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北半球の夏が終わり、避暑地のフェスティバルから都市の通常シーズンへと音楽シーンが移る9月、アジアの三都市を巡ることになった。シンガポール、上海、ソウル――20世紀末以降の成長著しい、経済的にも精神的にも北アジアの辺境に逆戻りしたような停滞感が漂う東京を凌駕せんばかりの地域的プレゼンスを発揮しつつあるメガ・シティばかりである。今回から何度か、それらの都市で見聞きしたオーケストラとホールの在り方、はたまた文化資源としてのオーケストラの在り方など、綴っていこう。基本的には気楽な四方山話、娯楽読み物と思って戴きたい。
 
モータースポーツに関心のある読者ならば、去る週末に南国シンガポールでフォーミュラ・ワン・グランプリが開催されていたのはご存知だろう。ハイウェイで1時間もあれば国の東西横断が出来てしまうこの赤道直下の多民族国家は、流通経済のみならず、スポーツや文化でも特別な場所になろうとしている。国のど真ん中を封鎖し公道でナイトレースを行なうなど、東京ならばさしずめ皇居外周をサーキットにするようなものだ。
 
F-1カーが駆け抜けるのは、市庁舎や国会議会堂の前だけではない。21世紀初頭に完成し、一気にこの国のランドマークとなった総合文化施設エスプラネードが、ゴール前の最後の左コーナーに位置している。グランプリ開催前の1週間は、オフィスの前の道が柵で囲まれて仕事場に入るにも関係者パスが必要と、エスプラネードの制作スタッフは苦笑する。
 
巨大なドリアンを2つに割りシンガポール湾に並べたような建物の半分が、ベルリンフィルやヴィーンフィルも当地での公演を行なうコンサートホール。3月の東フィル世界演奏旅行もここで開催されている。だが、この如何にも今風な劇場が姿を顕す前は、エスプラネード前の最終ストレートに入るコーナーの向こう、運河に架けられた鉄鋼製のレトロな橋の彼方に聳える大英帝国植民地様式を絵に描いたような白亜の建物こそが、この地で最も歴史ある演奏会場だった。ヴィクトリア・ホールである。
 
 
ロンドンの英国国会議事堂を思わせる高い塔を中央に、左右にシンメトリーな低層階を有する白亜の建築物がシンガポール湾を見晴らす地に出現したのは、1862年だった。イギリス東インド会社のラッフルズが、この地を支配したジョホール王国スルタンから植民地として譲渡を受けて四半世紀ほどが過ぎたばかり。日本の明治維新が始まる少し前で、ドイツやイタリアなどヨーロッパの政治後進国がやっと統一され近代市民国家の形が整った頃のことである。
 
当初は現在の建物の半分で、塔もなく、市役所(タウンホール)として利用された。20世紀最初の年に隣にホールが建築され、直前に没した偉大なヴィクトリア女王を偲びヴィクトリア・メモリアル・ホールと命名される。同時に隣のタウンホールとの間に高さ56メートルのタワーも築かれ、両者の外観も整えられ、現在の印象的な外観が完成、市役所はヴィクトリア・シアターなる劇場となる。遥か欧州で第1次世界大戦が終わった翌年には、植民地の父ラッフルズの像が別の場所から塔の前に移され、この双子ビルは「大英帝国のシンガポール」を象徴するランドマークとなった。
 
以降、21世紀初頭に向かいの埋め立て地にエスプラネードが出現するまで、この場所はこの街(独立以降は国家)の風景の中心であり、波乱の歴史の中で舞台芸術の中心であり続けた。日本の外国人寄留地で初期のオペラ公演を行なった歌劇団の多くが、遥か東の島国までの旅の途中にこの地でも公演を行なう。第2次世界大戦初頭の日本軍侵攻時には、メモリアル・ホールの側が臨時の病院となっていた為に空襲での破壊を免れ、戦争中は劇場で日本からの慰問団も公演を行なったという。日本の敗戦後は、同じ場所が公開の戦争犯罪人裁判の会場となり、格式のある建物の中で審議は整然と進められたと記録される。1954年にはリ・クァンユー率いるシンガポール人民行動党がヴィクトリア・メモリアル・ホールで結成式典を行ない、1965年のシンガポール独立に向けた第一歩を踏み出した。以降、半世紀に及ぶシンガポールの歴史の中で、この場所の名は何度も登場する。
 
ヴィクトリア・メモリアル・ホールは、戦後にこの地で本格的に始まったオーケストラ活動のホームベースともなる。1980年には前年に設立されたシンガポール交響楽団の本拠地となり、正式名称が「ヴィクトリア・コンサートホール」と改名される。2002年にエスプラネードのコンサートホールに移るまで、定期演奏会などの活動を行なった。ちなみに政府からのホールリース料は、毎月1シンガポールドルだったという。実質上、シンガポール響はこの場所を自分の家としていたわけである。
 
 
なにやら偉そうにうんちくを傾けてしまったが、なんのことはない、コンサートホール1階ロビーに張り巡らされた同館の歴史資料展示の引き写しだ。案内してくれたエスプラネード制作担当プロデューサー女史は、もう数代に亘りこの地に住む純粋なシンガポール人。「私の曾お祖父さんが、この建物の建設時に現地スタッフとして関わってるの」と誇らしげに笑っている。シンガポール響事務局でキャリアをスタートさせたという彼女とすれば、ここはいろいろな意味で自分の場所なのだろう。
 
