地元の音楽教室、その内容が充実していたといっても、
残念ながら、アンサンブルやオーケストラを学ぶ場はなかった。
 
『専門教育』と銘打っていても、あって然るべき内容、
あるとよいであろう内容すべてが、網羅されている訳ではない。
それらの入力にあたって、適切な時期というものがあるが、
これもまた、与えられるべき理想的な時期にそれが為されるとは限らない。
 
その要不要についての論議はさておき、例えば、
「“絶対音感”教育を受けておきたかった」と嘆く人がいるのも事実だ。
 
ヴァイオリニストにならんとする人々に何がどれだけ必要か?
その最低ラインの設定が可能だったとしても、その逆は難しそうだ。
 
中学時代にわずかな期間、学ぶ機会を得たものの、
本格的なオーケストラの勉強を始めたのは、音大に入ってから。
多くの同輩たちが、すでにオーケストラ&アンサンブル経験者であり、
少なくない知識とテクニックを手に、何の不安なく授業に臨んでいた。
羨ましかった。楽しそうに弾いている彼らが。
 
母校のオーケストラの授業は、それでなくても“特別”だった。
時間ともなれば、合奏室としてはそう広くない部屋に、
すでにプロとして通用する実力の持ち主たちがひしめく。
指導陣の顔ぶれがまた、錚々たるものである。
(ピアノ脇では、若き小澤征爾氏や秋山和慶氏等がよく談笑していた)
 
上下関係など社会的常識が若干緩い、特殊な環境ではあったが、
オーケストラは特別。そこには、様々な「厳しさ」が。
遅刻でもしようものなら、しんと待つ全員の前で指揮台に立ち、
その理由を述べなければならない。そんなこともあって。
 
ピリピリした雰囲気を引き摺ったまま始まる授業。
何もかもがほぼ初めての人間にとって、それは地獄のような時間。
今でも、たまに、分奏で一人で弾かされる夢を見る。(笑)
 
 
何も知らぬまま、何も分からぬまま、
パート譜を手渡される。楽譜を渡されれば、
それを弾けるようにすればよいと、それが弾けるようになればよいと、
いつもの習慣で、素直にそう思い、素直にそういう練習を重ねる。
 
課題曲が、まったく見知らぬ曲ならば、
もう少し、焦って、ほかの対策を考えたかもしれない。
けれど、最初の頃の課題はといえば、ビゼーの《アルルの女》だったり、
モーツァルトの《ディヴェルティメント》だったりと、耳馴染みの曲ばかり。
楽譜の再生自体にも、それ程ひどく苦労することがない曲達だから、尚更だ。
 
もちろん、ソロ曲を学ぶ過程では、なかなか出会えない、
延々続くスピッカートや付点のリズム、“刻み”といった、
オーケストラ特有のテクニックに面喰うことはあった。でも、
乗り越えられないほどではないから、やり過ごして終わる。
 
分奏を担当する指揮科の学生(共に勉強する仲間だ)が、
スコアを必死に勉強し、真っ黒になるほど書き込みする姿を見ても、
自身にその必要性を感じることもなかったし、
それが必須事項だと指摘、助言してくれる人もいなかった。
 
やがて、楽曲がより複雑なものになり、
「自分が何をしているのか」分からないシーンにぶつかり、やっと、
パートとしての、個としての、自身の役割を考えるようになる。
その重要さに気付き、慌ててスコアを買ったりもした。
 
ここに至ってようやく、自覚するのである。
それまでの自分はひとつのパーツに過ぎなかった、と。
それも、重要なパーツではなく、意味も価値もないパーツ。
 
弾けているだけでは、何の役にも立たない。
下手をすると、「邪魔だ」と言われたりもする。
 
必要とされていないのではなく、必要とされる努力をしていない自分。
そもそも、どうなれば必要とされるのかも分かっていない自分。
 
『オーケストラ』という現場で、自身の“存在意義”を問うことになろうとは。
 
それでも、そのことに気付いたのは、小さな進歩だったのかもしれない。
しかし、これでは足りなかった。一歩を踏み出したに過ぎなかった。
 
行き着くべき場所に行き着かぬまま、無情に日々は過ぎ、
ある日、アマチュア・オーケストラの、
“高弦(ヴァイオリン&ヴィオラ)トレーナー”という仕事が舞い込む。
 
 
音大生とはいえ、オーケストラ経験はこんなもの。
経験年数で言えば、実質、仕事先の学生さん達と大して変りはない。
しかし、「ヴァイオリンとの関わりは自分の方が深い」という、
根拠のない、思い込みに近い自負がある。
 
ヴァイオリンの演奏について助言すればいいのだろうと、
音大で今、学んでいることをそのまま伝授すればよいのだろうと、
何も知らない故の能天気さで、ほいほい引き受け、仕事に行く。
 
あるオーケストラでは、ブラームスの交響曲第2番。
あるオーケストラでは、ベートーヴェンの交響曲第5番。
思う。「楽勝!」…なんて、身の程知らず。
 
まずは、一人ずつのレベルアップをと意気込むが、
目の前に真面目な顔をして座っているのは、ほとんどが『初心者』なる人たち。
音を出せば…。嘘でしょ、これで10か月後にブラームス弾くの? 
申し訳ないと思いつつも、心の中でぼやかずにはいられない。
 
