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東京藝大でのヘンシェルQ公開レッスンの告知。
まずは全員で1楽章まるまる演奏を聴く。あれ、これ、なんの楽譜かな、などと話し合っているヘンシェルQ。
ヴィオラ奏者モニカ・ヘンシェルは、中声の仕事とは何かを様々に説く。要は、手綱を引き締めること、である。
ダニエル・ベルの指摘は極めて楽譜に忠実。テーマ間の対比をより明快にするにはなど、まるで指揮者が指導するよう。
チェロのマティアス・バイヤーは具体的な弾き方担当。もっとブリッジ近くを弾く、この部分では弓の当て方をもっと鋭く、等々、しまいにはチェリストの楽器を取り上げてしまった。
長岡の公演は、日本での兄貴分、澤Qとのジョイント・コンサートである。
澤Q中心のブラームス弦楽六重奏曲第1番では、澤教授の美音が光る。
ヘンシェルQが奇数番を取ったメンデルスゾーンの八重奏曲、ダニエル・ベルの安定したリードは流石。平土間を埋めた聴衆は大喝采。
東京圏で唯一の公演となった鶴見のチケットは早々と売り切れ、なんとか聴けないかと問い合わせが相次ぎ、主催者は嬉しい悲鳴。
週末の岐阜サラマンカホールは、20周年記念フェスティバルの真っ最中。市内アウトリーチなども行われる中、ヘンシェルQはメインゲストだ。
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この秋から冬にかけ、世界各地の弦楽四重奏団が次々と日本列島を訪れている。勿論、音楽界全体とすれば、オペラ団やオーケストラ、ピアニスト、ヴァイオリニスト、等々、ありとあらゆる演奏家が来日しているわけで、それぞれのジャンルに視点を絞れば、それぞれで似たようなことが起きているのかもしれないけれど。
まず、事実の確認として、この9月から12月にかけて日本を訪れる「常設若しくはそれに準ずる活動をしていると日本の聴衆向けに広報されている弦楽四重奏団」を列挙してみよう。アルディッティQとパノハQが日本を離れたばかりの9月初旬から、来訪順に並べれば以下。
ボッツィーニQ、プロメテオQ、ハーゲンQ、アルカントQ、ヘンシェルQ、テツラフQ、ゲーデQ、コダーイQ、モザイクQ、ラテンアメリカQ、ゲヴァントハウスQ、アルカディアQ、ミンゲQ、ヴィーンQ、シュトイデQ、ウィハンQ、コミタスQ、シューマンQ、ヴォーチェQ
筆者の見落としがなければ、9月の始めから年末までの18週の間に来日する弦楽四重奏団は総計19。毎週1団体以上が日本列島を訪れ、聴衆を集め、演奏していることになるわけだ。勿論、この期間中も、ベテランの古典Q、モルゴアQ、Qエクセルシオから若手のウェールズQに至るまで、日本の団体が活動を休止しているわけではない。
前橋汀子が原田禎夫や久保田巧、川本嘉子らとベートーヴェンの弦楽四重奏を演奏するとてつもないツアーも組まれている。こんな状況を前に、海外の弦楽四重奏団や音楽関係者が「日本には巨大な弦楽四重奏マーケットが広がっている」と思い込んでも、誤解と言い切るわけにいくまい。
どうしてこんなことが起きているのか、様々な説明があり得よう。が、当稿ではそれを論じるつもりはない。ただ、これだけの団体が並ぶと、来日の仕方も様々なことは確かである。プロの室内楽団の来日公演だから基本的には「興行」と思われるかもしれないが、実はそうでもないのである。上に列挙した団体のうち、少なくともハーゲンQ、アルカディアQ、コミタスQは、営利企業たる音楽事務所が招聘する資本主義社会下での商業活動とは些か違う形での来日だ。
ハーゲンQの来日は、同団にストラディヴァリウスを貸与する日本財団主催のたった一晩のお披露目招待コンサートのため。アルカディアQは、言うまでもなく、去る5月の大阪国際室内楽コンクール第1部門優勝団体のご褒美日本ツアー。コミタスQは旧ソ連圏の演奏家との交流を行なう日本ユーラシア協会の招聘で、アルメニア大使館の全面的なバックアップを得た国際文化交流である。
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前置きが長くなってしまった。そんな弦楽四重奏ラッシュの真っ只中に行われたヘンシェル弦楽四重奏団の日本公演について。
