「『ヴァイオリンはイタリア、弓はフランス』って、
よく耳にするんですが、本当にそうなんですか?」
 
食欲をそそる香りと共に、皿が運ばれてくると、
隣に座ったアマチュアの友人が、唐突に質問を投げ掛けてくる。
場所はイタリアンレストラン、目の前にはマルゲリータ。
なるほど。そういうことか。分かりやすい。
 
が、返答は難しい。
そうだとも言えるし、そうでないとも言える。
決して、いい子になろうとしている訳ではない。
簡単に「そうだよ」とは言い切れない現状があるのだ。
 
口をもごもごさせていると、次の質問が飛んでくる。
「そのヴァイオリンは-(私のケースを指差す)-どこの楽器ですか?」
ごめんなさい。イタリアです。はい。弓はフランスです。
「ああ。やはり、そうなんですね」
ええ。だけど。でも。あのね。えぇと。
 
これまで、いろいろなヴァイオリンや弓を見る機会があった。
正直、手にして心底「いいなぁ」と思うのは、やはり、
イタリアのヴァイオリンで、フランスの弓だった。
ただ、それらは大抵、誰もが知る有名製作者の作品、
アマティとか、グァルネリとか、グァダニーニとか…。
トルテとか、ラミーとか、サルトリとか…。
 
だからといって、近代、現代のヴァイオリンが同じ傾向か?
そう言い切れるか?と問われれば、強くは頷けない。
イタリアの楽器が、ワンランク高い傾向があるのも確かだ。
ただ、それ程に楽器の質や音色に違いがあると思えない場合もある。
 
「ヴァイオリンはイタリア」と言われる故由を無視することはできない。
そこには、ヴァイオリンと弓の奥深い歴史があるのだから。
 
それに、ああ、イタリアの音、やっぱり好きなんだよなぁ。
 
 
イタリアは身近だ。なにしろ、週に数回はパスタを食べている。
アラビアータ、カルボナーラ、ジェノベーゼ、ボロネーゼ…。
 
それに、イタリア人と、日に一度は会話をしている。
幾つもの傷痕を持ち、少し赤ら顔で、背に黄金の炎を背負う彼は、
1901年ピエモンテ州モンティーリオ・フモンフェラート生まれだ。
 
イタリア語だって、日常的に使っている。
まあ、音楽用語だけだし、話せる訳ではないから、
偉そうには言えないか。でも、他の言語よりは口にする回数は多い。
 
イタリアの曲だって、結構弾いている。
コレッリ、ヴィヴァルディ、タルティーニ、パガニーニ…。
 
でも、ふと思う。自分は、
イタリアについて、どのくらい知っているだろう?と。
 
何年か前、イタリアの著名なヴァイオリン製作者の、
『イタリアの楽器制作を見る』という講義を聞く機会があった。
本論も非常に面白く、大変、勉強になったのだが、
それとは別に、強く印象に残った文言がある。
「北イタリアと南イタリアはまったく違う国だと思ってくれ」
 
ヴァイオリンの歴史、楽器の特徴や技術、その拡散などを語るとき、
現在の“イタリア”をイメージして話してはいけないと。
 
『イタリア=長靴』を思い浮かべているようではダメということか。
この程度で「身近」なんて、おこがましいったらありゃしない。
 
クラシック音楽は、イタリアなくして語れない。
ヴァイオリンも、イタリアなくして語れない。
 
「でも、イタリアの曲って弾く機会、少なくありません?」…ううむ。
「古い曲ばっかりなんですもん」…確かに、バロックに集中している傾向あり。
「私は、やっぱり、ドイツ音楽の方がいいなぁ」
「え~、私はロシアだなぁ」「フランスだよ! フランス」「…」
 
 
“ジョヴァンニ・バティスタ・ヴィオッティ”、ご存じだろうか? 
イタリアのヴァイオリン奏者、作曲家。興行主としても活躍した。
モーツァルト(1756-1791)と同時代人である。
 
