そう、ヴァイオリン弾きは、いろいろな病に罹る。
診療所のドクターは、「ドクター」であるから、
痛みを抱え、悩み苦しむ人がいれば、その“病”を治し、加えて、
病気に罹らぬよう注意を促し、予防を訴える。当然だ。
 
だが、ヴァイオリン弾きの立場でいうと、
病気に罹かってしまうほど何かを追及する、その姿勢は悪くないと思う。
限界を知ることも大切だ。
それは、ときに、ひどく遠回りであったりもするし、
結果、致命傷を負ってしまっては元も子もないのだけれど。
 
『練習依存症』は、抱える問題が多いのでならぬに越したことはないが、
特に結果を求める必要なく、結果を出さねばならぬ期日がないのならば、
「練習が好きだから練習をする」というスタンスを否定する理由はない。
 
本を読むにしたって、読むこと自体が楽しい自分がいる。
結果として、何かが残ることもあるけれど、
いつもいつも、何かを求めて読んでいる訳ではない。
ヴァイオリンを弾いていれば幸せ、という人の気持ちは十分に分かる。
 
ただ、過ぎること、偏ることへの警鐘を鳴らすのは、
『医者』だけではない。『指導者』もそうである。
「この練習法がよい」と聞くと、こればかり。
「あの練習法がよい」と聞くと、あればかり。
健康法と同じ、そんな練習がよくないことは誰でも分かる。
 
だから、師は、「練習においては、『質』と『量のバランス』が重要」と言う。
が。しかし。考える。バランス? バランスって?
一流と呼ばれるヴァイオリニスト達が、その練習時間の多くを、
“スケール”に費やしていることを、知っている。
 
あらゆるテクニックや課題を、万遍なく少しずつ練習するのが「バランスよい練習」
なんて、つい思ってしまう人間には、信じられないほど、
“スケール”に偏った練習をしている。
 
彼らは言う。―「すべてはスケールに集約されている」と。
 
 
かのシゲティは、こう言う。
「どんなヴァイオリニストも、音階練習の代わりとなるものがあると、正気で考えはしないだろう。これこそ、音楽的な基礎作りをする材料として、貴重なかけがえのないものである」
 
ガラミアンもまた、言う。
「音階はヴァイオリンというものが弾かれ始めるようになって以来、ずっと、学ばれてきている」
(確かに、ジェミニアーニ(1687-1762)の奏法書にはもう、しっかり『音階』が載っている)
「それが非常に重要なのは、左手右手どちらについても、多くの技術的能力を発達させる手段として役立つものだという点にある。音階はよい音程を作り、手のフレームを確立する。両手に関連する運動のための訓練としても有効であり、あらゆるボウイングや弓の配分、デュナーミク、ヴィブラートなどの学習への応用は際限がない」
 
アウアーの流れを汲むヴァイオリニストに至っては、こうだ。
「すべての技巧の根底にあるのは音階です。音階を極めなかったもので、完成された技巧を所有したものはいません。音階練習はだれもがより高い熟達へ上がるための梯子です。単音、分散音、3度、6度、オクターヴ、10度のすべての音階を随時変化させて行なうことは、技巧の基礎になります」― エディ・ブラウン
「音階については、私は生徒に、3オクターヴのスケールが完全に弾けるように要求します」―A.サスラブスキー
「音階練習が最も重要なものです。アウアー門下は誰でも、毎日あらゆる音階を練習しなければなりませんでした」―トシャ・ザイデル
 
フレッシュの《ヴァイオリン演奏の技法》にはこうある。
「大抵のヴァイオリニストは、毎日一回、3オクターヴの全音階を全部、順を追って弾いて、自分の義務を果たしたと思っている。しかし、彼らはこの他に、少なくとも未だ25の技術的形式があり、それらが同じ権利を要求しているのを忘れている」(この後、一弦上のスケール、分散スケール、半音階などが挙げられている)
 
毎日、3オクターヴのスケール全調弾くことが、前提って…。
しかも、それでは足りないって…。
 
「最近は、どの位、練習している?」
「2~3時間です」
「で、スケールは、どの位、弾いてる?」 
え? スケールを弾く時間は、練習時間に入れないの?
これは、実際に耳にした、ある師と弟子の会話である。
そして、その弟子の答え=「2時間」。恐るべし。
 
「音階、アルペジオは、決して楽譜を見て弾くな」というヴァイオリニストもいる。
それだけ、身体に入っていないといけないものだということだろうか。
“スケール”は、ヴァイオリン弾きの血肉だと?
 