ヘンシェルQの日本でのキャリアの作り方は、ちょっとこれまでの外国団体になかったものかもしれない。初来日は1992年秋。今回の来日公演が「結成20周年ツアー」と銘打たれているのを知れば、ちょっと首を傾げるかも。実は、ヘンシェル家の3人の若い音楽家&チェリストが初めて日本を訪れたのは、学生としてだったのである。
アマデウスQのヴィオラ奏者シドロフ没後、残された3人の奏者は演奏を止め、教育活動に専念するようになった。ロンドンで行なわれるアマデウス・セミナーに感銘を受けたヴァイオリニスト澤和樹は、このセミナーを日本で行なうべく尽力。シーズンオフに入る直前の精進湖畔のホテルを会場に、弦楽四重奏セミナーを開設する。その初回に、アマデウスQの愛弟子としてレッスンを受けるべく遙々ミュンヘンから富士山の麓までやってきたのが、ヘンシェルQだった。
その後、日本で総計4回開催されたアマデウス・コースにヘンシェルQは参加。チェリストの交代が何度かあり、マティアス・バイヤーが加わった時点で現在のメンバーが確定。「結成20年」とは、バイヤーが参加した年からの勘定である。その間にも、バンフ国際弦楽四重奏コンクール第3位、エヴィアン国際弦楽四重奏コンクールで2位(2位を分けたのがダネルQだった)と順調にコンクールでのキャリアを重ね、1996年には第2回大阪国際室内楽コンクール第1部門で優勝。以降、いくつかのヨーロッパのコンクール主催者から参加を呼びかけられたというが、もうコンクールはオシマイと、地元ミュンヘンを拠点に演奏活動に入っている。
日本では、アマデウス・コースに合わせ90年代まで日本の3大音楽事務所のひとつとされた神原音楽事務所の差配で「アマデウス・アンサンブル」に参加、元アマデウスQ団員や澤Qとの共演を重ねる。地方では、実力はあるがまだ無名の若手弦楽四重奏として、澤氏の紹介に拠る音楽事務所とは無縁の小規模な単独公演も行なっていた。
そんな風に日本の音楽ファンと直接の関わりを持ったヘンシェルQとすれば、大阪のコンクールへの参加は極めて自然な流れである。ヘンシェルQが訪れた地方都市や学校などの関係者は、彼らの大阪での優勝をまるで自分の親戚の出来事のように喜んだものだった。
その後もヘンシェルQは、日本の地方主催者との個人的な関係を築いて行く。彼らの日本でのキャリアは、その音楽を気に入ってくれた個々人と直接繋がることで作られていった。無論、先輩団体として彼らをサポートした澤和樹氏の力があったのは例外的な幸運である。だが、少なくとも大手音楽事務所が強力なプッシュをしたり、レコード会社と専属契約をし新譜を次々と送り出して名声を高める、所謂「メイジャーアーティスト」の展開はなかった。
創業者神原世詩朗氏が没し神原音楽事務所が解散になった後、旧社の流れを汲んだ事務所と関わりを持ったこともあった。だが、彼らが長年培った地方ネットワークと、東京の音楽事務所のビジネス作法とは、残念ながらあまり折り合が良くなかったようである。伝説となった2年前のサントリーホール・チェンバーミュージック・ガーデンでのベートーヴェン弦楽四重奏全曲演奏は、サントリーホールの直接招聘。この秋の来日も、東京藝大音楽部長澤和樹教授が個人で招聘し、法務手続きなどが必要な部分を業界関係者が手伝う形で実現している。
なにやら面倒な業界話になってしまった。要は、「ヘンシェルQの日本公演は彼らを聴きたいと思う個人や組織が直接招聘しているようなもの」ということである。実は、この秋来日団体の中には、他にも実質的には似たような形の招聘が行なわれている団体がある。ボッツィーニQは彼らを招聘したいと考えた若手作曲家らが音楽事務所に業務を依頼した例だし、プロメテオQ来日も某ピアニストが是非とも日本公演をと音楽事務所を動かした結果。ラテンアメリカQは大使館が事務所に招聘業務を頼んだようなものである。
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10月始め、関西国際空港に到着したヘンシェルQ一行がまず向かったのは、和歌山県立図書館だった。親友にして日本での恩人たる澤和樹藝大教授が、故郷和歌山の県立図書館メディア・アート・ホール音楽監督に就任したのを記念する演奏会に出演するのである。次に向かうは福岡。アマデウス・コース時代に共に学び、プロアマの枠を越えた共演もした福岡ハイドンQのメンバーたちがいる町だ。
