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ローウェルとボードが抜け、元ティン・アレーQのウィンサーと元クーリッジQのキングが加わった過去2シーズンのオーストラリアQ。
去る8月15日、オーストラリアQの本拠地アデレードでの演奏会の当日プログラムに列挙されたスポンサーロゴ。隣のページにはオーストラリアQの理事会メンバーの名前が列挙されている。ご覧のように、まるでオーケストラの当日プログラムだ。
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当媒体を『ストリング』時代からお読みの読者諸氏なら、「タンクストリーム」という名前の弦楽四重奏団をご記憶だろう。オーストラリア各地から集まった4人の若者が結成したシドニー拠点の団体で、2002年の第4回大阪国際室内楽コンクール第1部門の覇者である。
https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00606/contents/008.htm
翌年秋には、大阪優勝ツアーとして21世紀2000年代に弦楽四重奏の聖地の勢いを示していた第一生命ホールのクァルテット・ウェンズディシリーズに登場、それなりの数のコアな室内楽聴衆が彼女らの演奏を耳にしたものだった。ちなみにちょっと奇妙な団体名は、シドニーに入植した移民らが最初に開いた水路とのこと。なかなか象徴的で、味わい深い名称ではないか。
大阪優勝後、翌年にはロンドン大会に参加、残念ながらセミファイナルで終わった。その数ヶ月後、大きなプレッシャーを背負いつつ臨んだ彼ら・彼女らとしての決戦たるメルボルン大会では、この大会始まって以来初の純正オーストラリア団体のファイナリストとなるも、パイゾQ及びクレモナQの後塵を拝し3位に終わる。
さらなる飛躍のためにはヨーロッパでの研鑽が必要と判断、既にシドニーで家庭を持っていたチェロのマーフィーが留学を断念、ニュージーランド人で元ボザールQのバーナード・グリーンハウスに学んだジョンストンに交代する。以降、ケルンでアルバン・ベルクQに学ぶなど、21世紀初頭の若手団体として積むべき研鑽を積み、最後の闘いとして2005年にはこの頃の世界最難関だったボルチアーニ大会に挑んだ。結果は誰も知らなかった伏兵パヴェル・ハースQが優勝、新生タンクストリームQは2位に甘んじることとなる。
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実質上の欧州メージャー団体へのパスポートたるボルチアーニ大会で優勝を果たせなかったタンクストリームQは、その秋に故郷に戻る。いきなりの世界制覇を目指すのはひとまず諦めたようだ。広大な大地に点在する都市に室内楽愛好家が広がり、未だにABC放送や『ストラド』誌の影響が絶大、常設団体としてのそれなりに安定した活動が期待出来るオーストラリア大陸でのキャリアを、本格的に始めることにした。そして2007年、タンクストリームQがオーストラリアQを襲名するというニュースが遥か南半球から伝えられる。大いに吃驚させられたものだった。
80年代初めにアデレードで結成され、その後、南オーストラリア大学のレジデンシィとして活動を展開してきたオーストラリアQは、世界でも稀な安定した基盤を有する弦楽四重奏団である。
大学のレジデンシィならアメリカでも珍しくない。いや、有り体に言うと、世界に片手ほどもないスーパースター団体を除けば、弦楽四重奏団が常設として活動し生活の基盤を安定させ得る実質的に唯一の方策だ。
なにしろオーストラリアQは、きちんとした理事会を持ち、数多くのスポンサーからのドーネーションを受けている非営利芸術団体。団員が兼任しないエクゼクティヴ・ディレクターを置く弦楽四重奏団など、世界にも他にあるのだろうか。要はメイジャー・オーケストラやオペラ団体と同じ組織形態、演奏者がたった4人しかいないだけのことなのである。
興味深いことに、結果としてオーストラリアQは極めてメンバーの出入りが激しい団体となっている。オーケストラに就職するように既存のきちんとした団体に就職するのだ。逆に考えれば、自分らで必死にやっている零細自営業の弦楽四重奏とは異なり、辞めるのもそれほど難しいことではないのかも。
後輩格のティン・アレーQがバンフで素晴らしい成果を上げる頃、どうやらこの団体にちょっとした内紛が起きていた。あくまでも団内の内部事情で何が起きたかは公式に発表されているわけではないが、この頃のオーストラリアの室内楽ファンが心配そうに記したブログ記事などを拾い読むに…どうやら理事会と団員の間で労務関係を巡るトラブルが勃発、実質的に理事会側がメンバーを解雇し、タンクストリームQをシドニーから呼び寄せて新たにオーストラリアQとして契約した、というのが真相の一端のようである。日本の弦楽四重奏業界では起きようがない、ある意味、羨ましいような話だ。
この時点で「さらばタンクストリーム」だったわけだが、筆者も大阪国際コンクールのスタッフも、このニュースに大いに快哉を叫んだものである。タンクストリームという名前がなくなるのは淋しいけれど、オーストラリアとすれば最高の出世を果たしたわけである、これを喜ばずにいられようか。