 
―音階 = Tonleiter, Skala(独) gamma(伊) gamme(仏) scale(英)
「音高素材を(一定の基準に従って)高さの順に配列したもの」。
 
“音階”そのものの説明は簡単だが、『類』『調』『旋法』など語り始めると、
とんでもなく時間が掛かる。説明し切れる自信もない。なので止めておく。
今、言いたいのは、ヴァイオリンにとって、ヴァイオリン弾きにとって、
“スケール”は特別だということだ。
 
他の楽器とスケール練習の意味が、目標が違う。
もちろん、滑らかに、速く弾けるようになることも大切。しかし。
 
「音程の問題は、音階練習と切り離すことはできないものと考える」―シゲティ
“イントネーション”だけでもない。
「(スケールの)大きな価値は、調性と和声の観念をつくり、内面的な音楽感覚を伸ばすことにあります」―ダビッド・マンネス(イザイ門下)
 
“調性格”については、現在に至ってもまだ激しく論じられるところだが、
ヴァイオリンは、ある種の「調性格」を体験できる楽器である。
(『調性格論』=種々の調がそれぞれ固有の性格・色を持つとする論)
 
ヴァイオリンが、響きやすく鳴りやすいG-dur、D-dur、A-durといった
「♯系の調」を得意とするのは、よく知られた話だ。
楽器として得意な調があれば、不得意な調もある訳で、
音域的な苦痛(各弦の高音域)があるように、調的な苦痛も引き起こされることがある。
圧迫感や緊張感も相俟って生まれる、こもった音色やくすんだ色合いなどが、
逆に、何とも言えぬ、幻想的な雰囲気を醸し出すこともあって。
 
スケール全調、続けて弾いてみれば、頭の中で、
次から次へと、いろいろな色が、いろいろな光景が広がる。
感じる温度まで違う気がする。調ひとつひとつに、まったく異なる世界がある。
ヴァイオリン弾きだけ(?)が味わえる、極上の幸せである。
 
 
『音階教本』なるものは、それほど数はないが、
一般的な教本の中にあるものを加えれば、スケール課題は相当な種類がある。
 
例えば。
調号が同じ長調と短調が交互に置かれ、調号♯や♭が一つずつ増えていくパターン、
始まりの音(主音)がG→As→Aと順に上がり、同主調を交互に弾いていくパターン。
一つの調を徹底的に、あらゆる形でマスターしてくパターン。等々。
 
なぜか? もう、お分かりだろう。
 
レッスンでスケール課題を弾き始めると、師は、よく一緒に弾いてくれていた。
初めて、それをしてもらったときの感動が忘れられない。
耳の奥が震えた。
美しいと思ったのだ。“音階”を。
耳に入ってくるのは、間違いなく“音楽”。自省する。
いつ、スケールを音楽から切り離してしまったのだろう?
 
思えば、楽譜の中には、
たくさんの“スケール”と“アルペジオ”がいる。
 
情けないほど長い間、『正しい音程』が何かを知らなかった。
ほかに頼りになるものがなかったから、ずっとピアノが指針だった。
正しいAは一つで、440Hz(当時)のAのみが『正しいA』だった。
平均律が何かもよく知らず、ヴァイオリンがその世界の楽器でないことも知らず。
 
三味線や尺八など、微妙な音程を操り、それを多用する楽器は、
聴くと気持ち悪くなっていたし、ハープやギターもまた、
なんて音程の悪い楽器だろうと思っていた。(昔の話なのでお許しを!)
己を知らぬ、頑固で勝手な耳。一体、何を聴いていたのか…。
 