去る7月、長い改築工事を終え、外観はそのままに内部をモダンな劇場とコンサートホールに蘇らせた「ヴィクトリア・ホール」に、シンガポール響が帰って来た。改装工事中はエスプラネードに置いた拠点機能が、21世紀の劇場&コンサートホールとして新装成った古巣に戻ったのである。
 
筆者のような通りすがりの旅人にしても、この場所は随分と懐かしい。初めてこの地を訪れた1993年2月、東南アジアツアーのハレーQに同行してやってきたシンガポールは、その前に滞在したボルネオ島に比べると大都会。いきなり東京に戻ったようだった。
 
ハレーQの公演は東京文化会館風の国際様式のシンガポール会議場だったのだが(今もシンガポール・チャイニーズ管の事務所はそこにある)、たまたま到着した日にヴィクトリア・コンサートホールでシンガポール唯一の弦楽四重奏団タンQの演奏会があり、これはラッキーと駆けつけたのである。当時はまだシンガポール響の若き団員達の集まりで、その後、クリーヴランドに留学し研鑽を積む前(彼の地ではミロQらと同期で、遙々地球の反対側から武者修行にやって来た若者らの様々な逸話が今も伝わっている)、弦楽四重奏団としてはまるで手探り状態だった。今や国立ヤン・シュウトウ音楽院のレジデント・クァルテットとしてアジア地区で最も安定した活動をしている団体とすれば、聴いたなどと言われたくない黎明期の想い出かもしれない。
 
その後も、シンガポール響定期でショスタコーヴィチの交響曲を聴き、南国らしく20度以下に設定されたホール内温度に風邪をひきそうになったこともある。エスプラネードがオープンした翌年、上海Qが新ホールでシンガポール響とゾー・ロンの弦楽四重奏とオーケストラのための協奏曲を披露したとき、BISレーベルに同曲を録音する録音会場として使用するのを見学したのが、筆者にとっての旧ヴィクトリア・コンサートホールの最後の記憶である。主が去り、舞台上にマイクが林立し、関係者しかいない客席に録音用モニターが備えられたホールは、まるでスタジオ。冷蔵庫の中のように冷房されているのは変わらないものの、かつての栄光の面影はなかった。日本を追い抜けと急速な経済成長に邁進する都市とすれば、植民地の歴史で染め上げられた建造物など、旧跡に過ぎないのかもしれないと、妙な納得はしたものである。
 
あれから10年、どういう経緯でシンガポール響がこのホールに戻って来たか、詳細は省く。なんであれ、1600席のエスプラネード音楽ホールと1200席のヴィクトリア・ホールとは、共に非営利法人エスプラネードが一括して運営する巨大なアートコンプレックスの一部となった。シンガポール響は拠点機能を古巣に戻し、今シーズンからは定期演奏会を含む同団のコンサートも、内容や企画、聴衆対象によって会場を選び行なわれるようである(例えばインバル指揮マーラー交響曲第9番やミドリが独奏に登場する演奏会は、客席数の大きいエスプラネードで開催される)。
 
年に1度はF-1サーキットで遮られるとはいえ、普段は湾に水を吐くマーライオン像を眺めながら公園を挟み徒歩5分ほどの距離。関係者とすれば、事務所が改装中だった隣のビルに戻ったようなものなのだろう。
 
金曜の晩は、エスプラネード音楽ホールの舞台後ろに巨大なスクリーンを設置、シンガポール響が舞台に鎮座し、映像と共にライヴでシンフォニックな伴奏を提供するスペシャルコンサート「BBCプラネト・アース・イン・コンサート」が行なわれ、幅広い聴衆を動員していた(無論、指揮者ジョシュア・タンは、舞台上から「皆さん、定期演奏会にもお越し下さい」と宣伝するのを忘れなかったけれど)。翌土曜日午後2時からは、会場をヴィクトリア・ホールに移し、同じ指揮者で「子供のためのコンサート:ロアルド・ダールの《赤ずきんちゃん》」。シンガポール響、大忙しの週末である。
 
久しぶりに足を踏み込むヴィクトリア・ホールは、外観と大枠は同じだが、すっかりモダンなホールに様変わりしていた。無駄な装飾はなく、内装はすっきりとしている。響きも現代のホールとして必要充分なものだ。相変わらず冷房は猛烈に効いているのは、南国の公共施設の常として致し方ないところだろう。特にコンサートホールの場合、湿気の多い常夏の国という弦楽器に最悪の条件を少しでも緩和するために、意図的に冷やしすぎにするようだ。訪れる際には上に羽織るものをお忘れなく。
 
楽しそうに弾く少人数のシンガポール響の前でニューヨークから客演した劇団員が演ずるモダンな赤ずきんちゃん物語は、子供向けとはいえ、《ピーターと狼》のような勧善懲悪譚ではない。ちょっと捻りすぎではないかと思えるほどの内容だ。一筋縄ではいかないこの「子供のための音楽劇」を、熱心な親に連れられて食い入るように眺め、英語のギャグに大受けの頭の良さそうなシンガポールの子供達は、どう感じたのだろうか。これらの子供達こそが、明日の国際都市を、ことによると世界を、引っ張って行くことになるのだろうから。
 
新装成ったヴィクトリア・ホールには、今のアジアの熱気が溢れていた。この会場にいるときくらい、自信喪失から引き籠もり状態に陥りつつあるように感じられる日本のことは、敢えて考えないようにしよう。

改装なって往年のランドマークとしての美しさを取り戻したヴィクトリア・ホール。この写真の右側がコンサートホールで、左が劇場である。周囲が工事中風なのは、F-1レースに向けサーキット整備のため。

第65回

シンガポール響古巣に帰る

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版

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