いつだったか、かのヴェンゲーロフがテレビ番組で、
「ドヴォルザークのヴァイオリン協奏曲、
 先生から『もっと土臭く弾いて』と要求されるのだが、
 自分は、何をどうすればいいのか?」
という、小さなヴァイオリニストの質問に対して、
その演奏を少し見、聴き、即座にしたアドバイスが、
「右手(指)に柔軟性を持たせよう」という内容だった。
 
短い時間で、端的に答えなければならない、
そんなテレビ的状況の中で出された答えに、あぁと思う。
 
もしも、質問者の彼が、この後、
“右手(指)の柔軟性”を得る努力をし、手に入れることができたとしても、
『ドヴォルザークの土臭さ』が、すぐに表現できるとは限らない。
彼自身が、「『土臭さ』とは何か」という問いに対して、
頭なり心なり身体なり感覚なり、どこかで答えを見つけ出さなければ、
多分、その音(音楽)は出てこない。そういうものだ。
 
でも、“右手(指)の柔軟性”を手に入れ、
それがなかったがために封印されてしまっていたテクニック、
それらを解放し、マスターさえしておけば、
自身の求めるものを知り、それを表現したいと思ったとき、
きっと、すぐに“音”にすることができる。
 
逆に言えば、あるレベルまでに達している彼が、その先を望むなら、
それは今、どうしても「手に入れなければならないもの」ということでもある。
 
「土臭さ」―「右手(指)の柔軟性」
これでいいのかと首を傾げたくなるほど、中飛ばしのアドバイスだが、
彼のこれからのヴァイオリン人生を左右するほどの内容であることは間違いない。
そのことに思い至ったとき、テレビの前で身体が震えた。
 
彼は、たった5分で、明るい未来への切符を手に入れたのだ。
 
 
「バレーボールの選手は?」
「それは、さすがに無理じゃない」
「花屋さん、いいなぁ」
「早起きできないくせに」
「じゃあ、本屋」
「本を読んでる暇なんてないよ、いいの?」
 
こうして、幼少の頃の夢は、ことごとく却下された。
したいことは、いっぱいあった。なりたいものも、たくさんあった。
その数の多さに、「そういうのは夢とは言わない」
冷たく言い放たれたこともあったけれど、もし、もしも、
それらを“夢”と呼んでいいのなら、“夢”に囲まれて生きてきた。
 
現実の厳しさに、そんな夢の欠片すら見失ったこともあるけれど、
この歳になり、ようやく、未成熟の夢を諦めず育てることも覚えた。
今でも新たな“夢”の芽が、次から次へとポコポコ顔を出し続けている。
 
叶った夢がある。叶わぬままの夢もある。
悲しいかな、潰えた夢もある。
 
音大に入り、ヴィオラと出会い、小説の主人公のように、
「自分が求めていたものはこれだ」と思った。
遅咲きの夢が生まれる。「アンサンブル・ヴィオリストになってやる!」
 
両親に頭を下げ、ヴィオラを手に入れ、
ヴァイオリンに費やすべき時間以外は、ヴィオラと共にいた。
仕事も頂けるようになり、十年以上、ヴィオラ奏者を務めるが、
腰を痛め、背中を痛め、肘を痛め、
それを毎日の仕事とするのは無理になった。
 
夢なんて、案外、呆気なく、背を見せ、立ち去る。
 
そのことがまた、新たな仕事を生んでくれたのだから、
「人世捨てたもんじゃない説」に一票投じたいところだが、
わが音楽人生、最大の夢を失ったことは、辛い現実だ。
まったく弾けない訳ではないから、なおのこと。
 
 
あらゆることに拘らずにはいられない性格、これは、
身体を痛めたことへの後悔から生まれた、後天的なものである。
 
身体を壊して、いろいろなことを学んだ。
「人世に無駄はない」―それを、身を以て証明できたことは嬉しい。
だが、大きな夢が消え失せたことも事実で、
ヴァイオリンを愛する人に同じ思いをさせたくないという気持ちは強い。
 
二度、大きく身体を壊した。
一度目は、左手のスタンスを変更したときに。
二度目は、安易にヴィオラを弾き散らした末に。
 
学生時代、ヴィブラートの幅を広げるために、
90度近くに構えていた左手を、一般的な45度スタンスに直すことにした。
(様々なテクニックに対応できる「折り合いの角度」である)
そのとき、上半身にばかりに気を取られ、
わずかだが、身体が捻じれていることに気付かなかった。
 
若さ故の必死さで練習し続けたことが、仇となり、
数週間後、突然、強烈な痛みが腰に走り、手が上がらなくなる。
師の勧めで、メニューインのヨガの記述を参考にしながら、
なんとか立て直し、弾けるようになるまで約一ヶ月。
それ以来、身体には気を付けていたのだが…。
 
