すでに酷暑。その合間に、
一旦降り始めれば、何時止むとも知れぬ雨。
ふいに、雨がtacetすれば、
近所の猫が、あーおあーおとひどく煩い。
 
その音の持つ生々しさのせいだろうか。
「みゃお」でも「にゃお」でもない子音に欠けた鳴き声に、
小学生の頃読んで、一晩眠れなかった、
エドガー・アラン・ポーの《黒猫》を思い出す。
 
「それは最初のうちこそ弱々しく切れ切れの泣き声で、
あたかも幼児がすすり泣いているかのようであったが、
やがて一気に膨れあがって、長く甲高く切れ目のない叫び声となり、
その響きはあまりにも異様で人間ならざるもののようであった」
 
黒猫が眼を煌めかせ、ぅうあぁぁぉぅうあぁぁぉと鳴く。
頭が“母音”に掻き回され、乗っ取られる。
 
諦めに似た感情が湧けば、「あぁ」と溜息をこぼす。
攻撃の術を持たない小さな子は、「いぃっ」と必死に威嚇する。
思った以上のダメージを受け、「うぅ」と呻く。
眉を顰め、「えぇ?」と相手を非難する。
美麗な超絶技巧に、「おぉ」と感嘆の声を漏らす。
 
ヴァイオリンの母音を、ヴァイオリンの子音を考える。
ヴァイオリンはどんな“音”を出せただろうか?
 
意図なく弾き出されるヴァイオリンの音は、
ただ吐き出される、剥き出しの感情に似て、
ときには不快を、ときには嫌悪を、ときには悲しみを引き起こす。
 
おええいいおあ?(それでいいのか?)
 
何を言っているのか、分からない。
何を言いたいのか、分からない。
そんな音を、出していないだろうか? …猛省する。
 
 
始まりと終わりがあるのは、音楽だけではない。
音一つずつにも、始まりと終わりがある。
 
そこにあるはずの“始まり”、それがない音がある。
本人ですら、いつ『音』になったのか分からない、そんな。
 
粗悪な“始まり”で、生を与えられる音もある。
ガッ、ギィッ、ジジジと軋み擦れる音。
弓を返す度に、意味なく発されるノック音。
幽霊出現の効果音に使えそうな、不明瞭で怪しげな音。
 
意図的なものならば、それも“音”だと認められよう。
でも、何も考えず、何も気遣わず、弾き出した故の結果ならば?
 
「いやいや、さすがにそんな音は出してないから」
 
『一音成仏』― 尺八の世界にはこういう言葉があるそうだ。
その意については、その道の書の記述を借りる。
「(一音に徹底する事で)悟りの境地に至ること」
「一音の中に至上の音を目指すもの」…簡単に語れるものではなさそうだ。
 
「まあ、“悟りの境地”には至ってないかな」
「“至上の音”って言われてもねぇ」
 
「西洋音楽は機能性を追求しながら発展してきたんでしょ?」
大雑把に言えば、そういうことなのかもしれない。
でも、『彼ら』が“音”については何も考えず、
ただ対位法やら機能和声やらを振り翳して、曲を書いていたはずがない。
 
書き手一人一人、理想の音を持っていたに違いない。
楽器への信頼、弾き手への期待もあったはずだ。
だとすると。…弾き手はどうあるべきか?
エルマンやミルシテインの演奏を見ていると分かる気がする。
「意味のない音は出さない」「ひとつひとつの音に思いを込める」
 
 
他の楽器の曲をも、素知らぬ顔で我がものにしてしまうヴァイオリン。
一方、ヴァイオリン曲を他の楽器で演奏することは難しい。
ヴァイオリンに求められた音色の多さに対応できないことが多いからだ。
 
音色の決定要因、重要なファクターのひとつが、
他でもない、“発音”。
 
“発音”に限界を感じている楽器は少なくない。
しかし、ヴァイオリンはそのうちには入らない。
持続音や語尾だけでなく、発音をも自在にコントロールできる楽器。
 
モーツァルトの音、ベートーヴェンの音、ブラームスの音…、
音色を、発音を、『弾き分け』ができる楽器はそう多くはない。
なのに、その特権を放棄してしまうなんて。
 
音に関しては発出にしか関与できないピアノ。
…ピアニストが、どれほど打鍵に心を砕いているか。
一定の条件を満たさないと音が出ない管楽器。
…管楽器奏者が、どれほど唇と呼吸に心を配っているか。
 
ヴァイオリン弾きが『弾き出し』に、全く無関心だとは言わない。
それどころか、多くの人が気に掛けていることを知っている。
 
深く息を吐き、おもむろに弦の上に弓を置き、幾ばくかの緊張と共に、
慎重に、慎重に…。(曲の最初の一音だけ、そんな傾向もなくはないが)
 
それなのに、なぜだろう? 「無神経な音を出すな」と叱られる。
「注意して弾いている」と、「叱責は理不尽だ」と訴えたくもなるが、
聴き手の耳は絶対、すぐ反省モードに入る。
 
要求に応えられていない? 何がいけない?
「気を付けて弾いていますが」
「『考えて』じゃなくて?」
「丁寧には弾いているつもりなんですが…」
「丁寧ならいいの?」
「ヴィブラートも掛けてますし、クレッシェンドも…」
「いやいや、それは出てしまった音への対処だから」
「………」
 
 
音声学に関する文献が、ヒントをくれる。
―“音声学phonetics”は主に言語の音に関する物理的特性を扱う。
   調音音声学articulatory phonetics:「発出」
   音響音声学acoustic phonetics:「伝播」
   聴覚音声学auditory phonetics:「聴取」
 
ここで注目すべきは、“調音articulation”。
…アーティキュレーション? なんだ。よく耳にする言葉ではないか。
 
ああ、でも、少し違う意味で使っているような気もする。
― フレーズ内の旋律をより小さな単位に区切り、それにある形と意味を与えること。
「音の区切り方や繋ぎ方(連続性)」という解釈をしていないだろうか。
「(スタッカートやレガートといった)奏法の選択」だと思っていないだろうか。
それは、正しい。でも、足りない。
 
出した音を、頭の中でリプレイする。
そのシーンに合ったスタッカートやレガートを出せていたか?
その発音は間違っていなかったか?
 