それから4シーズンの間、「元タンク」のレディ達は、順調にキャリアを重ねていった。オーストラリア主要都市を巡るシーズンに4回程のツアーをメインに、アデレードでの教育や春の初めの自分らのフェスティバル、ドイツのフェスティバルに参加する海外ツアーなど、常設弦楽四重奏団としての活動を続ける。このままあと10年20年と活動を続け、オーストラリアを代表するばかりか、世界を代表する団体となることも可能なポジションであるかに思えた。
なお、このときに「オーストラリアQ」を脱退したメンバーのうち、第1ヴァイオリンで金沢出身の吉本奈津子とヴィオラが、シドニーを拠点に新たにグレインジャーQを結成する。そのチェロに迎えられたのが、国を去るわけにいかず脱退を決意せざるを得なかったタンクストリームQ創設メンバーのマーフィーだったのは、なんとも皮肉である(弦楽四重奏の世界はそれほど狭いということだ)。
ちなみにこのグレインジャーQ、どうも活動を軌道に乗せられなかったようで、2シーズンほどで解散し、吉本は現在アデレード響コンサートマスターを務めている。筆者が去る土曜日に見物したフィリップ・グラスのオペラ《サティアグラハ》でも、ピットの中から長丁場の難曲をしっかりリードしていた。
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日本が大震災で文字通り大揺れとなった2011年、なんとか開催された大阪大会の数ヶ月後に、メルボルン大会が恙なく行なわれた。会場には、オーストラリアQとティン・アレーQの年間演奏会案内も置かれていた。手に取って、みんな随分と垢抜けたなぁ、と苦笑を禁じ得なかった。どんな活動をしているのか、立派なパンフレットを読んでいくと、なにやら妙なことが書いてある。
どうやら、タンクストリームQ創設以来のメンバーだった第1ヴァイオリンとヴィオラが今年で抜けるようなのだ。そして翌年、新たなラインナップとなったオーストラリアQの第1ヴァイオリンに居たのは、バンフ大会で優勝直後にティン・アレーQを脱退していたクリスティアン・ウィンザー。そして、クァルテット・エクセルシオやパシフィカQが参戦した1999年のメルボルン大会にクーリッジQとして参加し、唯一のオーストラリア人奏者としてメディアが盛んに追いかけていたステフェン・キングが、ヴィオラの席に座っていた。
どういう経緯があったのかは知る術もないが、結果として、オーストラリアQは20世紀末から21世紀初頭にかけてオーストラリアから出現した室内楽奏者の選抜メンバーから成るドリームチームになってしまったのである。なるほど、この団体の在り方からすれば、このような形になっても不思議はないな、と妙な納得をしたものだった。
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そして、2014年になった。オーストラリアとすれば対日戦勝記念日の8月15日、アデレードのタウンホールで久しぶりにオーストラリアQの演奏を聴いていた。筆者がこの団体をその前に聴いたのは2007年、シンガポールのエスプラネードのことである。吉本が第1ヴァイオリンに座り、老練な男性3人を率いるフォーメーションだった。ここアデレード滞在の目的は、史上初のフィリップ・グラス初期伝記オペラ三部作一挙上演が行なわれるため。滞在中のオペラ公演が休みの日にオーストラリアQが今年3度目の国内ツアーで本拠地アデレードで公演があると知り、久しぶりにタンク創設メンバーのセカンド嬢(今更「嬢」はなかろうが)に会えるな、予告無しで楽屋を訪れて吃驚させてやろう、などとニヤニヤしていたわけである。
さて、結論から言えば、巨大なオルガンを備えて、広さに似合わずとても響き、室内楽にも問題ないアデレード・タウンホールの舞台の上に、「元タンクストリーム」のメンバーはいなかった。ひとりとていなかったのである。第2ヴァイオリンはロシア移民の若い女性、チェロはメルボルンの若手大会でそれなりの成果を上げた団体から移籍したこれまた若い女性である。2014年シーズンのプログラム冒頭には、「新しいフォーメーションのオーストラリアQにご期待下さい」と記されている。どうやら今シーズンから、このメンバーになったらしい。
新たなオーストラリアQがどんな音楽をしたのか、ここでは敢えて記すまい。ただ、この第1ヴァイオリンと一緒に音楽をするかどうか、真剣に考え、悩み、脱退という結論を出すのは、誠実な室内楽奏者として決してあり得ない選択ではないと、筆者には思えた。この第1ヴァイオリンには、彼に付き従える者が一緒にやれば良い。そうでなければ、この特異な才能は生かせないだろう。
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かくて、タンクストリームの流れは枯れた。だが、総計5人の若い音楽家たちの12年と少しの活動に、意味がなかったわけではない。世界マーケットへと目指した真っ正面からの闘いに果敢に挑んだ初の純正オーストラリア団体の存在は、この国の若手演奏家や室内楽業界も大いに刺激することになる。メルボルン大会は自国の団体育成のために、本大会の中間年に環太平洋若手団体向けの大会を開催するようになる。そんな中からティン・アレイQという逸材も出現、2007年のバンフ大会で優勝という、先輩タンクストリームを凌ぐ結果を出すに至った。タンクストリームが開いた新たな水路を辿り、次々と若い才能が漕ぎだして来たのである。