そんな“耳”で弾いていたスケールである。
「この子、スケールを間違って認識しているわ」、師はそう思ったに違いない。
気付いてもらえてよかった。気が付いてよかった。
 
 
0-1-2-3-4-1-2-1-2-3-4-1-2-3-4-1-2-3-1-2-3-4
 
この数字なぁんだ? そう、 G線開放から始まる、
G-dur(ト長調)のスケール、3オクターヴ上行のフィンガリング。
こうやって数字だけ書くと、結構、複雑なことをしているのだと実感する。
 
「いやいや、私達だって、大変なんだから」
他の楽器の奏者の方々が、文句を言っているかもしれない。
じゃあ、これで、どうだ!
 
0-1-2-3-4-1-2 (1pos.) 1-2-3-4-1-2-3-4-1-2-3 (3pos.) 1-2-3-4 (6pos.)
 
ポジションを加えてみた。え? まだまだ? じゃあ、
 
0-1-2-3-4(G線) 1-2-1-2-3-4(D線) 1-2-3-4(A線) 1-2-3-1-2-3-4(E線)
 
参ったか! 弦も変わっている=右手のテクニックも絡む。しかも、
弦を移るタイミングとポジションチェンジのタイミングは、ずれている…。
 
いや、スケールが技術的にも難しいということを言っておきたくて。
 
しかも、これはほんの一例。このスケールだけで、フィンガリングは何通りもある。
それらを、ときには身体に叩き込んで、ときには即興的に選択して、弾く。
ヴァイオリン弾き、凄いだろう!
 
難なくスケールヴァリエーションをこなす、ヴァイオリニスト達。
こればかりは、練習の賜物だ。地道な。
 
もう一度、フレッシュに登場してもらおう。
「ヴァイオリニストの基礎技術が非常に程度の高いものであり、音階体系に含まれている技術的困難を征服できるならば、音階体系を取り上げ、それを規則的に練習することは、自己の技術的財産の減少に対して、保険を掛けるのと同じようなものである」
 
プロのヴァイオリニスト達は、決してスケールから離れない。
 
「しかしながら、我々の技術にとって不可欠のこの要素が、あたかも万能薬のように考えられて、演奏者が、練習の間、創造的、建設的に考える態度から遠ざかる習慣に陥ることを私は恐れる。音階練習は、ある人々には、速さ以外の何物をも意味しないだろうが、速さよりももっと包括的なものを求める人々には、全面的な“技術”そのものである」― シゲティ
 
 
スケールの練習については、必ずと言ってよいほど但し書きが付く。
 
「練習はゆっくりしたテンポで、常に音をよくすることを心掛け、一回の練習にあまり時間をかけてはいけません」―エディ・ブラウン
 
あんな、見るだけでげっそりする音階教本を書いたフレッシュをして、
基礎練習は、限られた練習時間しか持ち合わせていない人々のための、
「やりくり策」に過ぎないと言う。『音階体系』として短くまとめたもの、
これを課題曲の調で練習すれば十分だと。
『基礎練習』という名の魔物に取り込まれるな、囚われるなということだろうか。
 
それでも。
毎日、何時間もスケールを弾き続ける人がいる。
本番直前に、黙々とスケールを弾いている人がいる。
 
彼らにとって、それはもはや、技術練習ではないのだろう。
いや、練習ですらないのかもしれない。
スケールヴァリエーションを弾き続ける、彼らのその姿は、
祈りを唱える敬虔な信者のようにも見える。
 
音楽と一体となるための最良の手段、それが、
もしかすると、“スケール”なのかもしれない。
 
隷属的で従属的なスケール練習、そこに、音楽はない。
それでいいのか? 自分に問う。かといって、毎日、
感動しながらスケールを弾く、そんなことができるだろうか?
できるようになりたい、できるようにならねば、
そう思いながら、今日もスケールを弾く。
 
階段を登り切ることができれば、何かが見えるかもしれない。
そう、信じて。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第77回 天上への階段

© 2014 by アッコルド出版