「この曲、いい曲ですね! 大好きです!」
宿題にしておいたエチュードの楽譜を開きながら、
楽しくて仕方がないオーラをキラキラ煌めかせ、
満面の笑みで、お弟子さんが言う。
彼女が好きだと言ったのは、カイザーの1番だ。
あの『練習曲』のカイザー《Etudes op.20》だ。しかも1番。
今回からカイザーを練習プログラムに組み込んだのだが、
それが練習曲だと彼女に告げていなかっただろうか?
ヴァイオリンを弾いてみたい、そう思ったきっかけが、
アイリッシュフィドルだった彼女は、
クラシック関係のヴァイオリン情報には詳しくない。
カイザーがどちらかというと「嫌われ者」の『練習曲』だと、
知らないのかもしれない、そう考える。
「カイザーを好きだと言ったのは、あなたが初めてかも」
「え? どうして? いい曲ですよね?」
でもカイザーだよ、練習曲だよ、1番なんてただ8分音符が並んでいるだけだよ、
こんな曲だよ、そう言おうとして言葉を飲む。
いつから、練習曲は感想の対象に値しないと思い込んでしまったのだろう?
それは大きな偏見だ。絶対によくない先入観だ。
考えてみれば、クロイツェルには好きな曲が何曲もある。
ローデ然り、ドント然り、フィオリロ然り、…。
思い出した。学生時代、クロイツェルの42番を好きだと言ったら、
「変な人、『練習曲』なのに」と笑われたのだった。
でも、好きなんだ…そう言い返したかった。でも、できなかった。
心の奥底でそんな自分を恥じた。若かりし頃の遠い記憶。
☆
拙い手で、カイザーを弾き始めた彼女は、
思うように弾けないことに渋面を作りながらも、
本当に楽しそうに弾いている。
あんな風にカイザーを弾いたこと、あったかなぁ。
なんだか、とても羨ましくなる。
レッスンの終わった後、おもむろにカイザーを引っ張り出す。
彼女みたいに、弾けるだろうか?
真っ白な気持ちで弾くというのは、案外難しい。
楽しんで弾くのは、もっと難しい。
―“練習曲”
師に倣い、物心ついたときから「エチュード」と呼んでいる。
フランス語出身の、この言葉の響きは好きだ。
でも、この言葉ほど『エチュード』が好きだったろうか?
ただただ「あげる」ことを目標に弾いてはこなかったか?
『エチュード』と『楽曲』を変な風に差別化していなかったか?
“教師”という職にある人が、我々学習者のために、
心と技を尽くして書き上げた“練習曲”。
そこにある愛を理念を、しっかり受け止めているだろうか?
とはいえ『練習曲』は、やはり『練習曲』。
テクニック教本に比べれば、十分に音楽性を有しているが、
日頃『楽曲』として聞いている曲達と比べれば、
非常に音楽的かというと、そうではない気がする。
いや、そうだろうか。師の言葉を思い出す。
「ちゃんと音楽だって分かってる? 音楽的に弾こうと思ってる?」
「書いてあることを書いてある通りに弾けばいいと思っていない?」
音楽的に弾かずして、音楽的に聞こえる訳がない。
弾き手が楽曲の完成度を言うのは、自分の拙さを認めるようで、
恥ずかしくもあり、悔しくもある。
技術的に弾けるのは当たり前、勝負はそれから。
『練習曲』を高く掲げて、そうシュプレヒコールを挙げてみたいものだ。
☆
カイザーを通し終わった、ちっちゃなお弟子さんに聞いてみる。
「何に気を付けて弾いた?」
「まちがえないように」
「それから?」
「おんてい」…首を傾げると、彼は可愛い指を折り始める。
「ぼういんぐでしょ、ゆびづかいでしょ。あ、おっきいちっさい」
その姿勢は、ある意味正しい。そのための『練習曲』。
フォルテと書いてあれば大きく弾き、ピアノと書いてあれば小さく弾き、
スラーが書いてあれば繋げて弾き、スタッカートが書いてあれば切って弾き、
アクセントが書いてあれば…、テヌートが書いてあれば…。
いやいや、それでいいはずがない。
ふと、全く違う疑問が、頭に浮かぶ。
我々がよく『エチュード』として使う曲集に、
“カプリス”というタイトルを持つものがあるのは何故だろう?