学習教材に、その楽曲が組み込まれることも多いから、
その名を知る人は、少なくないかもしれない。
でも、その楽曲が公で演奏されることは決して多くはないから、
その名を知る人は、少ないかもしれない。
 
そんな彼が、“ヴァイオリン史”的には、もしかすると、
パガニーニを抜くほど重要な人物であることは、
残念ながら、世間一般には認知されていない。
 
― ヴィオッティGiovanni Battista Viotti 1755-1824
 イタリア、ピエモンテ州フォンタネット・ポー生まれ。
 鍛冶屋の子だったが、幼くしてヴァイオリンの才能を開花させ、
 イタリア北西部トリノの宮廷に仕えることとなる。
 師であるプニャーニと共に、ヨーロッパ全土を演奏旅行、
 1782年コンセール・スピリテュエルで演奏、圧倒的な成功を収める。
 パリ音楽院の教授となったローデ、クロイツェル、バイヨらは、
 ヴィオッティに傾倒、彼の演奏法を取り入れた教本を作り、
 それに基づいた教育法で生徒たちを指導、
 『ヴィオッティ・スタイル』がヴァイオリン界に浸透することになる。
 マリー・アントワネットの宮廷音楽長となり、
 後にルイ18世となるプロヴァンス伯の支援を得て、劇団を立ち上げ、
 パリ市民に、イタリア・オペラ鑑賞の場を提供。
 フランス革命が激化すると、ロンドンに逃れる。
 この地でも、ヴァイオリニストとして高く評価され、
 ザロモン・コンサートにも出演、ハイドンとも共演した。が、
 なぜか、突如国外退去を命じられ、ドイツのハンブルクへ。
 公の音楽活動を止めた彼は、ロンドンに戻る。この地で、
 ワイン商売に手を出すが失敗。その経済状態から脱却するためパリへ。
 1819年パリ・オペラ座とイタリア座の音楽監督になるものの、
 昔日の名声を取り戻せぬまま、数年で再びロンドンへ向かうが、
 多額の借財を残したまま、不遇のうちにロンドンで死去。
 
 
生涯を辿れば、その激動の日々に目を奪われがちだが、
演奏家としての、特に教育者としての功績を見逃す訳にはいかない。
 
彼の演奏は、輝かしく技巧的なだけでなく、タルティーニの原則=
「よく演奏するためにはよく歌わねばならぬ」に忠実であり、
その情熱的で豊麗な演奏に、多くの人々が感動したと伝えられる。
 
『ヴァイオリン近代奏法の父』とまで呼ばれた彼の、
そのボウイングの力強さと優美さは、ヴァイオリン奏法の発展を強く促した。
ローデやクロイツェルの教えを〈エチュード〉という形で享受している我々は、
ある意味ヴィオッティの直系なのだ。感動…。
 
彼は、例えば、こんなことを語っている。
「ヴァイオリンを弾き始めるのに最も適した年齢は、私に言わせれば七歳である。それよりも早いと、身体的な初能力が十分に発達していないし、それよりも遅いと、筋肉がある程度固まってしまい、運動のしなやかさや微妙さを損なうことになろう」
「ヴァイオリンを手にする前にまず、理論的なことをよく勉強しておくことが必要である」
「音階を弾くときは先生も一緒に弾き、その後に生徒だけで弾くようにする」
 
ヴィオッティに傾倒した、当時のヴァイオリニスト達は、
我々が時にそうであるように、彼が使用する楽器にも注目した。
彼の愛器は、そう、ストラディバリウス(1709年製)。
演奏旅行中、その名技に魅了されたエカチェリーナ2世から、
直々に譲り受けたというヴァイオリン、今はその名も《Viotti》。
(ちなみに、『Viotti』の名を持つ楽器は数丁ある) 
ストラディバリウスが“名器”として脚光を浴びることになったきっかけを、
そして、ステータスを決定づけたのはヴィオッティなのだ。
 
1780年代に入った頃、フランソワ・トゥルト(トルテ)(1747–1835)は、
モダン・ボウ完成への最終段階に入っていた。
パリを訪れたヴィオッティが、それを手伝ったのである。参考記事・編集部)
1790年タイプの弓は『ヴィオッティ弓』と呼ばれている。
 
ああ、ヴィオッティ!
 
