多分、器用な方だったのだと思う。
6歳でヴァイオリンを持って以来、音大に入る前まで、
新しいテクニックに出会って、ひどく苦労した記憶がない。
 
小さい頃は、練習中に泣きもしたが、それは大抵、
「練習したくない」「練習するのが嫌だ」、そんな理由からで、
「できない」といって泣いたことはなかった気がする。
 
この器用さは、みなに羨ましがられもし、
幼さもあって、恥ずかしながら、得意に思っていたところがある。 
まさか、大学生になって、この“長所”に、
大きなしっぺ返しを食らうとは思ってもいなかったのだ。
 
大学に入り、待ち構えていたように、
「さあ、じっくり勉強しましょうか」と師から提示された課題は、
得意分野のはずのテクニックの総ざらいだった。
 
しかも、まだまだある、弾かねばならぬ新しい教本でそれをするのではなく、
とっくに終わっていたクロィツェルを「最初からもう一度」である。
絶対なる師の言葉も、その時だけは何故?と思わずにはいられなかった。
 
早速取り掛かるものの、一週間で1曲のペースでは軽く一年掛かってしまう。
4年しかない学生生活、そんな「もたもたペース」が許される訳もなく、
当たり前のように、一週間で2曲というノルマが課される。
 
とはいえ、一度は通ってきた道、そこそこ弾ける。
多少の満足感と共に、レッスンで披露してみれば、
優しい微笑みと共に、怒涛のように押し寄せてくるダメ出し。
え? こんなに弾けていなかったっけ? 身体中から汗が噴き出す。
 
ロングトーン、スタッカート、スピッカート、…ヴィブラート。
『テクニック総ざらい』だったはずが、いつしか、
更にその前の、『基礎の基礎』のやり直しになっていく。
 
 
「器用」なのではなく、「小器用」だっただけ、
そう自覚するまでに、たいして時間は掛からなかった。
本当に『器用』な人は、多分、こんな苦労はしない。
 
小器用な人間は、無意識のうちに、
要求されているものに対して、自分の内に「在るもの」で、
そう、「自分の持っているもの(技術)」だけで、
取り敢えず、なんとか形にしようとする。そして、一応なんとかなる。
「なんとなく」「それっぽく」弾くことができる。
 
でも、それは、身体の理解に至っていないことが多い。
それぞれを、ちゃんと弾き分けられているのではなく、
あくまでも感覚だけで、それ風に弾いているに過ぎない。
これもまた、ある種の能力であり、有力な武器ではあるが、
でも…と、考える。
 
その場でその場で、ただ身体が刹那的に反応しているだけ、
そんな状態の反復を「学んでいる」と言えるのだろうか?
 
「それっぽく弾けるっていうことは、できてるってことじゃないの?」
一理ある。その能力は持っているということだ。
 
しかし、それは、本当に「できている」ことになるのだろうか? 
自分の持つ能力の確認にはなっているかもしれない。
それも重要なことではあるけれど、しかし。
 
何かを手の内に入れ、蓄え、それぞれの質や精度を上げていく。
そのためには、“時間”も必要なのでは?
 
努力も苦労も理解もなく「できた」ものは、底が浅く脆弱だ。
一旦、崩れ始めると、裏付けがない分、崩壊も早い。
『過程』がないから、原因の突き止めようもなく、
事によっては、完全にお手上げ状態になってしまう。
 
 
“スタッカート”ひとつで、ボロが出る。
 
「そこは『メゾ・スタッカート』で」
「『マルトレ』って分かってるよね」
「ピアノになると甘くなってるのに気付いてる?」
「フォルテは乱暴にっていう意味じゃないけど」
 
当然、楽曲中でも、同様の文言が、
ゲリラ豪雨のように、ばしゃばしゃ降ってくる。
 
「ブラームスのスタッカートって、そんなイメージ?」
「サン=サーンスらしいニュアンスが出るといいんだけど」
「威厳を持たせられない?」
「品のある音、出せないかしら」
 
指摘されればされるほど、混乱する。
さっきと何が違う? どこが? どういう風に?
そうかと納得できることもある。違っていた、と。
でも、同じ音なんじゃないかと思うこともある。さっきと何ら変わりないと。
 
師の顔に、答えが書いてある。
その音を欲しているかどうか。― イメージできているか?
意識して出せているかどうか。― 弾き分けられているか?
そこが重要なんだと。その場しのぎで弾くなと。
 
“スタッカート”という言葉で括られていると、
勢いよく弾いて止めればよい、ついそんな気になるのが間違いだ。
しかも、“スタッカート奏法”なるものの基本動作は、
あくまでも『基本動作』であって、それ以外の何ものでもない。
 
