寒さにも弱いが、暑さにも弱い。
ひと頃ほど、節電の声を聞かぬのをよいことに、ごめんなさい、
多くの時間、クーラーのご厄介になっている。
 
地震、豪雨、落雷、荒ぶる自然に、夜、停電ともなれば、
暗闇に耐え切れず、懐中電灯や蝋燭を必死で探し求める。
暑さもだが、やはり、「見えない」のはもっと怖い。
 
  神は言われた。「光あれ」。かくして、光があった。
  神はその光を見て、よしとされた。
  神は、光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。
  夕べがあり、朝があった、第一の日である。
 
“闇”という字の「門」は、観音開きの戸が付いた大きな門、
廟や寺院といった、聖なる場所への入り口を示している。
そこに、サイ(祝詞を入れる箱)を置いて神意を伺うことを“問”、
夜中に神の「音なひ(訪い)、音ずれ(訪れ)」を聴くこと、その場を“闇”と。
 
目の前に灯りが点れば、さっきまでの不安はどこへやら。
いずれは元に戻るだろうなんて、すっかり楽観的な気分になる。
「電力を失った未来」なんて想定のSFドラマを思い出して、
そうなったら、きっと生きていけないだろうなぁと、
まったく余所事のように考えている自分がいて…。情けない。
 
煌々と光に照らされ、朝も夕もなく、闇を失った環境の中で、
“神の声”を聴くのは難しい? 音を慈しみ、灯りに感謝することも。
夜、電気を消し、布団に入って、しばらくじっと静かに耳を澄ませる。
 
ふと、思う。
古の音楽家たちは、どういう“灯り”の中で生きていたのだろう?と。
作曲家は? その作業は、蝋燭一本でもなんとかなりそうだ。
でも、演奏家達は? 演奏する場は暗かった? 暗かったはずだ。
そう言えば、“燭台付ピアノ”なんてものも見たことがある。
 
 
「人工照明の起源は火である」 ふむ。
 
“火”の原始的な破壊性を内包しながらも、どこか幻想的で華やか、
神事や祭りにも使われる『松明』や『篝火』、
 
「燃料」と「燃焼の場」が空間的に分離され、制御され、
はじめて照明の形態を持った、静かに燃え続ける『蝋燭』。
これも古代からある『ランプ(ランタンorカンテラ)』。
(ランプの燃料は、魚油、植物油、鯨油、石油、ガス…と多種)
 
思えば、『蝋燭&ランプ』時代が妙に長い。
『ガス灯(器具)』が作られたのは、なんと18世紀末である。
―イギリスの技師マードックWilliam Murdock(1754‐1839)が実用化。
 
ということは、ヴィヴァルディ、バッハ、モーツァルトの時代の夜は、
そして、その室内の一部は、今からは想像できないほど、暗かった? 
貴族御用達多灯シャンデリアも、それほど明るいものではなかったという。
(ちなみに、ガラス製クリスタル・シャンデリアの製造は18世紀に入ってから)
 
『アーク灯』=電気利用の最初の光源「電気ロウソク」。
―アーク放電またはその電極で発光するランプ、通常「炭素アーク灯」をさす。
 35ミリ映写機や青図焼付機,探照灯用光源として利用された。
 
『ライムライト』(石灰光、灰光灯)なんていうものもあった。
 
『(白熱)電球』(1879) エジソン! 伝記、読んだなぁ。
―真空またはアルゴン・窒素などのガスを封入したガラス球に、
 細い抵抗線を入れ、これに電流を通じ白熱させ生じる発光を利用。
 アメリカのエジソン、イギリスのスワンJ.W.Swanによって発明された。
 
『蛍光灯』(1938)=蛍光放電灯 これはもう、ついこの間の話。
―低圧水銀蒸気中の放電を利用し、放電の際の紫外線を、
 管内面に塗布した蛍光体によって可視光(可視光線)に変換するもの。
 原型は1859年に生まれるが、完成は1938年。
 
そして、『LED』(1996)の今。
 
 
“光の都 Ville Lumiere”と呼ばれるパリ。
しかし、パリの夜もまた、17世紀まで闇に包まれていた。
夜は出掛けないのが常識だった。「表を歩くのは夜警と犯罪者くらい」
まだまだ、暗闇に支配されている時代において“照明”は、
権力の象徴であり、治安を維持するためのものでもあった。
反乱や暴動が起きると、街灯が攻撃目標になってしまうほどに。
 
照明器具がその進化・発展を見せても、当初使われたのは公共の場が主。
でなければ、工場などの生産の場。一般家庭に入るのはまだ先だった。
 
「無限の可能性を秘めた照明」と賞された『ガス灯』が、
世界を席巻できなかった理由、燃料や器具が高価だったというだけではないらしい。
=酸素を大量に消費する上、空気を汚す。
「劇場や夜の催し物に出掛けると、必ず激しい頭痛が起きる」
家具調度や飾り物、壁も天井も、ガス灯の影響で傷んだという。
 
エドガー・アラン・ポーは、こう書いている。
「ガス灯は、室内には合わない。ギラギラしていて、絶えずチラつくので目が痛くなる。
 審美眼を持つ人なら誰しも、こんなものを使いはしまい」
それやこれやの理由で、『ガス灯』はサロンからも締め出されていた。
 
パリ万国博覧会、1889年には『光の噴水』で、1900年には『電気館』で、
「照らす」だけだった照明器具が、さらなる鮮烈なデビューを飾る。
脱自然的、人工的で均斉、華々しく煌めく光、それらが充溢する空間。
近代照明は『視覚優位』をさらに広範なものに、厳然たるものにする。
 