最後に、些か長くなるが、メルボルン大会が終わった翌日に、創設メンバーのタンクストリームQに行なったインタヴューの一部を再録させていただこう。この若き日の発言から11年、思えばいろいろなことが起きたものである。これが音楽家という生き方なのか。それとも、室内楽の特殊性なのか。
さらば、タンクストリームQ。
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──皆さんはシドニーの音楽院で教えているということですが、その前から室内楽のクラスはあったんでしょう。
ローウェル(第1ヴァイオリン):ずっとありました。
マーフィー(チェロ):私たちにとって幸運だったのは、学校が私たちの最初からクァルテットとしての活動を積極的に助けてくれたことです。
ボウド(ヴィオラ):私たちがシドニー音楽院のレジデント・クァルテットとしていることで、ますます学生が室内楽やクァルテットに関心を持つようになっていることは確かです。学生たちは私たちが毎日練習するのを眺められますし、教えて、クァルテットであることはどういうことかいろいろ質問したり出来ますから。
──このようなコンクールでは、ジャーナリストとしては参加者の経歴に関心を持つのですね。そこには「アマデウスQに師事」とか「アルバン・ベルクQに教えを受ける」とか、そんな偉い有名な先生の名前が並んでいる。ところが大阪で初めて拝見したとき、みなさんにはなにもなかった。ホントになにもないところから来ている。
ボウド:あのころはまるでありませんでしたね。
マーフィー:でも私たちには素晴らしい先生のアリス・ワトソンがいました。一度や二度のコーチを受けるのではなく、彼女は長い間、いつも学校にいてくれました。音楽を聴き、評価することに関しては、驚くほどの能力がある先生でした。人々は弦楽四重奏はその専門家から習うべきだという考えを持つでしょうが、常にそうである必要もないと思います。確かに長い間弦楽四重奏に専念した人たちの特別な教えには、素晴らしいものがあります。でも、最も重要なのは日々の教え。
──先生の教えはどのようなものだったのですか。楽譜の読み方、それとも弾き方。たとえばこの曲のこの部分はダウンボウで弾けとか、このsfzはこうするべきだ、とか。
全員:違います。
マーフィー:お互いをどう聴くか、それからその瞬間に大事なことにどのように気付くか。何が起きていて、何がうまくいっていないか。そのときに全体の中でどうしたら良いのか。
──大阪では皆さんのアンサンブルの純粋さにビックリしました。つまり、ヨーロッパの団体を聴くと、「この団体はピヒラーに習っているな」とか「アマデウス系だなぁ」とか思うことがあるけど、そういうものがまるでない。
全員:ええ(笑)。
──で、それでいて4人のバランスが飛び抜けて優れている。今回もその傾向が変わっていなくて、凄く嬉しかったんですね。これからヨーロッパでお習いになるというのですが、正直に言って、オーストラリアに住んで、他のグループのようにレギュラーで有名な先生に伝統的な弾き方を習っていないことに、ハンディキャップを感じることはありませんか。
ホートン(第2ヴァイオリン):いつかはそういうことを学ぶべきだとは思っていますが、現時点において、自分たちで理解し、これが自分らの音であるというものを創り出すことが大事だと思っていました。自分らの音を創ること。
ボウド:全体としてのバランスを創ることが弦楽四重奏にとって一番大事ですし。
マーフィー:私たちには疑問点がたくさんあるんですよ。
ホートン:ホントにそう(笑)。
マーフィー:自分らに拠点があり、誰にも作られたわけではないことは、とても幸せだと思っています。
──この夏にヴィーンに行かれるということですが、何を期待なさってますか。
マーフィー:2週間の集中的なマスタークラスで、ピヒラー先生やシュカンパ先生など、録音ではずっと聴いていた先生たちに実際にあって、直接の指導が受けられるのです。とても期待しています。何よりもいつも聴いていた「抒情組曲」です。あの曲をアルバンベルクQの方の前で弾くことが出来るのですから。どう思われるか。
ホートン:質問したいこともたくさんありますし。
ボウド:逆に、ピヒラー先生からのいろんな批判にも耐えられるくらい強くなっていなければならない(笑)。
オーストラリアQを襲名した第2代タンクストリームQが遺した貴重な録音のジャケット写真。チェロが大阪大会や優勝団体ツアー時のマーフィーからジョンストンに交代しているが、ボルチアーニ大会でハースQに次ぐ2位となったメンバーそのままである。
第59回
さらばタンクストリーム
電網庵からの眺望
音楽ジャーナリスト渡辺 和
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