ヴィオラ ― その「姿勢」も、「構え方」も、「弾き方」も、
ヴァイオリンと全く違うものだと分かっていた。なのに。
できているつもりだった。でも、できていなかった。
そうして、またしても激痛にのたうつことになる。
 
それでなくても、その演奏姿勢は不自然だ。
問う。―「どうすれば、自分の身体を守れるのか」
 
演奏はスポーツと同じ。
求めるものがあるラインを越えたとき、
そこに広がる世界は、身体を壊すかもしれない危険な領域にある。
 
 
ヴィオラはいい。
 
初めて、モーツァルトの『刻み』を弾いたとき、
掴み切れていなかった彼の世界に、少しだけ近付けた気がした。
ただメロディを弾いていただけでは分からない「何か」が、そこに在った。
 
ヴィオラ弾き ― シンプルな『刻み』に命を懸けることができる。
 
オーケストラでたまに出てくる旋律、その美味しいことといったら!
作曲家がそこで、あえてヴィオラにメロディを持たせた意味は?
そんなことを渋く考えながら、ひととき、主役の気持ちを味わう。
 
ヴィオラ弾き ― ひとつの短いメロディで幸せになれる。
 
例えば、ヴァイオリンとチェロのデュオを聞けば、
ヴィオラが、オーケストラやアンサンブルにおいて、
どういう役割を果たしているか、その一端を知ることができる。
 
ヴィオラ弾き ― 人を支え、繋げることで心が充たされる。
 
ときには土台の一部。ときには背景。ときには隙間材。
ときには単なる効果音。でも、リズムとハーモニーの要。
音域的にも。音色的にも。もちろん、音楽的にも。
 
「外から見る」と言うのは、なかなかよい経験だった。
それぞれの違いを知り、それぞれの限界を知り、それぞれのよさを知り。
 
ヴィオラの世界に入り、ヴァイオリンから離れたことで、ようやく、
躊躇いなく「ヴァイオリンが好き」と言えるようになった。
 
そして、思わぬ贈り物もあった。
ヴァイオリンで山積していた問題が、次々と解決したのだ。
新しい世界の扉の鍵を持っていたのは、ヴィオラだった。
 
例えば。幅の広いヴィブラート。
例えば。自在なシフティング(偶数ポジションのマスター)。
例えば。繊細で大胆なボウイング・コントロール。
自身が気付いていなかった問題点も、
ヴィオラが、目の前に引き摺りだしてくれた。
 
 
ヴァイオリンでようやく手に入れた『幅広ヴィブラート』も、
ヴィオラでは、虫が翅を震わせているほどにしか聞こえない。
かと言って、身体をヴィオラ用にトランスフォームできる訳ではない。
今ある身体で、より大きく、より広く、より深いヴィブラートを掛けるには?
 
ヴァイオリンのフィンガリング&シフティングは、
ヴィオラでは、恐ろしいほど、通用しない。
『偶数ポジション』『這うフィンガリング』などを、徹底的に勉強し直す。
最高弦A線、最低弦C線、弦特有の音色をどう活かすかも重要な課題だ。
 
ヴィオラの弓は、ヴァイオリンのそれに比べ、やや短く、太く、重い。
ヴァイオリン弾きが持つと、レスポンス悪く感じたりもする。
(弓の能力が低いのではなく、使い慣れていないだけ…)
ずんぐりむっくりの愛すべきヴィオラ・ボウ、こいつをいかにコントロールするか。
 
そう、何より、ヴィオラは、簡単には音が出ない。
ヴァイオリンでも、腕の重さを乗せるのは難しいが、
ヴィオラではさらに、身体の重さを弓に乗せることを覚えなければならない。
パワーコントロールは、最重要課題。
 
しかも、ヴィオラは多くの現場で、聴き手に楽器の裏側を見せている。
上っ面だけの振動では、音が届かないことを知っているから、
ヴィオラ弾きは常に、楽器を「響かせること」について考えている。
 
そうこうして、ヴィオラをヴァイオリンに持ち替えれば、
楽器は小さく、とても軽い。身体への負担も少ない。
ひどくフィンガリングに悩むこともない。ヴィブラートも楽だ。
弓も大人しく、言うことを聞く、とてもいい子だし、
少ない力で、気持ちよく、よく響く。
 
ヴィオラ専科の人に、叱られることを承知で言えば、
ヴァイオリン弾きが、ヴィオラを弾くことは、
ちょうどよい負荷トレーニングを行うようなものでもある。
 
もちろん、これもまた、一歩間違えると、
大問題を生み出しかねない危険なトレーニングではあるのだが…。
 
 
毎日、何時間も楽器を弾いていれば、
首や肩、腰、腕、手首や指が痛んでも、仕方がない。
ここが痛いと言っては湿布を貼り、あそこが痛いと言っては鍼や整体に通う。
 
そうして、痛みがなくなれば、つい安心して、また活動する。
例えそれが仕事で、やむを得ぬ日常だったとしても、
深く考えず、同じことを繰り返し、事態を悪化させることがよいとは言えない。
 
