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弦楽器奏者にとってのマリアージュは三人で成り立っている。「演奏者」「楽器」そして「弓」である。
 
弦楽器奏者は、弓を「三本目の腕」とか「右手の延長」などと表現する。楽器がパートナーであるなら、弓はほとんど体の一部のような存在ということは、想像に難くない。弓は、体の構造、奏法の特徴、またエモーショナルな面など、ダイレクトに奏者の個性を反映するのである。
 
現在フレンチボウの権威として世界的に著名なベルナール・ミラン氏は、フランス弦楽器界が誇るミラン・ファミリーの末裔である。
 
氏は並外れた才能と家庭環境に恵まれ、パリ、ミルクール、ニューヨークでの修行後、順風満帆にキャリアをスタートさせるのだが、同時に50年代のフランス弦楽器界の不況のあおりを受けてしまう。
 
パリの老舗である父の工房も、当時余裕のない状況にあったので、ミラン氏は独立を試みた。パリ、ローマ通り51番地の父の名店「Roger&Max Millant」のほぼ真正面、56番地に自身の工房を開くという大胆な行動に出るのだが、出足は順調とはいえなかったようだ。しかし、持ち前の熱気と行動力で顧客を増やし、いくつかの偶然が彼を弓製作の世界へ、そしてエキスパートへの道へと導いていく。
 
氏は1750年から1950年のフレンチボウの歴史、製作者を研究した弓辞典「L’archet (Bernard Millant 、Jean François  Raffin 共著)」を出版。本著は、製作者の人生や作品の特徴が、膨大な写真、入念な解説と共に網羅され、三巻にわたる壮大なものである。
 
ミラン氏は、1989年にル・カニュ氏(Verena et Loïc Le Canu 前述『L’archet 』編纂にも協力 www.lecanu-millant.com)を後継者とし、製作、修復の活動に於いては現役を退くが、現在もローマ通り56番地の工房にて弓の鑑定を続けている。 
 
今年ミラン氏は85歳。ともかくエネルギーに溢れ饒舌、少年のように目を輝かせ、呵呵大笑する。その若々しさは、一生仕事への情熱を燃やし続ける巨匠特有のものであった。

修業時代

 
船越
ミランさんが弦楽器、そして弓の世界にお入りになったきっかけは?
 
ベルナール・ミラン(以下B・M)
私の家族は、18世紀末より代々弦楽器製作を家業とし、私の祖父も父も弦楽器製作者です。父(Max Millant)と叔父(Roger Millant)は48年間共同で仕事をしていました。
 
私は木屑の中で生まれ育ちました。しかし、もしこのような弦楽器製作者の家庭に生まれていず、弦楽器の世界と関わりがなかったとしても、結局はこの道にたどり着いたに違いないと確信しています。
 
私が幼かった頃、父は週末でも自宅でニス塗りの作業をしていました。私が非常にやんちゃな子供だったので(笑)、父の仕事中邪魔にならないよう、バスルームの入り口にすえられ―そこら中を汚さないためです(笑)―、木片と茶色の塗料と筆を与えられました。そこで、私は父の真似をして木に塗料を塗りながら遊んでいたのです。これが私の弦楽器製作者の道への第一歩でした(笑)。
 
中学生のころ、私はヴァイオリンを習っていました。勿論楽器を弾くことは好きでしたが、第一の理由は、将来弦楽器製作者になったときに、自分自身がヴァイオリンを弾くことができれば、製作した楽器がさらによく鳴るよう、自分で調整ができると考えたからです。
 
学校が休みの日や週末は、父の工房に行き、父の手ほどきでヴァイオリン製作の作業をしたり、職人たちの仕事ぶりを見学したり、自分の習作のヴァイオリンを弾いたり……
 
学校の勉強は意図的に放棄していました(笑)。私はどうしても弦楽器製作者になりたかったのです。
 
船越
その後ミルクールの巨匠、アメデ・デュードネ(Amédée Dieudonné 1890-1960)の元で修行されたのですね? 故エティエンヌ・ヴァトロ氏(Etienne Vatelot 1925-2013 http://www.a-cordes.com/#!20130910funakoshisayaka/ckx4)、故ルネ・モレル氏(René Morel 1932-2011 ニューヨークでパールマン、スターン、カザルスなど多くの巨匠から楽器のメンテナンスを託されたフランス人の名職人)とも同門でいらっしゃいますね。
 