「“音の輪郭”が美しくないね」…そんな風に注意されたことを思い出す。
 
音の性格は、“発音”が決めるといっても過言ではない。
ヴァイオリンが多種の発音を持つ楽器、ということは、
ろくに考えもせず、適当に弾き出したならば、それが、
要求される音になっていない可能性の方が高いということである。
 
―調音音声学では、調音に基づく言語音の分類を行う。
  言語音は、母音vowelと子音consonantに大別される。
―子音は、調音点と調音法に基づいて分類することができる。 
  調音点point of articulation:音を出すにあたり関与する場所。
  調音法manner of articulation:調音点において呼気がどんな流れを作るか。
 
「調音点」―弓のどこを使うか、弦のどこを弾くか…
「調音法」―どれ位の圧力で弾き出すか、どれ位のスピードで弾き出すか…
 
要求された“発音”、それをこの手は出せるだろうか?
 
 
“発音”を言うと、戸惑う人も少なくない。
アドバイスをしないでいると、多くの人が、
悩んだ挙句、弓を弦上に置き、弾き始める。
その方法が最も安定感があり、コントロールを確保できるからだ。
 
「弓を置いて」という注意は、比較的よくなされるものだが、
弦上に弓を置いて、じっと待つのは、案外、不安である。
息を止めて待とうものなら、弓は不安定になり、動作も不自然になる。
師の言う『弓を置く』という言葉を正しく理解しなければならない。
 
偉大なるヴァイオリニスト達の演奏を見れば、
「弓を置いて」弾き始めるのは、ほんの一手段に過ぎないことが分かる。
 
ときには、高く上空から、弓を振り下ろし、
ぶつけるように弾いているシーンに出会うこともある。
かといって、それは、本当にぶつけている訳ではない。
インパクトの瞬間、「そこ」には右手の全神経が集中している。
 
弦に乗せた状態から、弓を弾き始める、
それだけでも、多くの方法が考えられる。
ましてや、弦上にある広い空間、使い放題である。
 
弓を振り上げたり、振り下ろしたり、
そんなダイナミックな動作をしたことがあるだろうか?
もしかすると、ヴァイオリンが出せる発音の半分も出せていない?
 
ああ、自分の手も使いきれていないなんて。
鏡の向こうの、ヴァイオリンを持つ自分が泣いている。
 
音を作るのは“手”? いやいや、“耳”を忘れてはいけない。
「聞き取れないものは発音できない」
「(自らの)演奏音には、(自らの)耳で聞いたものしか含まれない」
「聞き取れるようになった音は、再現できるようになる」
「聴取と発出に鋭敏になれば、それが習慣となり、音に対する姿勢も変わる」
 
いろいろな発音を獲得したい。
だったら、いろいろな音を聴かねば。
いろいろな演奏家の、いろいろな曲の、いろいろな演奏を。
 
聴くことで始まり、聴くことで終わる。
 
 
ブラジルでのワールドカップ、サッカーは興味の対象外だが、
今回は、テレビ中継やニュースで変なところに反応してしまう。
 
「15日午前、ブラジル・レシフェのアレナ・ペルナンブコで開催された2014ブラジルワールドカップC組組別予選1次戦はコートジボワールが2-1で勝利をおさめた」
 
ペルナンブコ? Pernambuco!
「ブラジルでやってるんだ!」
「だから、そう言ってるでしょ」
 
ヴァイオリン弾きにとって、“ペルナンブコ”は『特別』だ。
まあ、その名称に関しては、もはや、
何を“ペルナンブコ”と呼んでいるのか理解不能な状況だが、
『弓の高級材』を言いたいのだということは間違いない。
 
大航海時代、ブラジルに上陸したポルトガル人が、
最初に主要な貿易品として扱ったという“ブラジルボク”。
国名の由来ともなったその樹は、当初は染料として、
やがて弓の材として、その他の用途で数多の人々の手に渡る。
 
ヨーロッパ人による海外進出は、多くの血を流し禍根を残した。
それを考えると、いろいろなものが胸に渦巻くが、
その結果が、手の中にあるのだから責めようにも力が入らない。
 
弓材として最良・最適・最高の材と称されるペルナンブコも、
例に洩れず、材の枯渇が心配されている。
残された弓を、大切に使っていくしかないのである。
 
やり直しがきかない現実。
やり直せないのは、演奏も同じ。
樹が泣く。人が泣く。音も泣く。
 
そう言えば、ヴァイオリンは猫の鳴き真似が得意だった…。
久し振りに練習してみようか、Leroy Anderson の《The Waltzing Cat》。
可愛く鳴けるかな。
化け猫にならないようにしなくちゃ。
アンダーソンが泣いてしまう。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第66回 ペルナンブコの涙

© 2014 by アッコルド出版