この歳になってさえ、身体は壊れた部分を必死で再生しようとする。
それなりに戻りもする。が、前と『同じ』ではないのだ。
一度痛めた身体は、100%元に戻ることはまずない。
治ったから、大丈夫。ではないのだ。
 
身体について、考え始めれば、
すべてのテクニック課題が、いや、ときには心の問題さえ、
その観点で解決することができることに気付く。
 
「いつも、同じことを言わせないで!」
親が子にする注意は、いつまで経っても変わらない。
 
「もっと感情豊かに」「もっと正確に」「もっと…」「もっと…」
師が生徒にする注意も、考えれば、根本的には何ら変わっていない。
成長してないなぁと反省したこと、枚挙にいとまなし。
 
変わらない指摘。
悲しいほど、いつも同じだ。ずっと同じ。同じ? 
 
すべて「同じ」と受け取って、大切なものを見過ごしていないだろうか?
不安になる。慌てて、原点に返る。身体を初期化する。
 
ヴァイオリン弾きは、二つの重要な事実を知っている。
学ぶべき事柄は、実は、そう多くはない。
でも、それを、真にマスターすることは容易ではない。
 
夢は、屍になってもなお、内に在り、
水先案内人となって、新たな夢へと導いてくれる。
叶えられなかった大きな夢を、果たし切れなかった多くの夢を、
胸いっぱいに抱えて最期を迎えるのも、悪くないかもしれない。
 
…と呟きながら、儚く咲き終えた朝顔を愛でる夏の日。
 

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第70回 叶わぬ夢 叶えし夢

なお 叶えたし夢

アッコルドよりお知らせ

 

Webアッコルド1周年を記念して、

1日限り、「リアルな場所」で

アッコルドを展開します。

空を見わたせる会場で

昼から夜への

移り変わりを眺めながら

弦楽器の響きに触れてみませんか?

尾池亜美さん率いる

アミ・クァルテットが出演します。

 

●読者の皆様と、演奏者・執筆者・編集者との交流
●私たちが考える音楽の楽しみ方を一緒に体験

●ヴァイオリニストの尾池亜美さんとアミ・クァルテットの皆さんによる演奏
イザイの無伴奏、デュオ、ドビュッシーの弦楽四重奏曲等が演奏されます。
ヴァイオリニストの長尾春花さんがヴィオラに持ち替えて演奏します!

●アッコルド執筆陣の

ヴァイオリニスト・森元志乃さんと

尾池亜美さんとの対談


●質問コーナー、試奏コーナー、

●ワン・ポイント・アドヴァイス

●尾池亜美さんによる

 ハイフェッツの音階練習のデモンストレーション
 (尾池さんは、ハイフェッツの高弟ピエール・アモイヤルに師事し、ハイフェッツの音階練習を習っています。アッコルドから出版予定)

●美味しい軽食とお酒

 

他にもいろいろなサプライズを用意しています。

 

アッコルド1周年記念イベント

 

7月21日(月・祝)海の日

 

会場 ソラハウス(渋谷)

東京都渋谷区神南1-5-14 三船ビル8F

開演 18:15(開場:17:30)

料金 ¥10,000(軽食付き)

定員 40人

(演奏、コラム執筆者・森元志乃さんとの対談など)

 

公開リハーサル

開場 15:00

料金 ¥2,000

定員 20人

 

曲目

フォーレ/パヴァーヌ

ドビュッシー/弦楽四重奏曲 ほか

 

アミ・クァルテット

1stVn  尾池亜美

2ndVn 森岡 聡

Va    長尾春花

Vc    山本直輝

 

★詳細

http://www.a-cordes-ronde.com/#!special0711/cso7

 

※モバイルからは、メニューの「アッコルド1周年記念イベント」をタップしてください。

 

 

★チケットはこちらから
http://eventregist.com/e/a-cordes

★メールでのお申し込みもできます。
●お名前
●種類(公開リハーサル・本番)
●枚数
●;連絡先(メールアドレス)(電話)(住所)
を明記の上、
a.cordes.editeur@gmail.com(アッコルド)へ。
メールでお申し込みを戴きましたら、おって決済方法についてご連絡差し上げます。ご連絡をお待ち下さいませ。
※なお、個人情報は、本イベントに関わること以外には使用致しません。

★モバイルからは、メニューの「アッコルド1周年記念イベント」をタップしてください。

 

皆様のお越しをお待ちしています。

 

 

 

アッコルド1周年記念イベント

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈1〉

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈2〉

 

尾池亜美さん

対談・クァルテットへの思い〈3〉

 

 

私たちと一緒にアッコルドを体験してみませんか?

青木日出男

 

私達がヴィオラが好きな理由

尾池亜美さん 長尾春花さん

 

ハイフェッツの音階練習

デモンストレーション

 

ドビュッシーへの思い

森岡 聡さん 山本直輝さ

 

 

 

 

© 2014 by アッコルド出版