このことは、当然、芸術の世界にも影響を及ぼす。例えば、
近代絵画―マネ、ドガ、ゴッホ、スーラ…。画風だけではない。
近代照明で照らし出された空間そのもの描かれている。
 
その時代のパリといえば、フォーレ、ドビュッシー、ラヴェル…。
パリ万博の影響は、すでに多く語られるところであるが、加えて、
頻繁にサロンに出入りし、多くの芸術家たちと活発に交流していた彼らが、
人工照明によって創出された、新しい「夜」を、輝く「光」を、
照らされる万物を、それを見る人の心性の変容を、意識しない訳がない。
 
 
限られた空間しか照らすことのできなかったロウソクやランプの炎、
それは、親密性の象徴でもあった。一方で、人工照明は、
人々に広く自由な空間を与え、同時に「距離」と「間接性」をもたらした。
 
ヴァーグナーの話を思い出す。
「オーケストラを隠したい」という彼の要求から生まれた、
舞台の端から観客席の間の空間。(それを彼は『神秘の深淵』と呼んだ)
彼は思ったのだ。「現実と理想を切り離さなければならない」
 
「観客は、舞台上の出来事が遠くへ移動したと思い込む。
 ところがそうなると逆に、出来事がすぐ間近なことのようにはっきりと
 感じ取られる。さらにその結果、舞台に登場する人物たちが巨人化し、
 超人的な姿に見えるという錯覚に襲われるのである」
 
「観客は、自分の席に腰をおろすやいなや、『テアトロン』という
 もっぱら見るために計算された空間、しかもその席が指し示す方向だけを見るために
 計算された空間にいることになる。観客と観客の見つめる光景との間には、
 明白に知覚できるものは何一つ存在しない。観客から引き離された光景が、
 夢の情景のような近付き難さで観客の眼前に示されるのである」
 
ヴァーグナー・マジックは、空間の工夫だけで行なわれた訳ではない。
照明の進化なしに、それは完成しなかったはずだ。
実際、バイロイト祝祭劇場での上演においては、観客席をかなり暗くしたという。
(それに不満が出たというから、これもまた面白い)
単なる社交の場から、非現実へ誘う芸術の、幻想の神秘の場へ。
 
自身を振り返れば、最初から照明ありきで、
暗くて楽譜が見えないとか、眩しいとか、
そんな「文句」レベルの話ばかりしている気がする。反省。
 
ある“場”のために書かれた曲に、その“場”が相応しいのは間違いがない。
それを、現代にそのまま再現すべきとも思わないが、例えば、
わずかな光源の中、密接な関係の人々の集まりのために書かれた曲を、
大ホールで、眩しいほどに照らされた舞台上で演奏する、そのことについて、
そんなときの演者の心のスタンスについて考えることも、大切な気がする。
 
 
画家は、見えないものを見えるようにする。
演奏家は、ない音を聴こえるようにする。
 
頭の中に鳴っているものを、音にする。
頭の中に鳴っているもの?
 
演奏家は、自分が過去に戻ることもできるし、
過去の作曲家たちを呼び寄せることもできる。
(タイムトラベル! これができるのは多分“演奏家”だけだ)
その二方向に正誤はなく、演奏家の裁量に任される。
 
「クラシック奏者」を名乗るのならば、
一度は、過去に戻ることも必要なのだろう。が、
正しくその時間に辿りつくためには、様々な知識や情報が要る。
 
知識人の対談で『創造‐想像』について語られていた内容が、胸に刺さる。
創造には、想像力が必要不可欠だと、でも、
「勝手に生まれた想像というのは、単なる空想に過ぎず、実を結ばない」
「観察や根拠に乏しい空想は、単なるスペキュレーション(憶測)でしかない」
 
他人の解釈に倣い、他人の演奏を真似し、
師の教えに沿うことで満足してしまっている自分は悲しい。
 
少なくとも、そのヒントは目の前にある。彼らはそう言う。
手の中の、一本の蝋燭のように。
 
 
照明が個の空間を「包む」ものになるには、20世紀を待たねばならなかった。
 
手元の光だけで、生きていけない訳ではない。
人工照明で眠らない地球、宇宙からの映像を目にする度に、
その美しさに感嘆しながらも、心の底で何とも言えぬ危機感を覚える。
 
西洋絵画に見られる蝋燭やランプの光の多くは、
神の臨在を示すものであるという。確かに、
それを見つめる人物たちは皆、深く瞑想しているようにも見える。
 
優しく、淡く、頼りなく、儚げな、暗い蝋燭の灯の下で、
曲を書き、楽器を奏し、音楽を愛で、神を感じていた、
そんな古の人々の時間を想像する。
 
「え~、蝋燭一本じゃ、譜面はよく見えなかったんじゃない?」
「あ、だから、譜面に執着がなかったのか」
「え、そうなの?」「いや、まあ、そんな感じかなって」
妄想、空想、これもまた楽し。
 
閉所恐怖症ではあるが、オーケストラピットは好きだ。
譜面が見えるギリギリの灯りの下、
狭い空間に入ることのできる限られた人々だけで密に作り上げる世界。
 
外界とのパイプは、指揮者だけ。
凛と立ち、舞台を見上げながら、真剣な表情で棒を振る指揮者は、
逆光のせいか、ときには光の羽を背負い、神々しくも見えたりする。
そうして、頭上の現実は、客席の夢となる。
やはり、オーケストラピットは好きだ。
譜面灯も。
 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第75回 光あれ。かくして、光があった。

© 2014 by アッコルド出版