「E線とA線を同じように弾いても、同じ音色にはならないわよ」
「ロウポジションとハイポジションでは聞こえが変わるから気を付けて」
〈同じ音(音色)=同じ弾き方〉ではないという、恐ろしい事実。
 
なんとなく弾いてきた。手に入れたと思っていた。違っていた。
下手な青春小説の一節ようだが、正直な前半生反省の弁である。
 
 
ちっちゃなお弟子さんが、初めてのスタッカートに挑戦だ。
「これは、こういう風に弾くんだよ」…お手本を見る真剣な眼差し。
「じゃあ、弾いてみて」…すぐできる。「できた! すごいぞ!」
 
できたのなら、とやかく言うことはない。
取り敢えずは「それで練習してきてね」。そして、次。
 
でも、頭の中でチェックを入れる。
あまりにすぐにできてしまったことは「要注意・要経過観察」。
「理解できていない可能性あり」
「身体の使い方を間違えている可能性あり」
 
大体、『それ』のために費やした時間が少ない。
「長期記憶になっていない可能性あり」
問題は頭だけではない。身体が納得していないこともある。
「身体が覚えていない可能性あり」
当然、そういったインプットの作業はこれからということになる。
もちろん、そんな短時間で身体はできない。「持続と反復が必要」。
 
しばらくして、別なスタッカート課題に取り組む。
何も言わず、もちろんお手本もなく、練習してきてもらう。
やはりというか、なんというか、音符以外は無視されていて…。
 
「これ、なんだっけ?」
「スタッカートきごう」
「どうやって、弾くんだっけ?」
「ゆみをとめて おとをきって ひく」
「よし、やってみよう」
 
不思議だ。セオリー通りに弾いても、
イメージなく弾かれるスタッカートはスタッカートにならない。
 
という訳で、「こんな感じだよ」と弾いてみせると、
そうだったそうだったと、彼は照れ臭そうに弾き始める。
…で、すぐ、できる。ということは。
「スタッカートのイメージ希薄」…メモに付け加える。
 
さて。
これを繰り返すことで、彼はスタッカートを覚えてくれるだろうか?
今、ここで、スタッカートの弾き方を徹底すべきだろうか?
それとも、スタッカートに特化した課題を出すべきだろうか?
 
またまた、厳しい選択の時間がやってくる。
 
 
プロのプレーヤーの日常を想う。
披露しなければならない曲の練習に、費やせる時間は少ない。
そんな中、初めて弾く曲も少なくない。久し振りに弾く曲もある。
十分な練習時間が取れないとき、どうやって弾いている?
答え=基礎力&応用力を駆使して弾いている。
決して、「適当に」「それ風に」弾いている訳ではない。
 
自分は今、どれくらいの数の武器を持っているのか?
それらは、どんな能力を持つ武器なのか?
その武器の使い方を知っているか? 全部使いこなせているか?
どんな場面で使うのか? 武器の選択は間違っていないか?
 
曲を仕上げることだけが大切なのではない。
その過程で得たものが大切なのだ。
 
すぐにできない。なかなかできない。全然できない。
モヤモヤする。ムカムカする。イライラする。
したり顔のストレスの圧力に、ひたすら耐える。
 
できないことは、悪いことではない。
時間が掛かることも、悪いことではない。
だから、つい、言ってしまいそうな台詞を封印する。
「どうして、できないの!」
 
「できる」というのが「完成」という意味なら、
この世界にあっては、一生辿りつかない場所。
「できた」という言葉が、危険な安心を与えてしまうのなら、
安易に使ってはいけないのかもしれない。
「よくなったね」が正解? 褒め言葉も難しい。
 
そういえば、先生に褒められたこと、あまりないんだよなぁ。
 
 
長く生きてみれば、
「不器用」と言われながら、諦めず地道な積み重ねをしてきた人たちが、
いつの間にか太く長い根を張り、大きな花を咲かせている。
 
『小器用さ』からの脱却。それはそれで、
その過程は、悪くなかったと思っている。
すべてをやり直したことが、今の自分に繋がっているから。
師に感謝するばかりである。
 
そして、同じものを何度も勉強し直すことの大切さも知った。
音楽の深さが分かる。ヴァイオリンの深さが分かる。
自分が分かる。自分の成長も分かる。
 
下手にあっちこっちとやたら手を出して、
自らを混乱させる必要はないのだ。
 
できないこととの遭遇。
できないセンサーをOFFにして気付かない振りもできる。
でも、
明日はできるようになるかな。いつできるようになるかな。
そんなワクワクがないのも寂しい。
 
「ボクもおっきくなったら、ヴィブラートできるようになる?」
 
なるよ。だから いっしょに がんばろうね。

ヴァイオリン弾きの手帖

ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃

第65回 「できた!」「何が?」

© 2014 by アッコルド出版