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ドビュッシーの弦楽四重奏曲を、間近で聴く機会があった。
この編成ならではの、輪郭が見えないまでに溶け合った深く厚みのある響き。
詩的で美しい旋律、独創的で大胆な和声、甘く絡み合うリズム。
目に映るのは沈みゆく夕陽、迎える夜の帳、演者を照らす強く優しい光。
 
音高を自在に操れる楽器でなければ、決して出せない、
純正な響きやナチュラルなメロディライン、そこに生み出され、
空間を支配する圧倒的なまでの「何か」。それらに包まれ、
楽器と音と自身が、一体化していくような不思議な感覚を味わう。
 
小さな空間だ。
肌で振動を感じる。文字通り、心が揺さぶられる。
何とも言えず幸せな時間。
 
もしかすると、その“時間”は、
その場を共有した人々皆で作り出したものなのかもしれない。
音楽の魔法。
それは、大きな“ハコ”では味わえないもの?
 
奏者との距離、それについて改めて考えさせられる。
 
 
―ドビュッシーの《弦楽四重奏曲》。
転機を迎えていたドビュッシー31歳(1893)のときの作品である。
同時期に着手された《牧神の午後への前奏曲》と共に、
“ドビュッシーらしさ”が強く発現した、とても重要な作品。
 
イザイ四重奏団に献呈され、国民音楽協会の定演で初演されている。
「きわめて魅惑的な芸術作品」といった評価もありながら、
大きな話題を呼ぶことはなかったというから、『世間』は分からない。
 
20世紀の音楽はドビュッシーと共に始まったとも言われる。
『始まり』の『始まり』の曲を聞きながら、時を想う。
 
そして。
申し分ないレベルに達しているとはいえ、未だ20代半ばのプレーヤーたち。
無限の可能性を秘めた彼らの「これから」を想う。
 
聞けば、カルテットのメンバーの一人が、コンクールに参加し、
前日入賞を果たして帰ってきたばかりだと言う。
凄いなと、思う。本当に、凄い。
 
自身の体験を重ねるのもおこがましいが、
入試や学校の試験を受けるだけで、ひいひい言っていたのだ。
ましてや。ましてや、である。
 
時が来るまで絶え間なく心身を襲うストレス。
受験会場に行けば、知らない場所、慣れぬ環境。
待っているのは、『評価』され『結果』が出るという厳しいシチュエーション。
当然襲う、普段にないプレッシャー。
そうして、望む結果を得られるのは、ほんの一握りの人だけだ。
 
想像しただけで、胃が痛くなり、手が震える。
そういう状況を楽しめる人もいるのかもしれない。いや、いるのだろう。
それができる人もまた、一握り。
 
コンクールにもいろいろある。ときには、
結果に不満が出ることも、在り方そのものを問われることも少なくない。
音楽という、点数で評価することなどできようのないものを、
そして本来、競う必要のないものを、そういう場に引き摺りだして、
順位をつけようというのだから、問題が起きても驚きはしない。
しかも、審査員は「人」だ。限られた人数の。
もちろん、受ける側も、それを承知の上で受けている訳だが。
 
音楽界 ― 実際の現場もまた実力主義。
それが仕事となれば、社会性も重視される。
残酷なまでに、自然淘汰が繰り返され…。
 
奏者の力量を、深く知って評価する世界もあれば、それを知らず、
肩書や話題性、コンテクストだけで評価してしまう世界もある。
そんな世界にあっては、コンクールでの受賞(歴)が、
生きていくための強力な武器のひとつになることは間違いない。
 
なんにせよ、その厳しい時間を乗り越えたことで、
奏者は大きく成長する。
敢えて臨む勇気を称えずにはいられない。
 
 
“ドビュッシー”“コンクール”というキーワードで、
『ローマ賞』という語彙が、アウトプットされてくる。
 
― ローマ賞 Prix de Rome
「フランスの芸術賞。芸術を専攻する学生に対してフランス国家が
授与した奨学金付留学制度。音楽賞は1803年に追加され、第一次、
および第二次世界大戦によって中断を余儀なくされたが、それ以
は1968年に廃止されるまで毎年開催された。王立アカデミーの審査
により優秀者が選出され、第一等、第二等受賞者は、ローマのボル
ゲーゼ庭園にあるメディチ荘に設立された在ローマ・フランス・ア
カデミーに送られ、一定期間イタリア芸術勉学するチャンスを与え
られた」
 
