top of page

以下の写真は、クリック(タップ)すると、

拡大され、キャプションも出ます。

サントリーホール梅雨期の風物詩になりつつある「チェンバーミュージック・ガーデン」が始まっている。
 
オーケストラ用大会場として世界に知られてきたこのホール、自主公演や新作委嘱、ホールオペラなどを主催してきたとはいえ、あくまでも基本は貸ホールだった。オープン20年を過ぎた頃から、ホールオペラの付帯事業として始まった「オペラ・アカデミー」をきっかけに、劇場としての創造性を前面に押し立てるようになる。
 
「劇場法」が成立し、官民問わず日本中の音楽ホールが貸ホールに留まるか「劇場」として名乗りを上げるかの選択を迫られた際、日本で最も成功した貸ホールたるサントリーホールは、敢えて困難な「劇場」たる道を選んだ。そんな流れの中で、4年前に「サントリーホール室内楽アカデミー」が設立され、その年度末フェスティバルとして位置付けられたのが6月の「チェンバーミュージック・ガーデン(CMG)」である。
 
アカデミーに参加する若い音楽家や、校長先生堤剛以下アカデミーのファカリティらが1年の研鑽の結果を披露する演奏会がフェスティバルの一方の顔とすれば、もう一方の目玉が「ベートーヴェン弦楽四重奏全曲演奏会」である。
 
3週間弱のCMGの期間中、2週末程を費やし、ゲストに招かれたひとつの弦楽四重奏団が5若しくは6回の演奏会でベートーヴェンの弦楽四重奏全曲を演奏する。当「アッコルド」読者諸氏には今更驚くべきことには思えないかもしれないけれど、客観的に眺めれば、シーズンに必ずベートーヴェン弦楽四重奏サイクルが行なわれる都市など、世界に他にない。ヴィーンでもベルリンでも、パリでもニューヨークでも起きていないのだ。
 
昨日6月13日に始まった2014年のサイクルを担当しているのが、ヴィーンのキュッヒルQである。これまではニューヨーク(現在はブルーミントン)のパシフィカQ、ミュンヘンのヘンシェルQ、ボストンのボロメーオQと、所謂「ビッグネーム」団体とはちょっと異なる実力派によって担われて来たこのサイクル、担当ディレクターによれば「心技体ともに最高のコンディションにある若手を一歩抜け出た中堅所の最強団体を、日本での名声やマネージメントやレコード会社の意向とは無縁に選んできた」とのこと。4回目となる今年にして初の高名な長老、そして所謂「常設弦楽四重奏団」とは異なる素性のグループの登場である。
 
今年のベートーヴェン・チクルス担当はキュッヒルQと発表されたとき、室内楽関係者はちょっと驚いたものだった。とはいえ、日本でのヴィーンフィルのマネージメント業務を行なっているのがサントリーホールであることを考えれば、当然と言えば当然の選択でもあったわけである。
 
正直、毎年券売では苦労するというこのサイクル、日本でのヴィーンフィルの高い人気を背景に、発売されたチケットは瞬く間に完売。過去の経験から弦楽四重奏のチケットはギリギリまで売れ残ると信じていた常連の室内楽ファンには、殆どチケットがまわらなかったという。
 
かくて、例年とは些か違う盛り上がりの中、初日作品18の1、ラズモフスキー第1番、作品127と「3つの1番」を並べた初日を迎えることとなった次第。「こんな素晴らしいベートーヴェンは聴いたことがない」という熱狂と、一部室内楽専門家の目の前で起きていることへの驚きや困惑とをごちゃ混ぜにしながら、ブルーローズの連夜の熱狂は始まったばかりである。
 
 
遥か東の彼方はTOKIOが五輪の熱狂で沸こうとする秋、ニーダーエステルライヒ州最西端からヴィーンへと昇ってきた14歳の天才ヴァイオリン少年が師事したのは、フランツ・サモヒルだった。
 
その初夏に日本に戻った岸邉百百雄を最初の弟子にして以来、「もう日本から来るヴァイオリンはみんなサモヒル先生だった」(岸邉)と先輩が苦笑する名ヴァイオリン教師だが、押し寄せたのは日本人ばかりではない。岸邉と共にコンツェルトハウス隣の音楽学校でヴィエナー・ゾリステンを始めた同門の仲間達のうち、アルバン・ベルクQ創設メンバーとなるピヒラー、メッツェル、バイエルレら全員がサモヒル門下だった。
 
後にキュッヒルと共にヴィーンフィルのコンサートマスターを務めるウェルナー・ヒンクもサモヒルの弟子で、ヴィーン音楽学校でのサモヒルの教職ポストを継いでいる。名教師が「立派な弟子を多数育てた人物」という意味であれば、サモヒルこそは1950年代から60年代ヴィーンに君臨した偉大な名教師である。
 
師匠のヴァイオリンの教えがどうあれ、その弟子達が生きていかねばならぬヴィーンには時代の変化が訪れていた。
 
戦後の日本で圧倒的な人気を誇ったバリリQやコンツェルトハウスQがキャリアの終わりを迎え、ナチス時代にヴィーンから脱出したブレイニンやニッセル、シドロフらが組織したアマデウスQ(結成当初は「ヴィーン・ロンドン弦楽四重奏団と名告る予定もあったという)や、ヨーロッパを追われたユダヤ系音楽家の伝統と技術を伝える場所となったニューヨークで結成されたジュリアードQなど、戦後のワールド・スタンダードを打ち立てた室内楽がローカル趣味濃厚なヴィーンにも紹介され始めた。
 