B・M
職人として一人前になるためには、ずっと父に教えてもらうわけにはいきませんから。
 
ミルクールの工房の習慣で、修行を終えた見習いは、工房を去るときに腰掛けの裏板に自分の名前を書き残すのですが、私の腰掛けには私より四歳年上であったエティエンヌ・ヴァトロの名前が刻まれていました。ルネ・モレルとはデュードネの工房で同じ作業台を分け合う仲で、彼はいつも私の前に座って仕事をしていましたよ。
 
その後、弓の分野においても勉強しなければと父に言われたので、ミルクールのモリゾ兄弟(Frères Morizot)のところで9ヶ月間、弓の製作を学びました。
 
船越
モリゾというと、ミルクール弦楽器製作学校の初代の先生というルネ・モリゾのことですか?
 
B・M「モリゾ兄弟は6人いるのですが、上の5人が弓職人、末っ子のルネだけが弦楽器職人でした。このルネがミルクール弦楽器製作学校の最初の先生となった人物です。
 
船越
その後ニューヨークで研鑽を積まれたのですね?
 
B・M
ニューヨークでは、ルディエ(Rudié)工房で、有名な弓製作家、エミール=オーギュスト・ウシャール(Emile-Auguste Ouchard 1900-1969)の後を引き継ぎました。一年を経て、私が兵役を果たすため帰国することになったときに、同工房で私の後任となったのはエティエンヌ・ヴァトロでした。ニューヨークでは順序が逆だったわけです。
 

独立

 
パリに戻り、私は弦楽器製作者としてスタートしました。しかしその当時、50年代のフランス弦楽器界はとても困難な状況にありました。
 
パリの父の工房Roger&Max Millantの評判は非常に高く、私の叔父、いとこ以外に、父が片腕としたピエール・オディノ(Pierre Odinot)の他、何人もの職人がすでに働いていました。人手はもう充分だったのです。業界の状況が厳しかったこともあり、両親は私に仕事を斡旋したくてもできませんでした。若く気性の激しかった私は、自分への待遇が不満だったので独立しようと思い、父の工房のすぐ近くに自分の工房を開きました。しかし、すぐそこに定評のある老舗があるのに、誰が私のような駆け出しの若造のところにくるでしょう? 結局私の工房はうまくいかず、私は仕方なく仕事を求めてパリのいろいろな弦楽器工房を渡り歩いていました。
 
仕事を依頼してくれる人の中に、ビヨテ夫人という弦楽器製作家の未亡人がいました。彼女は夫から残された、有名な弓製作家クロード・トマサン(Claude Thomassin 1865-1942)の仕事道具と、ブラジルのフェルナンブコの木――トルテ・ファミリーより弓製作に最適と判断された木ですね――を所有しており、後払いでよいという口約束で、この木をいくらか譲ってくれたのです。
 
このようないきさつから私は本格的に弓の製作も始め、修理や修復などの経験も積みながら、フランスの弓の世界――その権威ある200年以上の歴史や製作者たち――に精通していきました。こうして、私は弦楽器・弓製作者となったのです。弦楽器製作と弓の製作は職業として全く別のものですから。
続く

Bernard Millant Interview

世界最高峰のエキスパートが語る

フレンチボウの神秘

ベルナール・ミラン インタヴュー(1)


インタヴュアー:船越清佳(ふなこし さやか・ピアニスト・パリ在住)

船越清佳 Sayaka   Funakoshi                

ピアニスト。岡山市生まれ。京都市立堀川高校音楽科(現 京都堀川音楽高校)卒業後渡仏。

 

リヨン国立高等音楽院卒。在学中より演奏活動を始め、ヨーロッパ、日本を中心としたソロ・リサイタル、オーケストラとの共演の他、室内楽、器楽声楽伴奏、CD録音、また楽譜改訂、音楽誌への執筆においても幅広く活動。

 

フランスではパリ地方の市立音楽院にて後進の指導にも力を注いでおり、多くのコンクール受賞者を出している。


日本ではCDがオクタヴィアレコード(エクストン)より3枚リリースされている。


フランスと日本、それぞれの長所を融合する指導法を紹介した著書「ピアノ嫌いにさせないレッスン」(ヤマハミュージックメディア)も好評発売中。

ベルナール・ミラン Bernard Millant

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© 2014 by アッコルド出版

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