「音楽賞の課題は、予選では『フーガ』、予選通過者には4~5週間
が与えられ、指定されたテクストで『カンタータ』を書くことを要
された」
 
「ローマ滞在中は毎年一作以上の大作を書くことが要請される。
その後はフランスに帰国あるいはドイツに遊学するなどができた。
他の特典としては、作品を発表する機会の保障、各地への旅行費
補助、兵役免除、およびパリ市内各文化施設の無料での利用権など」
 
若かりしドビュッシーも挑戦している。
1882年予選落ち。1883年第2等賞獲得。1884年ローマ大賞受賞。
受賞しておきながら、出発をぎりぎりまで伸ばし、ようようローマに到着、
しかも、約束の楽曲提出もろくにせず (「らしい」と言うべきか) 、
馴染めぬと、早々にパリに戻ってしまう。その理由は?
 
ドビュッシーはその音楽論集で、『クロッシュ氏』にこう語らせる。
「フランスが誇りにしているいろいろな制度のなかで、
 ローマ賞の制度ほど滑稽なものを、あなたはご存知かな?」
「間違えないでくださいよ、私はね、若い人たちをイタリアやドイツにだって、
 安心して旅行しやすいようにしてあげるのは、大賛成なんです」、でも、
「ローマに着いてみると、たいしたことを知ってはいないんだな―自分の技法くらいしかね!―
 そして、まるで違う生活で混乱しているところへもってきて、
 芸術家の魂に欠くことのできないエネルギーを我と我が身に沁み込むよう要求される。
 これはできない相談です!」
「ローマ賞は遊戯、というかむしろ国家的なスポーツです」
「強制されて作らされた、しかも彼ら若者たちが
 音楽家としての技能(メチエ)を持っているかどうか精確に知る由もない作品で、
 判断しないことですな」
 
ローマ大賞受賞をして、ドビュッシーは『かりそめの栄光』と言う。
そして、賞を取ったことを告げられた瞬間の気持ちを記す。
「私は、どんなちっぽけな公の資格にも宿命的につきまとう退屈さや気苦労を、
 はっきりと思いみた。しかも、私がもう自由な身でないことを感じたのである」
ところが、ヴィラ・メディチに着けば、一転、
「私自身を、古代の伝説が物語る神々の寵児だと信じかねなかった」
なのに、また、そこに集められた人々が、
「パリに戻って占めるであろう地位・役割のことでみんな頭をいっぱいにして」いて、
「ローマの社会との接触はほとんどない」と、ぼやく。
 
ならば、受けなければよかろう、行かねばよかろうと思う。
でも、大きな栄光を得たいという気持ち、
そして、それを得た若者の心の揺らぎも、十分に理解できる。
「お金も必要だった」…なるほど。それは分かりやすい。
 
 
そんなローマ賞を、ラヴェルもまた何度も受け続けた。
そして、最後まで、第一等を受賞することはなかった。
《亡き王女のためのパヴァーヌ》《水の戯れ》《弦楽四重奏曲》…
すでに、その存在を知らしめていたにも関わらず。いや、だからか。
ラヴェルもまた、当時から「正規の道」からはみ出していたのだから。
 
1905年、年齢制限30歳、最後のチャンスで、
ラヴェルが第一等を逃したことは、大きな波紋を呼び、最終的に、
パリ音楽院院長デュボワの辞職→フォーレの院長就任という流れを作る。
このスキャンダルが、ラヴェルの名を世に出す時期を早めたというのだから、
世の中、本当に分からない。
 