好き嫌いはともかく、その圧倒的な技術水準の高さに、ヴィーンで学ぶ学生達は大いに刺激されることになる。若者達は若者達なりに、新たな室内楽を作り出そうと手探りで日々研鑽に励めていた。
 
ちなみに、1962年10月に「ヴィーン室内合奏団」なる名称で初来日した岸邉百百雄やハット・バイエルレらのヴィエナー・ゾリステンに対し、『音楽の友』誌同年12月号の音楽評論家らによる鼎談では、以下のように酷評されている。
 
 
宮沢「まあ、のびのびとした若い演奏をしていたというところかしら。」
菅野「ずいぶん好意的だな。はっきりいうと、いわゆる名合奏団じゃない。力演はしているが、取り立てての特色はないし、すくなくともウィーンの香りはさらにない。ベルリンの傾向かというとそうでもない。」
大木「やや日本的ですよ。」
中村「若い人らしい歯切れの良さもない。中途半端で無性格ですね。」
 
ヴィーンから来た若者達がしようとしている音楽がそれまでの「ヴィーン」と違うものであることは流石にプロの評論家として察知はしていたようであるが、「音楽の都らしい味わい」とも「アメリカ風の腕だけは達者な機能主義」とも異なるヴィーンの若者らの努力やその理由は、コンツェルトハウスQらの音楽を至上の価値としてきた日本の音楽文化には理解し難いものだった。
 
キュッヒル少年が師匠の下で学ぶ頃、一世代上の先輩達でヴィーン国立歌劇場のコンサートマスターを務めるピヒラーは、共にヴィエナー・ゾリステンを立ち上げたバイエルレやメッツェルらと共に、弦楽四重奏への意欲を固めつつあった。
 
ピヒラーが弦楽四重奏に専念するため職を辞した後、キュッヒル青年が若干20歳でヴィーン国立歌劇場コンサートマスターのひとりに抜擢される。ピヒラーらはヴィーンを脱し、アメリカ合衆国のシンシナティに留学、ラサールQのヴァルター・レヴィンに1年間学ぶ。
 
近しい旧友の岸邉にはこの辺りの事情を「ヴィーンにいるといろいろあって勉強が出来ないからどこかに逃げて練習に専念していただけだ」と語っているそうだが、その言葉の真意はともかく、事実として結成直後に北米で時間を過ごしたアルバン・ベルクQがそれまでの「ヴィーン」風団体とは一線を画した、革命的な存在となったことは、読者諸氏に説明は不要であろう。
 
「ヴィーンの昔ながらのある程度の雰囲気と、ジュリアードQ級の技術を持っているのは、アルバン・ベルクQが最初でしたよ。明らかにそうです。」(岸邉)
 
ヴィーンの室内楽に新しい風が吹き始めていた。そして、若きコンサートマスターのキュッヒルにも、重大な責務がまわってくる。ミュンヘン・コンクール最高位を引っ提げ、1年前に非オーストリア人として初のヴィーン国立歌劇場コンサートマスターの職を得たゲルハルト・ヘッツェルではなく、何故か10歳も若いキュッヒルにムジークフェライン・ブラームスザールでの弦楽四重奏定期演奏会の役回りが振られることになったのだ。
 
「ヴィーンフィルの中には、ムジークフェラインで定期演奏会を行なう弦楽四重奏団が常時ありました。ローゼQ、シュナイダーハンQ、バリリQ、ボスコフスキーQ、ウェラーQ。1970年にウェラーが止めてからこの伝統は暫く途絶えましたが、続けたいということになった。それで1976年から私たちがこの伝統を継ぐことになったのです。5月の芸術週間などでは大ホールで演奏することもありますが、定期は小ホールのブラームス・ザールで行なっています。」(キュッヒル)
 
キュッヒルQがここに誕生した。戦後のヴィーンで室内楽を模索した若者らが戦後アメリカ流の機能主義を通し新たな室内楽を築こうとする瞬間、ヴィーンフィル首席奏者らによる室内楽の伝統を継承することを眼目とする若い団体が出現したのである。
 
だが、バリリやシュナイダーハンの伝統とは違うところからやってきた若きキュッヒルが、形を継承したからといってその音楽を継ぐわけもない。伝統を守ることを求められた青年は、実はとてつもない革命児だった。キュッヒルQは、所謂「ヴィーンの古き良き伝統」を繰り返す団体ではなかった。その事実は、今週のブルーローズに集う音楽愛好家なら、誰もが知っていることである。

いよいよ2014年チェンバーミュージック・ガーデンの目玉、キュッヒルQによるベートーヴェン弦楽四重奏全曲演奏会が始まる。

第50回

ヴィーンで室内楽をするということ

その2:伝統を継承した革命児

電網庵からの眺望

音楽ジャーナリスト渡辺 和

© 2014 by アッコルド出版

bottom of page