でも、でも。本人たちは、とてもとても真剣だ。
意欲もある。練習もする。言うことも聞いてくれる。
でも、手が全く追いつかない。とんでもない音が飛び出してくる。
 
考えてみれば、こんな雑音塗れの音楽、聞くことがない。
そのせいか、練習を終えれば頭痛がする、吐き気がする、目まで痛む。
申し訳ないとは思うが、身体の拒否反応だけはどうしようもない。
 
必死に個人的アドバイスを試みるが、レッスンのようにはいかないし、
如何せん、練習時間が限られているから、すぐには効果が表われない。
個人だけではない。ヴァイオリンパートとしても、弦楽器群としても。
一カ月…二か月…、これといった成果が上がらず、
焦る。落ち込む。疲弊する。
 
このままではいけないのは分かる。何かを変えねばと考える。
経験値の高い同業者に、指導の様子を見せてもらう。
合奏も見に行き、指揮者の指導法を研究する。
 
靄の向こうに幽かに影が見える。
そんなとき、今度は、“弦分(弦楽器分奏)”を頼まれた。
 
 
「弦分、見て頂けますか?」 簡単に言ってくれる。
 
ヴァイオリン&ヴィオラだけでも、ひいひい言っているのに、
さらに、チェロやコントラバスのパートも勉強しなければならない。
 
「演奏会の成功は、弦楽器にかかってるんです!」 そう…だよね。
 
音を出すためには、一応、指揮もしなければならない。
譜面台をカンカン叩いて弾いてもらうこともできるが、それでは何の意味もない。
指揮法の本を片手に、指揮科の友人に基礎の基礎を教わる。
 
「弦楽器のこと、よろしくね」 指揮者がニコニコ言う。
 
かつてないプレッシャーを背負い、
右手に鉛筆、左手にスコア。時間と空間を課題曲で充たして、
読む ― 聴く ― 書き込む ― 読む ― 聴く …。
付け焼刃と分かっていても、しない訳にはいかない。
 
もうダメだ。無理だ。いっぱいいっぱいで指揮台に立つ。
そうして弦分を始めた瞬間、目の前がパァッと明るく開けた。
 
耳の中でバラバラだった音が一瞬で融合し、
溶け合ってできた響きが、頭の中で光となって輝く。
まるで映画のワンシーンのように。
 
実際の音はぐちゃぐちゃで(申し訳ない!)、
理想には程遠い音だったけれど、この耳には、
なぜか、そういう風に聞こえたのだ。
 
 
そんなこと、当に分かってなければいけなかった。
オーケストラの授業で何を注意された?
「指揮者を見ろ」と。「タイミングを合わせろ」と。
「他のパートを聞け」と。「隣と溶け合え」と。
「バランスを考えろ」と。
 
『聴く』ということ。『見る』ということ。『考える』ということ。
 
耳が、目が、“自分”から離れたことがなかった。
いつも、『自分の耳』『自分の目』だった。
パートトップの、指揮者の、聴衆の『耳』そして『目』。
「なれ」と言われ、なったつもりでいたが、なり切れていなかった。
 
頭も、“自分”から離れたことがなかった。
いつも、『自分中心』に考えていた。
全体の中の部分であることを、部分の中の個であることを、
「考えろ」と言われ、考えもしたが、スタンスを間違えていた。
 
以来、ヴァイオリンの、ヴィオラの、コントラバスの、
金管の、木管楽器の、打楽器の、指揮者の、許可がもらえれば、
その後ろで、横で、間で、演奏を聴かせてもらった。
会場に入れば、上手で、下手で、客席のあちらこちらで、
“オーケストラ”を聴く。見る。
 
愛しき歯車たちが、どう演奏すると、どう聴こえるのか。
自分のすべき演奏が、次第に形を成してくる。
 
改めて、オーケストラのヴァイオリン弾きについて考える。
例えば、「セカンドヴァイオリン 4Pult 裏」で弾く。その意味。
 
そして、改めて、トレーナーという仕事について考える。
 
 
思えば、アマチュア・オーケストラは凄い。
楽器を初めて一年経つか経たないかの人たちが、大曲を弾いている。
それを無謀とは、もう言わない。
 
だって。
恐るべし! オーケストラ初心者の上達速度。
学習過程における、『無理矢理』の重要性を知る。
いつも、石橋を叩いているだけではダメなのだ。
ときには荒療治が必要なときもある、という発見。
 
「好き」という力の大きさを知ったのも、この現場だ。
 
“アンサンブル・マジック” 
=一人ずつが弾けていなくても、弾けているように聞こえる。
ごまかし? あやかし? アンサンブルが起こす奇跡。
それもまた、理論とテクニックで裏打ちできる。
 
オーケストラ奏者とソリストでは、必要とされるものが違う。
オーケストラとアンサンブルもまた。
 
いろんな『役柄』に挑戦できるヴァイオリン弾きは、楽しい。
それを伝える仕事も、また楽しい。
 
ところで。
恐ろしいことに、人は雑音には慣れる。
昨今、どんな演奏を聞いても、(それが仕事ならば)、
頭痛も吐き気も起きなくなった。
 
やはり、人間は凄い。(笑)
 
この慣れが、鈍化であってはいけない訳だが、
経験値分くらいは、聴き取れていると思われる。
最近は、老化による耳の退化も心配な年齢になってきたが、
これも今のところ、それなりにやっていけている。
だから。もう少しだけ、がんばってみよう。なんて。
 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第74回 今日も歯車に磨きをかける

© 2014 by アッコルド出版