そして辿り着いた東京、なんと演奏会はなし。東京藝大に招かれ、2団体にマスタークラスを行なうのが目的である。筆者が初めて出会ったヘンシェルQは、アマデウスQの賢人らの言葉に食らいつく素直な若者達だった。20数年を経た今、その彼らの言葉を学生達が必死になって追いかけようとする姿を見るのは、なんとも感慨深いものがある。
通訳無しの英語で行なわれたクラスは、ひと団体が90分を越える極めて実質的な内容。学生の弾くベートーヴェン作品18の6に対し、細かく具体的なコメントを与えていく。4つの声部がそれぞれの立場から与える指導の中には、「中声の仕事は、エネルギッシュに進もうとする音楽に抵抗し、キャラクターを邪魔すること」(ヴィオラ奏者モニカ・ヘンシェル)など、ヘンシェルQという団体の性格あってこそのコメントも。現役バリバリならではのマスタークラスであった。
翌日、長岡に移動したヘンシェルQは、旧知の澤Qと六重奏及び八重奏。前回の来日で聴かせたQエクセルシオとの大阪大会1&2位共演とはまるで異なる、落ち着いた響きの中に熱い情熱が渦巻くメンデルスゾーンが披露される。第1ヴァイオリンに坐ったダニエル・ベルのアマティの優しく甘い音が、決してソリストの音楽にならないのは驚きだ。
明けて、上越新幹線で再び東京へ。そのまま、今や首都圏の弦楽四重奏の聖地となりつつある神奈川県横浜市は鶴見サルビアホールに直行である。首都圏は敢えて大きな会場を避け、本当に聴きたい室内楽ファンのための飛び抜けて条件の良い会場での公演だ。わずか100枚の切符は、2年前のベートーヴェンでその力に驚いた聴衆で文字通りの満員。どんな狭い空間でも決して汚くならない音を背景に、ますます自在さが加わったクリストフの第1ヴァイオリンに対し、客席からは「師匠ブレイニンの芸風に近づいているのでは」との声も挙がる。
音楽家達は立ち止まらない。短い日本滞在の最後、岐阜サラマンカホールに向かう。ここでの公演は、ホール20周年を祝うフェスティバルの重要なゲスト。まだ大阪優勝前から岐阜の大学で演奏してきたヘンシェルQとすれば、自分らと同じ年月を重ねたホールのお祝いへの参加は名誉なことである。新横浜から直行し、まずは弦楽四重奏のコンサート。大喝采の客席が捌けるや、楽屋で待っていた地元団体との練習だ。明日は岐阜音楽祭のメインイベント、地元有志オケとの合同演奏なのである。前半は弦楽アンサンブルとのエルガー作曲《序奏とアレグロ》で弦楽四重奏パートの独奏を務め、後半はオルフ《カルミナ・ブラーナ》のトップに坐って弾く。コンサートマスターは、もちろん、エッセン・フィルハーモニーのコンサートマスターも務めるダニエル・ベルだ。明後日の帰国、迫っている颱風が心配だが、ともかく今は練習である。
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ヘンシェルQの日本公演は、こうして無事に終わった。このツアーで特筆すべきは、どの会場もそれなりの聴衆で埋まっていたことであろう。日本を訪れた弦楽四重奏団の多くは、とりわけ地方公演の場合、決して多くの聴衆の前で演奏が出来るわけではない。率直なことをいえば、どの会場もクァルテットの集客に苦しんでいる。「クァルテットは来すぎです」とはっきり口にする主催者もいる。そんな中で、地方でもこれだけの聴衆を集められるヘンシェルQは、例外と言えよう。
考えてみれば、それも当然なのだ。なにしろヘンシェルQは、彼らを聴きたい聴衆がいるところでだけ演奏しているのだから。日本各地の知り合いや友人を訪ね、毎回ほぼ異なる演目を披露し、地元のプロやアマチュアの音楽家たちと舞台で交流する来日。どう考えても「ビジネス」ではない。「私たちはこういうツアーが良いのです」と笑うヘンシェルQ、こんなプロフェッショナルの生き方もある。
地元のアマチュア・オーケストラとの共演は、ドイツではそれなりにあるというヘンシェルQ。来日公演でこんなこと引き受けてくれる団体、他にあるだろうか。音楽事務所の招聘ではあり得ない風景だろう。
第68回
ヘンシェルQの日本行脚
電網庵からの眺望
音楽ジャーナリスト渡辺 和
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