 
紀元前ローマ王国誕生、共和国となり、
ヨーロッパを塗り潰すような大帝国となり…。が、しかし、
ゲルマン人の侵入などによって徐々に国力を落とし、東西に分裂。
西側がさらに分裂してフランク王国に、それがさらに分裂して…。
 
刻々と塗り替えられていく地図。
イタリア半島に引かれるラインは、生き物のように蠢く。
 
政治的・経済的疲弊の中、
キリスト教会はヨーロッパの文化的中心であり続けた。
メディチ家がそうであるように、金を握るものが芸術を育てた。
そうして始まったイタリア・ルネッサンス、そこで興った学問や芸術が、
アルプスの山々を越え、波及していく。
 
芸術はイタリア。音楽はイタリア。見れば、当時の
ヨーロッパ各地の宮廷や教会、その音楽家の主要ポストは、
その多くを、招聘されたイタリア人が占めていた。
就職活動をするモーツァルトの前に立ちはだかったのもイタリア人。
そうだ。「芸術の都パリ」を抱えるフランスだって、
『ローマ賞』なるものを作り、世紀を渡って、
優秀な作曲家たちを、イタリアへ留学させていたじゃないか。
 
一瞬、不思議に思う。それほど力量を持つイタリアの音楽家たちが、
なぜ、他国へ流れて出てしまったのだろう、と。
 
「陽光はふんだんに降り注ぐが、土地は不毛、山に覆われ、地下資源にも乏しい」
政治的、経済的に厳しい状況が、そうさせたのだ。
芸術家だけではなく、科学者や学者たちも、他国での活動を余儀なくされたという。
ヨーロッパ全土あちこちで起きていた権力闘争が、結果、
音楽的財産の拡散に貢献したことにもなったのだから、皮肉なものである。
 
イタリアが、“イタリア”として統一されたのは、19世紀後半だ。
それも、すぐに落ち着いたわけではない。
半島の統一が終了してすぐ、第一次世界大戦を迎えてしまう。
その後も、ムッソリーニ率いるファシスト党が現われ、
第二次世界大戦で敗戦国となり、共和国として現在に至る。
 
 
『薔薇の名前』などで有名なウンベルト・エーコが、
イタリアについて書いた書を読む。溜め息が出る。
 
曰く。
イタリアは、イタリア人は、イタリア文化は、
調和的均衡を追い求めながらも、人間生活に価値を見出してきた。
幾多の戦争を経験し、多くの民族の侵入に甘んじ、
支配、貧困、不平等、ありとあらゆる苦しみを味わいながらも、
根っからの楽天主義をエネルギーに変えて、対応してきた。
人間関係を“芸”にし、悲しみの表現すら“ショー”に変えた。
 
Piove, Governo ladro!(雨だ、ちくしょう、政府のせいだ!)
公衆浴場や広場で、政治について討論し、
Mangiare, cantare, amare (食べて、歌って、恋して)
バルコニーで、愛を歌い語らい、
Uomo allegro, Dio l'aiuta (陽気な人は天が助けてくれる)
とびきりの笑顔を見せ、陽気に振る舞う。
 
ヴィオッティが全盛期のロンドンで書いた、ヨアヒムやブラームスも愛したという
《ヴァイオリン協奏曲第22番》を聞きながら、
彼が青年期まで過ごした“イタリア”を想う。
 
イタリア! イタリア! イタリア!
今日もパスタだ!

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第79回 Viva Italia!

G. B. Viotti Violin Concerto No. 22 I.Moderato - Itzhak Perlman 

© 2014 by アッコルド出版