― caprice(仏・英)) capriccio(伊)
「気まぐれ」や「わがまま」と言った意味を持つ語彙だが、
(パガニーニの《24 Capricci》にはそんなイメージもある?)
音楽用語となると、別のニュアンスを持ち始める。
「形式に囚われず」「自由奔放」で「即興的」、
「ファンタジック」で「ファンタスティック」、
「表情豊か」で「変化に満ち」「躍動感がある」、
「アクロバティック」で「センシティブ」。
多彩な演奏表現を得るための、そのための“練習曲”。
技術習得に固執し過ぎてはいないだろうか?
技術は表現のための手段にしか過ぎない。
手段が目的にすり替わることは少なくない。
不安になる。
先の質問は、弾くときには何かに注意して弾くものだと、
暗示を掛けることになってはいなかっただろうか?
☆
面白くないのは、楽しくないのは、好きじゃないのは、
思うように上手く弾けないからだ。
辛いのは、なかなか上手くならないからだ。
悲しいのは、叱られるからだ。
「できるようになるまで続けて、やめてはダメよ」
今思えば、泣きながら漫然と繰り返す練習が、
効果的だったはずはない訳で、師や親が言うそれは、
一種のメンタルトレーニングだったのだろうと推し量る。
そうして、ずっと、大きな勘違いをしていた。
練習というのは「できるようにすること」が目標なのだと。
でも、師はそうではないと言う。それはまだまだ途上なのだと。
「できたと思って、ホッとしているでしょう。
できてから最低5回(できれば7回)、
できた状態で続けて繰り返せないと、
それは本当にできたとは言わないのよ」
『練習』という名の下、特に何を考えることもせず、
同じ場所で同じようなミスを、何度も何度も繰り返していると、
その不安定な状態がインプットされてしまい、
正しい状態にすることが、より困難になるという。
そして、止まることを繰り返すことで、「止まり癖」が付く。
この「止まり癖」は厄介で、(お子さんに多い)
下手をすると、止まっていることにさえ気付かなくなる。
意味のないトレーニングが危険なように、
意味のない練習は危険だ。
練習曲は何らかの運動に特化しているから、
なお、危険だ。
☆
躓くのには、必ず理由がある。
地面に問題があるのか、靴に問題があるのか、
歩き方に問題があるのか、身体に問題があるのか。
弾けない理由を考える。
何度も間違えてしまう理由を考える。
フィンガリングが合っていないからなのか、
ボウイングが理に適っていないからなのか、
右手が問題なのか、左手が問題なのか、
右手と左手を分離できていないのか、
右手と左手がシンクロしていないのか、
必要な筋肉ができていないのか、
…すべきは、トレーニング。
神経が繋がっていない(コントロールできていない)のか、
…すべきは、プラクティス。
それは、
ずっと繰り返し行わなければならないものなのか。
一度できるようになれば繰り返す必要のないものなのか。
エチュードで学びたいことを確認する。
エチュードで学べることを確認する。
エチュードは、よくできている。
楽曲として楽しむこともでき、同時に、
多くのものを得られるように書かれている。
使い方さえ、間違えなければ。
テクニック教本やエチュードを選ぶとき、
教師はひどく慎重になる。
楽曲で生徒を壊すことはないが、練習曲ではあり得るから。
☆
楽しいばかりのアンサンブルの練習では、
1時間2時間なんてあっという間だ。
一人で練習しているときでも、
好きな曲を弾いているとき、成果が確実に上がっているときは、
時間が足りないと感じることはあっても、苦に思うことがない。
(なんて現金な奴なんだ。笑)
友人は、「『邪な心』がないから」と笑う。
「上手く弾けないんじゃないか」という不安、
「上手く弾かなきゃ」という妙な使命感、
「上手く弾こう」という欲張りな考え、
とかく邪心があると、情けないかな、大抵失敗する。
分かってはいるが…である。
それやこれやで、以来、
エチュードを宿題に出すときには、
必ず「お手本」を弾くようにしている。
何に気を付けて弾いているかって?
そりゃもう ―「カッコよく弾くこと」
…だよね。
ヴァイオリン弾きの手帖
ヴァイオリニスト、ヴァイオリン教師 森元志乃
第64回 エチュードの呪縛


