時折、学生時代に受けた室内楽のレッスンのことを思い出す。
あれもこれもが、ゼロからの出発だった。
知識不足、経験不足、勉強不足から、恥ずかしい思いも随分した。
だからだろうか、忘れられない内容が多い。
多くの先生に見て頂いた。本当にいろいろなことを学んだ。
 
お顔は童顔で可愛らしいのに、きつい物言いで有名な、
あるヴィオリストの方に、弦楽四重奏を見て頂いたときのことだ。
「まあ、弾いてごらん」と言われ、一楽章を通す。
第一声、「ふうん」— ふうんって。凍てつく空気。
数秒の静けさが異常に長く感じられる。「もう一度、最初から」
 
弾き始めて、十秒もしないうちに止められる。
「何を考えて、弾いた?」
楽譜から目を上げると、先生とバチっと目が合う。
(わたしか…) すぅっと手が冷えてくる。
何を考えてって、ヴィオラはそこまで〈刻み〉しか弾いていない。
 
「き、きざみが、お、おくれないように…」
「へぇ。〈きざみ〉をどうするかは一応考えたんだ」
 
内声を教えて頂きたくて、ヴィオリストの方にお願いした。
ヴィオラ弾きが『捕まる』のは分かっていた。でも。
まだ2時間ある。涙が出そうだ。頑張れ!と自分を叱咤する。
 
「刻み、遅れてはいなかったよ。でも、音楽が止まってた」
先生の眉がクッと上がる。「なんでか、分かる?」
目を伏せ、ふるふると首を横に振る。「曲の構成が分かってないからだよ」
持っていたスコアをパタンと閉め、彼女は言う。「もう一度」
 
室内楽経験が豊かで、学内でも『理論派』と高く評価されていた。
口調こそ厳しいが、その説明は分かりやすく、
何が自分に足りないかを知るには、最高のレッスンだった。
つまり、けちょんけちょんだったということだ。ははは。
 
 
「音楽にはいつも『終わり』がある。終わることに意味がある。だから、
 終わり方が重要。なのに、どこが終わりか分かってないなんて、ねぇ」
 
先生の言う『終わり』は、曲の最後のことだけを意味する訳ではない。
 
—“終止”=音楽の段落の終わりのこと。
 『楽節』と呼ばれるまとまりの終わりに“終止”が置かれる。
 
 ちなみに、“終止形”を指す「カデンツ Kadenz(独)」という言葉は、
 「落ちる」「終わる」を意味するラテン語のcadereに由来する。
 
人はそれを、『テンポの減速』や『終止する音を延ばす』ことで、
『導音進行』や『和音の連結』などで、得てきた。
そう、種々様々な規則や形式が確立する以前から、
多くの自由が許される「はじめ」や「途中」に対して、
終わり方には“ルール”があった。それは次第に形のあるものとなる。
 
完全な終結感のある“完全終止”。どこかスッキリしない“不完全終止”。
予想外な印象を与える“偽終止”。柔らかな感じのする“アーメン終止”。
読点の働きを持つ、終止感の全くない“半終止”。
弱い終止、強い終止、いろいろな『終止』があるが目的は一つ。
 
—音楽を「緩和状態」「静止(停止)状態」「安定状態」に導くこと。
それが破られることもあるが、これも規則あってこその違反である。
 
文章においての句読点がそうであるように、
“終止”は、いつ、どのように呼吸するべきかを教えてくれる。
それは、音色やテンポ、リズムなどを決定付ける要因の一つでもある。
“終止”がなければ、“フレーズ”の概念も生まれない。
“アーティキュレーション”についても、語れない。
 
必死で“終止音”を探し、意識して弾く。構成を考える。
それでも、容赦なく厳しい言葉が落ちてくる。
「終わればいいってものじゃないの。終わりが始まりだったりするんだから」
 
付け焼刃じゃ、どうにもならない。
 
 
長年、レッスンを受けていると、師に止められた時点で、
注意されそうなことは、凡そ、予測がついてしまうものだ。
それが初めての曲でも。ああ、やっぱりそこか…と。
そんな中、何を言われているのかさえ、ピンとこなかったことがある。
 
初めてレッスンを受ける曲だった。誰かの協奏曲だった。
弾き始めようとした瞬間に、止められたのだ。
「そんなにすぐ弾き始めて、大丈夫?」…え?
「時間をあげるから、楽譜を最後まで見てから弾きなさい」
 
そう言えば、随分、無神経に弾き始めていたと思う。
レッスンだ。真剣は真剣なのだ。それこそ手が震えるほどに。
無神経には程遠い状況のはずなのだが、でも…。
 
弾き始める前、何を考えた? 曲のことを考えただろうか?
そのストーリーを。そこにある作曲者の思いを、感情を。
間違えないようにとか、止まらないようにとか、
そんなことばかり、考えていなかっただろうか?
 