「ローマ賞落選者にも、後世、名を成した芸術家が多くいる」と、
「受賞者が必ずしも大成した訳ではない」と、
賞の存在に対して否定的な論調もある。これは、分からなくはない。
 
『権威』が振り下ろされることもあっただろう。
『保守的傾向』も、『新奇なものへの敵対的な雰囲気』もあっただろう。
「審査員が愛弟子を受賞させるべく画策する」、そんな例もあったかもしれない。
 
とはいえ、改めて、ローマ賞受賞者の一覧をじっくり眺めれば、
ベルリオーズ、グノー、ビゼー、マスネ、ドビュッシー、リリー・ブーランジェ…。
そして、名教師と謳われた人達の名も並んでいる。
(そう、音楽院講師という職業を得るための門でもあったのだ)
それが形骸化していたとしてもやはり、音楽は音楽。実力は実力。
 
クラシックの音楽コンクール、立て長い一覧ができるほどある。
誰もが知る世界的に有名なものもある。小さな手作りのものもある。
「そんなコンクール知らな~い」
「受かったって、たいしたことないんじゃないの」
 
ふむ。
普通の女の子たちを『会いに行けるアイドル』として愛し、
大きく育てることのできる国民なのになぁ。
 
 
クラシックに興味を持った友人が、コンサートに行ってみたいと言う。
「何を聞きに行けばよい?」 
うう。なんという難問。
 
「近所にあるホールで、コンサートの情報誌をもらったんだけど、
 すっごく厚くて、どれがいいか分からないし、行くの止めようかと…」
ひょえぇ。大切なお客さんを一人、逃すところだった。
 
選び方が分からない。そうだろうなぁ。
「人で選ぶの?」「曲で選ぶの?」「場所で選ぶの?」
「料金で選んでもいいかなぁ? 料金と実力ってシンクロしてるの?」
「やっぱり、有名音大出てたり、コンクール受かってる人が上手いの?」
「オーケストラっていっぱいあるんだねぇ、何が違うの?」
地獄のノック。誰か代わってほしい。
 
確かに、知らない人には、選択肢が多過ぎるかもしれない。
先の彼女に、どんな音楽家を知っているか、聞いてみれば、
メディアで取り上げられている人の名ばかりである。
それは仕方がない。仕方ない? 仕方ないか…。
 
ライブやコンサートへ足を運ぶ人の減少を憂う声を聴く。
素晴らしいプレーヤーたちが、集客に苦しむことがあるのも知っている。
一方で、確実に集客できるプレーヤーがいることも事実。
その差は何? 誰か教えてほしい。
 
 
旅行が好きだった父は、食べるのも好きだった。
昔は、『グルメ本』なんてなかったから、
エッセイや旅行雑記のようなものを読んで、食指を動かされれば、
手帳にお店の情報をせっせとメモし、時間を作っては食べに行っていた。
 
増える蔵書、積み重なる手帳。そうこうしているうちに、
「この作家さんの口がボクには合うみたいだ」なんて言い出し、
口の師匠である作家たちの本を、選んで買ってきては、
その人が薦める店を、ひとつひとつ手帳に加えていった。
 
そんな風に。ゆっくり。ゆったり。楽しそうに。
時間を掛けて探し出した父の愛店たちも、
ネットで検索すれば、1秒足らずでズラリと出てくる。
 
身体を壊し、旅行ができなくなった父は、
その手帳を取り出しては眺め、頭の中で旅をしていた。
「今日はどこに行っているのかしらね」、母はそう言って笑っていた。
寡黙な父が、ニコニコと嬉しそうに箸を動かしていた姿を思い出す。
 
直に味わう。共に味わう。
時間を、空間を、そして、感覚を、感情を共有する。
優しい記憶。
 
椅子のない会場で、隣にペタンと座って、
ドビュッシーの弦楽四重奏にそっと涙を溜めた、そんな彼女と、
そういうこともあったねと語り合う時間が来ればいいと思う、
少しセンチメンタルな五十路のヴァイオリン弾きである。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第71回 真夏のサウダージ

© 2014 by アッコルド出版

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