日々、楽曲という〈音楽迷宮〉に向き合うことで、
音楽家は、心の内にある純粋さを保っているのかもしれない、
なんて、ちょっと真面目に考えてみたりする。
「終わらない」と言えば、女子のおしゃべりだ。
女性の脳は、マルチタスクが得意で、複数の話題を回すのは朝飯前、
起きてから寝るまで言語領域を休めない、
関連記憶を一気に脳裏に展開する能力があり、しかも、
しゃべっていると、快楽物質ドーパミンが活性化して楽しくなる、
楽しいから終わらせたくない、終わりそうになっても終わらせない。
などとモノの本に書いてある。ううむ。
「何考えてた?」「何も」— 恐るべし、われら女子。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第84回 出口のない迷路



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