最近交わした、小さなお弟子さんとの会話を思い出す。
「この曲、どんな風に弾きたい?」「上手に弾きたい!」
 
楽譜をただ追って弾いているときは、大抵、終わりが見えていない。
一つずつ、刹那的に音を再現するだけでは、曲にはならない。
 
聴き手は、「この曲の構成は」なんて考えながら聞いている訳ではない。
だからといって、弾き手がそれを分かっていなくてもいい訳ではない。
弾き手が分からず弾いていれば、聞き手に分かろうはずもない。
 
弾き手は、聴き手の側でなく、書き手の側にいる。
ということは、書き手の技法は手に入れられないまでも、
書き手が持つ知識は、演者として共有すべきということになる。
 
音大生が、まがりなりにも音大生なのは、そうした、
演奏するに必要な学問を、その気になれば習得できる環境にあって、
具体的に伝授してくれるよき師、よき先輩がいて、
大なり小なり、それを身に付けているからだろう。
 
 
終わりの見えないレッスンも、時間が来れば終わる。
厳しく辛いレッスンがもたらすものは、充実感と幸福感。
いざ終われば、終わらなければよいのにと思ったりもする。
 
モーツァルトの楽曲の癒し効果、その研究は専門外で語ることはできないが、
彼の音楽が、そう位置付けられる理由はなんとなく分かる気がする。
濁りのない響きは調和的で、包み込む優しさや豊かさを持つし、
何と言っても、モーツァルトの楽曲は、
基本的に、「安全・安心」の音楽だ。(官公庁的ワード…笑)
 
水戸黄門や浅見光彦シリーズにあるような予定調和。
ましてや、モーツァルトの器楽曲においては、その道中、
事件らしい事件すら起きないし、危険も危機感もない。
ときに悲しくなったり、切なくなったりするけれど、
喚いたり、怒鳴ったり、キレたりすることも、まずない。
至って平和に旅は始まり、ただいま~と家に帰り着く。
実は、モーツァルトは安心立命の境地に至っていた?
 
しかし、それじゃぁ物足りない、そういう書き手&聞き手がいて、
ハラハラドキドキ感満載の楽曲もどんどん生まれる。(説明、適当過ぎる?)
不安が大きいほど、それが解消されたときの安堵は深い。
 
小さい頃、迷路に入って出られなくなり、ひどく泣いた記憶がある。
未だに、その夢を見て、不安に捉われたまま、目覚めることがある。
今に至っては、迷路で迷ったこと自体が夢のような気もしている。
 
目的地が見えているのに、辿りつかないのでは?という不安。
出口が見えているのに、出られないのでは?という不安。
 
それでも、「終わらないもの」「終わりそうにないもの」が好きだ。
小説、ドラマ、映画…物語の最後の最後にそっと差し出される謎にゾクゾクする。
死んだはずの犯人が実は生きていたとか、怪物の遺伝子が残っていたとか。
 
 
映画《薔薇の名前》を観たとき、あの迷宮図書館に心を奪われた。
思わず迷宮に関する本を繙けば、『迷宮』と『迷路』は違うと書いてある。
 
“迷宮の定義”を、引用してみる。
 ○通路が交差しない
 ○どちらの道に行くかという選択肢がない
 ○常に振り子状に方向転換する
 ○迷宮を歩く者は、内部空間全体をあますところなく歩かなければならない
 ○迷宮を歩む者は中心のそばを繰り返し通る
 ○通路は一本道であり、強制的に中心に通じている
 ○よって、内部を歩く者が道に迷う可能性はない
 
『混乱と錯綜の極致』というイメージの“迷宮”だが、
「迷宮を支配するのは高度な計算と理性と秩序」だと著者は述べる。
どことなく、我々の世界の楽曲に通じるものがないか?
 
作者の意図をちゃんと伝えられず、
秩序整然たる小迷宮を、出口のない迷路にしてしまう、それは、
演奏家が絶対にしてはいけないことなのかもしれない。
 
中世ヨーロッパの教会の床にある迷宮図。
罪に穢れた現世の象徴であり、信者たちはその迷宮を通りながら、
現世で犯した罪を省み、霊的な死と再生を体験するのだという。
そうして、魂は浄化され、救済されるのだと。
 
日々、楽曲という〈音楽迷宮〉に向き合うことで、
音楽家は、心の内にある純粋さを保っているのかもしれない、
なんて、ちょっと真面目に考えてみたりする。
 
「終わらない」と言えば、女子のおしゃべりだ。
女性の脳は、マルチタスクが得意で、複数の話題を回すのは朝飯前、
起きてから寝るまで言語領域を休めない、
関連記憶を一気に脳裏に展開する能力があり、しかも、
しゃべっていると、快楽物質ドーパミンが活性化して楽しくなる、
楽しいから終わらせたくない、終わりそうになっても終わらせない。
などとモノの本に書いてある。ううむ。
 
「何考えてた?」「何も」— 恐るべし、われら女子。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第84回 出口のない迷路

© 2014 by アッコルド出版